「私考―国際結婚なんてするもんじゃないよ」
(1)男と女
フェミニストジャーナル「Fifty Fifty」1997年 11月号
東京でフリーで活躍している40代の友達は、数年前日本の男と離婚した。そして今、生き生きとして次のように語るのである。
「日本の男はくたびれている。外国人の男の方がいい。タイにいる若い恋人のために、今からタイ語を習うことにしたの」
聞きながら、私は思わず顔をしかめていた。
「この年から、外国語なんてやってられないよ。外国人の男なんて、もう2度とごめんよ」
アメリカの白人男性との結婚生活もいよいよ14年目に入った私の本音である。結婚、とりわけ国際結婚を論じるのは非常にむずかしい。結婚の継続は当事者すらわからないし、その上「国際結婚反対」と生生しく本音をぶつけようものなら、愛の理想を高く掲げる人道主義の立場から、狭量な偏見者と糾弾されるのは目に見えているからである。
しかし、私が反対するのは外国人への偏見や差別からではない。外国語による意思疎通の困難さにも目をつぶろう。それでも、結婚生活に働くさまざまな力関係や、二つの文化のはざまで揺れるアイデンティティの葛藤にくたびれて、もうやんぴーと弱音を吐くのが普通の人間の神経ではないか、と考えるからである。
男と女がいて、化学反応がおきて惹かれあい、恋に落ちて結婚ー。どこの国の誰でもよかろう、もう彼らが孤島で二人だけで生活するならば。
しかし現実は、二人のまわりに人間社会の醜いエゴや欲望、嫉妬が渦巻いている。国際結婚の場合、夫婦の身体に浸透している伝統や社会規範が違う上に、国力の差、文化の優劣、人種とさまざまな要素が生活全般に関わり、夫婦のしのぎあいに顔を出す。
アジアの女には序列があって、経済大国日本の親からの仕送りが期待できる日本の女との結婚が最高と言われれば、「愛」が信じられるだろうか。アメリカ軍人と結婚した女性たちからは、夫が日本食を嫌うから、家では食べられないとか、子供に日本語や日本文化など教えなくてもいい、早くアメリカ人になれと言われたと聞いた。
国境を超えた「愛」のためには、日本女性は従順というステレオタイプにどこまで従わねばならないのか。貧乏白人でも、黒人よりは金持ちに見られるのよ、と黒人と結婚した日本女性は言う。要するに、言語・生活文化の違いに加えて、互いへのステレオタイプと幻想、国と経済力、人種と社会的地位、あらゆる力がすべて微妙に組み合わされ、バランスがとれてはじめて、国際結婚が成り立つのである。ああ、疲れる。
そのバランスが一つでも崩れたらー。有吉佐和子は小説「非色」で、戦後まもなく、母国の内と外で落差のある姿をさらけ出した外国人夫と日本女性との生活を見事に描いたが、今日も変りなく、アメリカで夫の優しさがふがいなさに変るとき、日本の女たちは離婚の道を選ぶ。離婚できて一人前の世界である。
ここまで書くと、人は私に聞くだろう。あんたは何をしてるのよ。なんで外国人と結婚したのよって。身長176センチ、女らしさからはほど遠かったし、日本の男からは今の言葉で言えば、「環境セクハラ」を受け続けていたしー。それにー、心のどこかで、冒険もしたかったんじゃないのというささやき声がする。
ああ、怖いもの知らずの若さゆえの言葉。不透明な人生にロマンを追い求めた国際結婚なんで、あまりにも純情で、それゆえ残酷すぎる。離婚もできず、今も半人前の私。非婚も可能なこの時代、やっぱり国際結婚なんてするもんじゃないよ。