リンカーンの国から

 

(28) 1854年再び政界へ

 

 

1854年5月30日、連邦議会でカンサス・ネブラスカ法が成立した。イリノイ選出の民主党上院議員スティーブン・ダグラスが尽力した法案である。弁護士業に専念してはいたが、国政には目を配って、イリノイの老練な政治家として、ホイッグ党候補者の選挙運動を手伝ったりしていたリンカーン。怒って、再び政界に入ることを決意した法案でもある。

 

1820年のミズーリ妥協案は、ミズーリを奴隷州とするかわりに、1803年のルイジアナ購入で得た36度30分以北のすべての領土では奴隷制を禁止することを決めていた。ところがダグラスは、西部の大草原の場合、決められた境界を無視できると考えた。カンサスもネブラスカも、どちらも36度30分以北の"北部"に位置するが、このカンサス・ネブラスカ法を成立させることで、ミズーリ妥協案をほごにし、これまで"自由"の地とされてきた北部の巨大な土地に奴隷制を導入する可能性を開こうとしたのである。

 

 一応北部の怒りも想定したダグラス。1つではなく、2つの準州、カンザスとネブラスカを作りだし、最初から両方の準州とも奴隷制を禁止するようなことはせず、あとでその住民が奴隷制を維持するかしないかを投票で決めるようにしたらいい、と提案したのである。カンサスには隣の奴隷州ミズーリから奴隷制賛成論者が集まるだろう、ネブラスカにはオハイオやイリノイなどの自由州から奴隷制反対論者が多数集まるだろう、そこで住民投票すれば、うまくカンサスは奴隷州に、ネブラスカは自由州になって、国政のバランスはとれるだろう、と考えたのである。さすが知恵者だあ。。それも、住民自治という見栄えのいいもので飾ってあるではないか。

 

 ところが、選挙となると、ネブラスカのほうは筋書きとおりに事が運んだが、カンザスでは破局的な展開となった。奴隷制賛成・反対両派がカンサスに押しかけ、流血騒ぎとなったのである。武装したミズーリ州民5000人が押しかけ、奴隷制反対の言葉を吐くことも犯罪行為とする準州議会を設立、反対論者が怒って暴動となり、殺人行為も呼びこんだ。

 

 実は、ダグラス自身が、この法案は「嵐の地獄」を呼ぶだろうと予想していた。予想していたのに、なぜ押し切ったか。自分の影響力と能力を過信しすぎたのではあるまいか。奴隷制反対勢力は当然過激に反応、長年奴隷制をめぐって分裂していたホイッグ党は分裂、民主党員も数千人が党から離脱、という事態となった。ホイッグ党員、党から離脱した元民主党員、廃止論者、自由土地党員などがウイスコンシンやミシガン、ワシントンDC,イリノイ州オタワやロックフォードで会合を開き、共和党の地盤をつくりはじめた。

 

 奴隷制には反対したが、奴隷制廃止論者ではなく、南部には既存の制度を維持する権利があると考えていたリンカーン。新しい土地に奴隷制を導入することはモラルに反すると考えた。アメリカの建国者たちは、奴隷制を新しい土地に導入することなく、奴隷制がいつか絶滅することを理想とした、と考えていたからである。

 

 カンサス・ネブラスカ法成立で雷に打たれたように感じたリンカーン、再び政界に積極的に関わりはじめた。そして、1854年秋の選挙で、イリノイ選出ネブラスカ法案反対派の強硬派連邦下院議員、リチャード・イェーツの応援をはじめるとともに、ホイッグ党勢力拡大のために、いっしょに仕事をしたこともある弁護士スティーブン・ローガンと州議会選にでることにした。

 

 ダグラスは、イリノイに戻ってきて、支援者に法案への理解を求める。「私は、私の姿をした呪い人形の閃光で、ボストンからシカゴまで瞬時にやってくることができるのだ」おお、すごい自信家だあ。。政治家とはこういうものかあ。秋になると、ダグラスは、ぺオリアやブルーミントン、スプリングフィールドなどで法案擁護の演説を行ったが、同じ日に同じ町で、リンカーンはダグラスを厳しく追及、攻撃する演説を行っている。いよいよ火花が散り始めた。11月、リンカーンが応援したイエーツは落選したが、リンカーンとローガンは州下院議員候補に選ばれた。が、連邦上院議員を狙っていたリンカーンは辞退、が、上院議員も無理と分かると、自分の支持者を、ネブラスカ法反対論者の民主党員ライマン・トランブルに送りこむ。が、翌1855年、州議会は反対候補マッツソンを連邦上院に送りこんだ。

 

 1856年2月あたりから、ネブラスカ法反対集会が活発に開かれるようになり、リンカーンは新党結成をめざす。1840年代に奴隷制反対派が作った自由土地党は、民主党やホイッグ党の奴隷制廃止論者の強硬派と合流して、1854年共和党を作っていた。が、リンカーンは、この共和党は過激すぎるとすぐには入党していない。しかし、ホイッグ党の弱体化を見て、1855年終わりまでには考えを変え、新しい党の必要性を感じていた。奴隷制の拡大を阻止するために、あらゆるグループの大同団結をはかろうと、リンカーンが主になって作ったのが反ネブラスカ党、そこから発展・誕生したのが新しい共和党である。4度目の大統領選選挙人となったリンカーンは、共和党の選挙運動で、精力的に50回以上のスピーチをしている。1856年5月29日にはイリノイのブルーミントンですばらしい演説を行ったそうだが、記録は残っておらず、「ロスト・スピーチ」と呼ばれている。

 

 6月19日、フィラデルフィアで開かれた第1回共和党全国大会の非公式な副大統領候補選挙で、リンカーンは110票を得て、全米に知られるようになっていく。共和党の候補者、ジョン・フリーモントを熱心に応援、懸命の努力にもかかわらず、民主党のジェームズ・ブキャナンが大統領に当選した。リンカーンの心の中では、ふつふつと、強くなりはしても、決しておさまることのない闘争心が燃えていたに違いない。

 

 1857年3月、ブキャナンの大統領就任式の2日後に、連邦最高裁は"恐ろしい"判断をおろし、南部と北部の対立は決定的となり、激化する。

 11月に大統領に選出されたブキャナン、友達の最高裁判事に手紙を書いて、判事の1人、グリー(北部人)にプレッシャーをかけ、判断が派閥で決まったように見えないよう、南部出身の判事たちに加わるよう働きかけたとか。奴隷制反対派と賛成派とを公平に代表させようという中道派の意図をもっていたが、すでに動き出していたエネルギーをもう止めることはできなかった。