リンカーンの国から
(55)南北戦争―1862年
1862年、北軍の戦況はかんばしくなかった。つまり負けていたのである。リンカーンもさんざん批判にさらされ、波乱万丈の一年となった。
2月5日、一家は500人もの客を招く豪勢なパーティを予定していた。ホワイトハウスの改装が終わり、メアリはみせびらかしたかったのである。ところが、マーフィーの法則というか(笑)、その夜、三男で12歳のウィリアムが発病した。一度はパーティのキャンセルも考えたが、やっぱり顔をのぞかせるエゴは否定しがたかっただろうし、医者のアドバイスもあって、二人は予定通りパーティを開いた。それでもやはり心配で、二人はパーティをひそかに抜け出しては、何度も息子の様子を見に行った。その夜遅く、四男のタッドも同じ症状を見せはじめた。当時は奇病とされたが、今では、ホワイトハウスの水か外部の水か、とにかく汚染された水を飲んで、発熱したと考えられている。そのうちタッドは回復したが、ウィリアムの病状は悪化した。
2月20日、看病のかいなく死亡。1850年、次男のエドワードが結核らしき病気で3歳で死んでから10ケ月後に生まれたウィリアムは、死んだエドワードの生まれかわりのようにして育てられた。数学と読書、そして鉄道の時刻表を覚えるのが好きな、知的で思慮深い少年はウィリーと呼ばれ、自分に似ていると、リンカーンのお気に入りだった。息子の死をリンカーンは、閣僚たちに大泣きして告げたとか。妻メアリは、その後精神に異常をきたし、完全に正気に戻ることは二度となかった。2月24日、葬儀が、少年が遊ぶのが好きだったホワイトハウスのイーストルームで行われた。お気に入りの息子を失った悲しみを忘れるために、戦争はちょうど都合がよかったのでは、とまで言えば言いすぎだろうか。リンカーンは、悲しみから逃れるようにして、大統領の職責を必死で果たそうとしただろうと想像するのだが。。。3月11日、敗走する将軍たちにうんざりしたリンカーンは、自らが北軍の総司令官となった。いやなニュースばかり持ち込まれてうんざり、といったところだろうか。(笑)
このころである、日本人がリンカーンに会って握手したのは。英語名ジョセフ・ヒコ、日本人として初めてアメリカに帰化した浜田彦蔵である。
1837年、兵庫県播磨郡小宮村生まれの彦蔵は、江戸に向かう途中、船が難破し漂流、アメリカ商船オークランド号に救助され、サンフランシスコに上陸した。それが1851年3月のことである。以後、攘夷論が渦巻いていた維新前の日本とアメリカの間を行ったり来たりしている。サンフランシスコで税関長をしていたサンダースとの出会いが、彦蔵の運命を決めた。やっぱり「出会い」がすべてである。1853年9月15日、フランクリン・ピアース大統領と会見、サンダースの援助で、ボルチモアのミッションスクールで学校教育を受け、1854年にはカトリックの洗礼も受けた。1858年1月9日にはジェームズ・ブキャナン大統領とも会見。同年、日米修交通商条約で日本は開国したが、キリシタンでは帰国できなかったので、58年6月、日本人として初めてアメリカに帰化した。つまり「アメリカ人」になったのである。その後、駐日公使ハリスとともに神奈川に入港、領事館通訳として働いたり、貿易商館を開いたりしたが、尊皇攘夷が激しく、身の危険を感じて、南北戦争勃発さなかの1861年10月20日、アメリカに戻ってきたのである。
それでもやっぱり日本に帰って、仕事がしたかった彦蔵。なぜだろうか。もうアメリカ人なんだから、アメリカに腰を落ち着ければよかったのに。。日本から帰ってきたばかりだというのに、また日本での仕事をもらおうと、サンフランシスコの有力者たちの推薦状をもって、すぐに船でワシントンに向かった。1861年12月14日の朝、サントドミンゴ島あたりで、南軍の船と遭遇。彦蔵が乗っていたニューヨーク行きの郵便船「チャンピオン」は、いったんは北軍の船と間違われたが、無事に事なきを得て、1862年1月7日、彦蔵はワシントン入りした。夜、町に戒厳令がしかれているのを知らず、兵隊にライフルをつきつけられたり、アレキサンドリアでは、敵と間違えられて逮捕までされた彦蔵。戦時中でみんな何かと殺気だってるのに、うろうろしてるからだよ。(笑) 再びワシントンへ出向き、今度はリンカーンの側近、戦争省のスウォード長官と面会、仕事の斡旋を頼み、逮捕された話もした。長官笑って、非常事態だから、よくある話だ、それにしても、将軍に間違われるとは名誉なことだ、と笑ったそうな。さすが長官、器が違いますなあ(笑)
そして3月12日、スウォード長官に連れられて、ヒコは、ホワイトハウスでリンカーンに面会した。その時の様子である。(シラキュース大学所蔵 narrative
of a japaneseより)
「我々は、大統領の執務室にはいった。黒いフロックコートを着た大統領はひじかけ椅子に座り、足は目の前の机の上に、かかとを交差させて乗せていた。めがねは額において、手にいっぱい書類をもち、近くに座った、軍のオフィサーの話を我慢強く聞いていた。書類は、大統領の横の机の端にもたくさん積みあがっていた。部屋に入ると、大統領は私たちを見た。スォードは私に椅子を指し示し、座るように言った。彼はテーブルに行き、新聞をとりあげ、近くのソファに座り、読み始めた。
私は部屋を見回し、大統領と話しているオフィサーをながめていた。ときどき聞こえてくる言葉の端々から話を判断するに、どうやらそのオフィサーは、上官から突然解雇された騎兵隊のコロネルのようだった。解雇が不当だから、大統領にとりなしてもらい、もう一度職に戻してほしいと請うていた。大統領は、彼の長い弁舌に、苛立ちを隠しているように見えた。しばらくすると、そのオフィサーに顔を向けて言った、「今までずっと聞いてきたけれど、あなたは、私が今まで話を聞いた人の中で、一番くどいなあ。」
これを聞いたオフィサー、椅子から飛び上がり、震える指で書類を集め、急いでそれらをコートのポケットにつっこみ、そして言った、「大統領、あなたが今おっしゃったことを心から感謝します。失礼します(の意味で、goodmorningと去り際に言ったのだろう)」「よろしい」と大統領は応えると、コロネルはドアから飛び出して行った。男がいなくなると、大統領は立ち上がって、私たちのところにやって来たので、私たちは立ち上がった。
「ご機嫌いかがかな、スウォード君」と大統領は声をかけ、スウォードと握手した。スウォードが、「私の若い友達を紹介させてください。日本人のヒコさんです」と言うと、大統領は大きな手を差し出し、非常に親しげに私と握手して、日本のような遠いところから来た人に会えてうれしい、と言った。そして、日本のことをいろいろ質問した。そのあいだに、財務省長官のチェース氏や、海軍長官も部屋にはいってきたので、私は、時間をとって会ってくれたことに感謝して、いとまを告げた。」 リンカーンさん、日本がどこにあるのか、知っていたのかな。(笑)
リンカーンは、南北戦争の指揮と奴隷解放で知られる人間である。1862年は、4月16日に、ワシントンDCでの奴隷制を廃止する法案に署名、6月19日には、準州で奴隷制を禁止する法に署名している。しかし、それ以外にも、アメリカの将来を決めるいくつかの大事な法案にも署名しているのである。その一つが、5月15日に署名した農務省設立法案だろう。
小さいときから、自らがフロンティアの農作業で苦労したリンカーン、食料生産が大事なこと、それも戦時中とあれば、「腹が減っては戦ができぬ」という兵士の気持ちを、一番身をもって知っていたのではあるまいか。(笑)農業の経験がなく、農業なんてまったく呼吸と同じ、すべて自然の賜物と思っていた他の閣僚たちとは全く違う視点をリンカーンはもっていた。それに、アメリカの労働人口の半分以上が農民だった時代、政治家リンカーンは、有権者の満足も考えたに違いない。農民を味方につけよう、戦後の経済のことも考えねば。。さすが、リンカーン、読みが深い。というわけで、最初の農務省長官には、毎週ホワイトハウスに新鮮なバターを納入していたペンシルバニアの農民、アイザック・ニュートンが指名された。ふ〜〜〜ん、バターが決めてか。(笑)ニュートンは、1867年まで長官を勤め上げて、アメリカ農業の発展に努めた。
5月20日には、連邦ホームステッド法にも署名した。大西部の手付かずの土地で5年間働き、農地に改良したら、登記所で申請書を出し、10ドルの登録費を払うだけで、160エーカーの土地が自分のものになるという法案である。映画「Far
and Away」の世界である。これで、ミシシッピ河以西に数千人の入植者が渡り、西部開拓が一挙に進んだ。そして、鉄道や農業が発展にし、それはそのままアメリカの経済発展につながっていった。が、申請者はもちろん北軍に忠誠を誓うものでなければならず、北軍に向かって銃を一度でも向けたものは除外されたし、南軍の人間は完全に拒否された。南北戦争に従軍したものは、従軍が1年ごとに5年の条件が短くなり、亡くなった兵士のの残された家族も、5年の条件が短くなった。おかげで、北軍に志願する人間が増えた。ホームステッド法は経済問題であると同時に、兵士募集の強力なツールだった。やっぱりリンカーン、すごいなあ。。一挙両得ではないか。
7月1日 30万の義勇兵を募ると同時に、戦費を捻出するために、所得水準に応じた所得税の徴収を始めたのもリンカーンである。1万ドルもしくはそれ以下は3パーセント、それ以上は5パーセント、標準控除も導入され、最初の600ドルまでの収入は所得税が控除された。源泉徴収、所得に応じた税率、標準一定控除、IRSなど、今日まで続いているシステムを作ったのがリンカーンである。
翌7月2日には、モリル・ランド・グラント・カレッジ法に署名し、連邦の土地を、農業や工業技術を教える大学を作るために州や準州に寄付することを認めた。これで、リンカーンはアメリカの公教育を永遠に変えた。勉強したくても、経済的にまた地理的にできなかった学生たちに勉強の機会を与えたのである。このモリル法により、76のランドグラント大学が全米に誕生した。ユニバーシティ・オブの大学システムである。
リンカーンにしてみれば、自分が若いときに勉強したいと、本を読んでいたら、父親に叱られたことがよぎったかも知れぬ。連邦政府が高等教育を援助することは、短期的にも長期的にもアメリカにとって利益をもたらしてくれるだろう。戦後の南部の再建も彼の視野に入っていたかも知れない。奴隷制を廃止させるとなると、南部の白人たちは自分たちの経済を立て直しするために新しい教育が必要になるだろう、それは農業のはずだ、という読みである。さすがあ、リンカーン。 これはもしかして奴隷制廃止以上のすごい仕事ではあるまいか。
8月になると、今度は西からとんでもないニュースが飛び込んできた。ミネソタから、スー族が反乱を起こしたという知らせである。もともとダコタもしくは東部スー族は、アッパーミシシッピバレーの広大な土地を支配していた。1851年から58年のあいだに結んだ政府との条約で、スー族の土地は、ミネソタ川に沿って、幅20マイル、長さ140マイルの土地に縮小してしまっていた。小さくなった土地にしがみつき、生き残るためには条約が約束した配給に依存せざるをえなくなっていた。といっても、白人官吏がきっちり支払いをするわけがないではない。ダコタ族をアメリカ人に同化させようとしていたインディアン局の官吏は、農業に携わるインディアンには配給を配ったが、狩を続ける伝統派は無視した。白人に土地を奪われて、飢えや病気に苦しみ、6000人のインディアンたちが困窮生活を強いられ、みんな怒りをくすぶらせていた。マイリックという白人官吏は、腹が減ったら、草か自分の糞でもたべてりゃいいだろ、と言ってのけた。
その夏、4人の若い、空腹のダコタの戦士たちは、狩から帰ってくると、自分たちを侮辱した5人の白人を殺した。武器で脅せば、白人は逃げていくだろうと考えた若い戦士たちの思い違いを、リーダー格のチーフ・リトル・クロウはよく知っていた。が、空腹の仲間たちが先制攻撃をしかけてしまったとなると、もう逃げようがない。やるしかない、と、チーフ・リトル・クロウは、ダコタの人々を率いて反乱を起こした。8月18日、ローワースーインディアン局を襲い、マイリックを殺し、口いぱいに草をつめこんだ。入植者たちはパニックに陥り、ジョン・ポープ将軍は、スーを皆殺しに、絶滅させてやると宣言。戦闘は、それから1ケ月後の9月26日まで続いた。そして女子供、年寄りを含む約2100人のダコタ族が軍にとらえられた。そのうち、392人のインディアンについて、裁判が行われた。1人あたり10分から15分で、一日に42人もの被告が裁判にかけられた。最終的に323人が起訴され、303人に絞首刑が言い渡された。
このころリンカーンは、ホワイトハウスにいるといろいろ邪魔がはいって、考えがなかなかまとまらないからと、戦争省電信室に毎日やってきては、「奴隷解放予備宣言」の草案を書いていた。もともと連邦を救うための戦争であり、奴隷制の是非は問わないとしていたリンカーン。戦争が始まると、南部諸州が連邦に戻るなら、奴隷制を維持してもいいとまで譲歩した。しかし、戦争が長引くと、南部の連邦復帰は絶望的で、ただただ戦争に勝つしかないと知ると、「政治的妥協としての奴隷制維持の意味がない。。。戦争を続行し、戦争に勝つためには奴隷制廃止を宣言するほうが有利」(内田義雄「戦争指揮官リンカーン」141,142ページ)と判断したのだった。
戦場では、8月末に第二次ブルランの戦いが行われ、北軍は敗北。9月17日には、メリーランド州のアンティータムの戦いで、両軍は終日戦い、北軍の死傷者一万2千四百、南軍の死傷者1万三千七百、一日の死傷者としては、南北戦争最大の犠牲者を出した日だった。
9月22日、リンカーンは、「奴隷解放予備宣言」を新聞紙上で発表した。まず戦争続行の意思を明確にし、次に奴隷州で連邦にとどまったメリーランド州、デラウェア州、中立を宣言したケンタッキー州、ミズーリ州に対して、自発的に奴隷を解放すれば、連邦政府がそれに見合う補償金を払うと宣言、連邦を離脱した南部11州に対しては、1863年1月1日をもって、その地域の奴隷は永久に解放され保護されるとした。(内田147ページ)
リンカーンは忙しい。奴隷解放は考えねばならないわ、インディアンのことも頭が痛かった。ミネソタで、303人ものダコタ族に下った絞首刑という判決に、リンカーンは悩んだ。自分の許可なくしては処刑をするな、と命令を出し、自分の部下に、裁判記録を見直すよう命じた。そして、裁判が実にいい加減なことを発見した。そら、そうだろうなあ。相手はインディアンだよ。(悲)、最終的にリンカーンは、"戦闘"というより"虐殺"を行ったと思われるインディアンを死刑に処することに同意して、303人のうちから38人だけを絞首台に送ることにした。「これ以上の反乱をおこすことのないように、これ以上の温情も、また残酷なほどまでの厳格さをもつこともないようにして」、両者間でバランスをとろうと細心の注意を払ったリンカーン自身が、この事件について再び語ることはなかった。ワシントンから見て、中西部ミネソタはどんな感じだったのだろうか。
リンカーンと握手したジョセフ・ヒコは、10月13日、再び日本に戻り、領事館通訳となっている。
12月2日、「アンクルトムの小屋」を書いたハリエット・ビーチャー・ストウ夫人が、妹のイザベラと娘のヘイティといっしょに、ワシントンにやってき、ホワイトハウスのリンカーンを訪ねてきた。女三人、かなり楽しい思いをしたようで、夫たちに書いた手紙の中では、ホテルに戻ってきて、叫び声をあげて大笑いしたとつづってあるとか。小説は、1851年6月3日から1852年4月2日まで、奴隷制反対新聞「ナショナル・エラ」に連載され、1852年に本になると、最初の5年で50万部を売る大ベストセラーとなった。南北戦争中は、北軍の兵士たちは、自分たちのリュックサックにこの本を入れて、奴隷制を終わらせるために戦場へ向かったという美談が伝えられた本である。ばっか、そんなこと、あるはずないだろ。。。(笑) ハリエット自身は、連邦の維持を最優先にしたリンカーンを、とろとろしている、とかなり批判していたらしい。冷たく寒い日、ホワイトハウスの執務室で、暖炉の前に座っていたリンカーン、スウォード戦争省長官にストウ夫人らを紹介されて、「お会いできてうれしいです。あなたのようなかわいい人があの本を書いて、南北戦争を始めたんですね」と、いたずらっぽく言ったらしい。それから、暖炉の前に座りなおして、「暖炉の火が好きです。家にいつもありました」とつぶやき、それからストウ夫人に聞いた、「そう、ストウ夫人、奴隷解放のことをどうお考えになりますか。」
ライターのストウ夫人は、リンカーンをじっくり観察していた模様。リンカーンの強さは、攻撃的なものではなく、受身ながらすべてを吸収し、すべてから影響を受けながらも、最善のものを選んでいける力がある、岩の強さではなく、曲がっていても力をもつケーブルの強さだ、と。要するに、リンカーンは「柳」ということだ。
12月26日、ミネソタ州マンカトでは、インディアンたちの死刑執行を見ようと多くの人間が集まってきた。騒動がおきないようにと、なんと戒厳令が敷かれたという。静かな威厳をもって絞首台にあがったダコタの戦士たちは、死の歌を謳いながら、死を受け入れた。一斉に38人が絞首刑に処されたのは、アメリカ史上最多の数だという。
12月31日、ウエストバージニアを北軍に加入させる法案に、リンカーンはなぜだかいやいやながら署名した。お疲れさまでした。(笑)
ジョセフ・ヒコの生まれ故郷、兵庫県は私の故郷でもある。播磨町の海岸には、大きなクレーンと船が並んでいた。造船所だろうか。そういえば昔、播磨工業地帯と社会科の時間に習ったような気がする。浜田彦蔵も毎日、船に乗って、この海の向こうの世界を想像したに違いない。海を臨む地に、「生誕の地」の碑が立っていた。播磨町役場の前には、ヒコの胸像が。お寺には、ジョセフ・ヒコが両親のために建てた墓もあった。墓の裏面には、英語でERECTED
MEMORY PARENTS & FAMILY JOSEPH HEKO DECEMBER 1870とある。神戸市兵庫区にある、兵庫大仏で知られる能福護国密寺には、ヒコが作った寺の縁起を説明した碑がある。漢文の説明分からず、でもヒコさんの英語は分かるーONE
THOUSAND YEARS OR MORE AGO BY REQUEST OF THE EMPEROR SENRYO DAISHI BROUGHT OVER
FROM CHINA THE RELIGION OF SHAKA OF INDIA. THE FIRST TEACHNGS OF THIS RELIGION IN HIYOGO WERE TAUGHT
AT THIS
英語ができる人はいなかった時代、ヒコさん、東奔西走、忙しかったようだ。今は、漢文より英語である。これは一体どういうことだろうか。(笑)