リンカーンの国から
(56)南北戦争―1863年
1863年1月1日、とうとう「奴隷解放最後布告」(高木八尺訳「リンカーン演説集」岩波文庫140ページ)なるものが出た。「最後布告」、つまりこれまでも「解放布告」は何度でも出てきた。「最後布告」とは、去年の1862年9月22日に、1863年1月1日になったら、こういうことをやるぞ、と言っただろ、なったから、じゃあやりまっせ、という感じだ。(笑)「故にここに、大統領は、合衆国の権威と政府に対する現実の武装反乱の時に際し、合衆国陸海軍総司令官として私に与えられた権限により、かつまたその反乱を鎮圧するための適当にして必要なる戦争手段として、本日。。。」として、まず、謀反をなしている人民のいる州を指定した。それから
1 以上に指定した州及び州内の地方において奴隷として所有されているすべての者は自由であること、また今後自由なるべきことを、私はここに命令し宣言する。また合衆国陸海軍の権限をあわせもつ合衆国行政政府が、上記の人々の自由を承認しこれを支持することを、私は命令し宣言する。
2 私はさらにかくのごとく解放を宣言せられた人々に対し、自己防衛の必要によらざる限りは、あらゆる暴力を避けるように命令する、そして許されたる時には、あらゆる場合に、適当に賃金をうけて忠実に労働するよう勧告する。
3 私はさらにかかる人々にして適当な条件を備えているものは、合衆国の軍隊に服務し、守備隊、要塞、陣営、駐屯所、その他の場所に、またわが軍のあらゆる種類の艦船に就役しうべきことを宣言し、告知する。
真に正義の行為と信ぜられ、憲法により軍事上の必要手段として許されているこの布告kに対して、私は人類が思慮諒察ある判断を下さんこと、また全能の神が恵のうちに嘉し給うことを切願する。以上の証拠として。。。(後略)」
初めて、よく言われるところの「奴隷解放宣言」を読んだ。「宣言」と「最後布告」とはぜんぜん違うよな。「宣言」だとまるで初めて発せられたような感じで、しかも国連憲章か憲法だか、抽象的な美辞麗句が並ぶだけの、なんとでも解釈ができる美しくも意味も力もない文章のようではないか。「最後布告」となると、「もうあとがない。最後通牒だ。やれるもんならやってみろ」と、まるで腹をくくったリンカーンが相手を挑発している感じだ。だって、はっきり書いてあるではないか。「その反乱を鎮圧するための適当にして必要なる戦争手段として」解放すると。そして解放された人は、暴力を振るうな、働け、軍隊に入れ、と。いらぬおせっかいなんだよ、解放されたら、家でぼおっとしている自由は与えられなかったのだろうか。(笑)
文庫本のカバーには、「奴隷に自由を与えることによって自らも自由を得ると確信し、奴隷解放という難事業の中心となって真摯に精力的に闘ったリンカーン」と書いてある。嘘つけ。。リンカーンは聖人ではない。単に何をツールにしたら自分が勝てるかを、その時の状況から敏感に判断して、ツールを実行する決断力・行動力そしてもちろん頭がものすごくいい政治家だっただけだ。(と言っても、私になれるわけではないが。笑)
さあ、もう積年の「ツール」をとうとう動かしてしまったとなると、あとはもう勝つためには手段を選ばぬ、という気分だったのではなるまいか。
戦争続行のためには、まず軍資金が必要である。昨年は、所得税源泉徴収システムを作り、紙幣も発行した。この年は、2月25日にリンカーンが、全米銀行システムを作る法案に署名。民間銀行に連邦政府が積極的に介入、州紙幣を発行している州立銀行を廃業に追い込み、国債をどんどん効率的に売って、お金を効率的に吸い上げていった。おかげで、北軍は戦費の20パーセントを税金でまかなうことができたのに対し、南軍は戦費のわずか5パーセントしか税金で調達できなかったという。この銀行システムの整備で、1836年のアンドリュー・ジャクソン大統領の時代から続いていた州政府をベースにしたシステムは消滅、連邦中央集権化が進み、今日の連邦準備銀行のシステムにひきつがれている。
軍資金が集まりはじめて、士気も上がりはじめただろうか。兵士たちを激励するためだろう、4月4日から10日まで、リンカーンは妻メアリと息子タッドを連れて、バージニアのポトマック軍の本部にフッカー将軍を訪ねている。その甲斐なく、翌月、フッカー将軍は敗走。南軍が軍事的にまだ北軍に勝り、南部連合独立のチャンスがあったのは1863年前半までだったとか。(内田義雄「戦争指揮官リンカーン」157ページ)が、戦闘では勝っていても、兵の消耗率では負けており、南軍の兵力補充も限界に達していた。南軍のリー将軍は、右腕だったジャクソン将軍も失って、とうとう最終決断をした。南軍に余力が残っているときに、北部の奥深くに攻め入ろうという作戦である。(166ページ)そのリー将軍を、どこにいようとなんとしてでも追い詰めろ、と命令を出したリンカーン。密やかに北上したリー将軍の軍隊。
6月30日午前、ペンシルバニア州の人口2400人ほどのゲティスバーグの町に、南軍の徴発隊が兵士の靴を調達に来て、偶然北軍の騎馬隊の存在に気がついた。えらいっこちゃ。まさかこんなところで。。だったろうな。(笑)7月1日早朝、両軍は衝突した。7月2日、両軍とも後続部隊が到着して、南軍は5万人、北軍は6万人で総攻撃。双方とも1万近い死傷者を出した。7月3日、朝早くから両軍はもっている大砲をすべて使って、互いに砲撃を繰り返した。午後3時、リー将軍は、北軍の陣地中央部への進撃を命令したが、その動きを予測し、待ち構えていた北軍の前に敗走。3日間の戦いで、南軍は3分の1以上の兵士を失い、敗北したというに等しかった。この敗北で南軍は二度と立ち上がれなくなり、ヨーロッパ列強による南部連合承認の絶好の機会も失われた。(183、184ページ)7月3日夜10時、南軍は退却をはじめ、4日午前5時、電信士がワシントンにゲティスバーグでの北軍の勝利の緊急電信を打電、午前10時、戦争省電信室からリンカーンが全国に戦勝を発表。くしくもこの独立記念日に、西からもまた"南北戦争の戦局を変える軍事的な勝利の朗報"(208ページ)がリンカーンに伝えられた。グラント将軍が難攻不落といわれたミシシッピ河の要衝ビックスバーグを47日間の包囲の末、陥落させ、南軍3万が降伏したのである。やったあ。。。(と、146年後に喜ぶ理由はどこにもなし。。笑)
7月30日、リンカーンは報復命令を発した、曰く「戦時法に違反して殺された連邦の兵士一人につき、その報復として反乱軍の兵士を処刑する。敵によって奴隷にされたり、奴隷に売られた者一人につき、反乱軍の兵士は公共事業の重労働につかせるものとする」きっちりと帳尻を合わせて、絶対に損はしないぞ、勝つぞ、という弁護士の顔がのぞいているような。。(笑)
夏以降、いよいよ戦争の流れは変わっていったのだろうが、それでもまだ戦争は2年も続くのである。なんで。。このころにリンカーンがホワイトハウスで会ったのが、奴隷解放論者のフレデリック・ダグラスである。1818年にメアリーランドで、奴隷の母とその主人だった白人マネージャーのあいだに生まれたダグラスは、1841年から奴隷解放を訴えて各地を旅行、講演するようになる。即時解放を求めた過激派のウィリアム・ロイド・ギャリソンと行動をともにしたこともあったが、やがて宗教色を強めていったギャリソンから決別し、政治による解放をめざすようになった。徴兵に応じる黒人の権利を認めよと、黒人部隊の創設にも尽力した人物である。全国を演説して回って、志願する黒人を集め、最初の黒人部隊となったマサチューセッツ第54義勇軍を作った。ダグラスの二人の息子、ルイスとチャールズも従軍した。8月10日、リンカーンに会って、黒人部隊への差別をなくすよう、地位向上を訴えている。黒人は戦闘には出せないとされ、駐屯地で働くコックやウェイターだったとか。このあたりは、日系アメリカ人の歴史とも重なっていよう。戦争が好きな男の気持ちは私には分からないが、やはり戦争に行って、命をかけて国を守るというのが、国家への忠誠と単純にも解釈されるのだろうなあ。
10月3日、11月26日を感謝祭の連邦の祝日とすると決めたのが、リンカーンである。へえ、そうだったんだあ。。で、連邦の祝日には、戦闘は「ちょっと、タンマ」だったのだろうか。(笑)11月18日、リンカーンはワシントンから列車に乗り、ゲティスバーグ駅で下車。翌19日、戦場跡に作られた国立墓地の献納式に出席。これがアメリカの国立墓地の原型となったそうな。ここで、リンカーンは、有名な「ゲティスバーグの演説」を行う。正味二分、聴衆の拍手を入れても3分足らずという短いもので、その短い演説の半分はホワイトハウスで書いてきて、あとの半分はゲティスバーグに着いてから宿舎で書いたものとか(203ページ)短くても、世界的に知られる名演説となったのは、演説の最後が「人民の、人民による、人民のための政治」で締めくくられているからである。内田義雄は次のように書くー「リンカーンは、ゲティスバーグお戦いそのものは、軍事的に成功したとは思っていなかったが、政治的には大きな効果があったことをよく理解していた。この機会を最大限に生かしたのである。」(204ページ)
どう生かしたのか。奴隷解放なんて、戦争にどうしても勝つための手段にすぎなかったのに、それに「より普遍的な理念」の味付けをしたのである。味つけこそが「政治」である。それは、「奴隷解放による新たなる自由の誕生であり、人民の、人民による、人民のための政治という民主主義の擁護であった。」(205ページ)ふん、勝つための手段をひねくり回して、美辞麗句で奇麗事に変えただけだあ。。で、その能力こそが「名政治家」たる所以なのだろう。「人民の、人民による、人民のための政治」といった表現は、1858年の、スティーブン・ダグラスとのディベートで、ダグラスが使っている。アメリカは「白人の、白人による、白人のための国だ」と。リンカーンさん、う〜〜〜ん、この言葉のリズムはいいなと覚えて、使っただけじゃないの。(笑)内田義雄は続けるーリンカーンは、この戦争はアメリカの内戦にとどまらず、世界における民主主義存続の可否が問われている戦争でもあることを強調している。つまり、アメリカの民主主義は世界のためでもあり、アメリカの「正義の戦争」は世界のための戦争でもあるというメッセージである。この理念そのものは、今日のイラク戦争にいたるまで、アメリカで受け継がれてきているのである。(205ページ)納得。。。外国旅行などしたことのないリンカーンでも、目はしっかり地球規模で開かれているではないか。さすがあ。。(笑)
あんまり「大風呂敷」を広げすぎて、自分でも自己嫌悪に陥る部分でもあったのだろうか。ゲティスバーグから帰ってきた11月21日、リンカーンは、ほうそうのような症状を出して寝込んでいる。12月に入ると、やはり考えることは、先へ、先へ、で、8日に、連邦の復旧と再建のために、連邦憲法への忠誠を誓った南軍の人間に恩赦を与える宣言を発表している。戦争をしながらも、頭の中は、勝ったときにどういう政策をとって、一国を運営していくかを考えねばならぬ。休む暇なし、だあ。想像しただけで、頭が痛くなってきた。大統領なんかになりたがる人の気が知れぬ。(笑)思うに、南北戦争時代といっても、みんながみんな戦争していたわけではないわけである。戦争は広い国土の一部にすぎなかったわけで、静かに畑を耕していた人が大半だろう。そっちがいいや。。。(笑)リンカーンさん、お疲れさまです。