「私考―国際結婚なんてするもんじゃないよ」
(2)混血児の子育て
フェミニストジャーナル「Fifty
Fifty」1998年 2月号
国際結婚なんてするもんじゃないよ、と本音をぶつけると必ず、そんなこと人の勝手でしょ、何が幸せなのか、他人が口出しすることではない、と反発される。結構、結構、仲むつまじく生活しているご夫婦に、誰が文句を言おう。しかし、人種や文化を異にする男女二人の間に子供が生まれたら、結婚を個人の幸せレベルだけに押しこめておくことはむずかしくなる。なぜなら、子供は一つの身体に二つの世界を抱えて、社会と向き合っていかねばならないからだ。混血としての自己を確立するまでに、一度は必ず、自分が所属する居場所を求めて嵐の季節を経験する。
たとえば、私の娘の身体には、日本人とアメリカ白人という異人種の血が流れている。それは敗者と勝者の血でもある。アメリカの学校の歴史の時間に、太平洋戦争や原爆問題が登場したとき、勝者と敗者を自分の中に抱えた娘は、一体どう折り合いをつけるのだろう。
混血児のアイデンティティの危機は、親から受け継いだどちらの民族グループからも、お前は純血じゃないからと、差別・疎外されたときに訪れる。隠せるものなら隠したいというプレッシャーも働きはじめる。ある友人のアメリカ人女性がこんな話をしてくれた。
「同僚にあなたのことを言ったらね。その人、自分は日本語を少し知っているし、日本に住んだこともあるというの。だから私がいいねって言ったら、今度は祖母が日本人だと言うから、いいねってまた言ったら、今度は母も日本人だと言うの。それから、職場の誰にも私が半分日本人だということは言わないでくれ、と頼むのよ。」
黙っていれば白人で通せるものなら、白人で通したいーそれがアメリカの現実である。相手の反応を見ながらしか、混血児は自分の背景を語れないのか。
混血児のアイデンティティを考えるワークショップで出会った大学生たちは、自分たちの通ってきた道を振り返って、声を上げて泣いた。そしてつけ加えた、母親には知られたくないから黙っていてくださいと。
母親は個人の選択で、国際結婚をした。しかし、子供たちの苦悩は彼らの選択ではない。たとえ、混血であることを隠せても、自己欺瞞に一番傷つくのは本人ではないのか。そう思うと私は、「みんなと同じ(普通)になりたい」という娘の子供らしい言葉に傷つきながらも、心を鬼にして、日本語や日本文化を教える。いつか必ず、あなたが自分の中の日本の血を誇りに思うときが来るから、その時まで我慢してと言い聞かせながら。
血をめぐる葛藤に、言語問題の影もしのび寄る。家庭での言語の選択には、言語の社会的地位が大きくものを言おう。が、それ以上に深刻なのは、言葉が育てる母子の絆と喪失感である。
学校教育がはじまると、子供は母親には理解しがたい外国人に変身していく。言語能力が左右する子供との意思疎通の問題以上に、母親にとって日本語で表現するのが一番心にしっくりする情と母親の心をどこまで子供にわかってもらえるものなのか。いっしょに日本の童謡を歌っても、同じ心象風景をわかちあっているだろうか。母と子の絆は、言葉、文化の壁を突き抜けて、揺るぎなく深いだろうか。一抹の不安、寂しさはいつも心をよぎっていく。
親は、確固とした自我と生き様を子供たちに示し、何も知らずに生まれてきた子供たちに負わせる大きな負担を思いっきり受け止めてやらねばならぬ。その覚悟の痛みを考えるとー。やっぱり国際結婚なんてするもんじゃないよ。思わずつぶやいてしまうのだ。