ベストセラーって何?
人生30年心に秘めていた、大きい女に対するセクハラ経験を綴った私の半生記「大きい女の存在証明ーもしシンデレラの足が大きかったら」(彩流社)を読んでくれた読者は、残念ながら両手で数えられるぐらいかもしれない。世間の大半の人は読もうとは思わないだろう。「”大きい女”なんて、自分とは関係がない」と思うからである。でも、乙武さんの「五体不満足」はベストセラー、ロングセラーになった。誰も「障害者なんて、自分とは関係がない」と思わなかったのだろうか。ベストセラーにはトリックがあると、私は思っている。
数少ない読者から、私への批判めいた声も聞えてきた。同じ大きな女性からである。「この著者は、日本の男みんながみんな悪いように書いている。非常に偏った本だ。私なんか、大きくても日本人のすてきなダンナさん、見つかったわよ。」って感じだ。
日本の男性がみんながみんなイヤなヤツじゃないことぐらい、頭ではいやというほどわかっている。が、男社会で、セクハラ言動をとる男たちをいさめる勇気をもっている男性はどれほどいるだろう。「多佳子さん、よくぞここまで書いてくれました」という数少ない読者からの励ましとともに自分の人生を振りかえってみて、セクハラの最大の被害は他人への不信感だったと思う。人が信じられなくなるのである。「大きいね。結婚できないね」なんてことを言わない、考えない人が世の中にはいるだろうと信じられなくなるのである。読者の一人は「世界中のみんながそうだと思いこむことで、不意のショックに耐えられるようにしているようです。」と、気持ちを打ち明けてくれた。いつ、どこで誰に何を言われるかわからないからーこんな痛々しい自己防衛をしなければならない女の気持ちを、誰が責められよう。
大きい女性からのバックラッシュには、私はこう答えよう。「ご自分が幸せだからといって、悩む人を責めないでください。たった一人でも悩む人がいる限り、あなたの幸せのエネルギーを、社会を変えることに使ってください。」 と。
当事者の多くは、仲間うちで慰めあい、励ましあいたがる。つまり他人と比較して、自分のほうがいいと思いたいのだ。だから私は、「大きい女はこんなに素敵よ、得よ」を並べればよかったのである。が、仲間うちでお互いに傷をなめあうだけでは、暴力的な世間は変わらない。「売れる本」はその部分については決して問おうとはせず、むしろ「世間」の暴力性を容認し、助長する。決して社会を変えようとする外向きのエネルギーにあふれていてはならないのだ。
そのいい例が「五体不満足」だったと私は思う。世間の大半の人は、「身体コンプレックスぐらいでうじうじしてる人なんて、いやよね」と、自らの無関心を悩む人に責任転化する。だから、乙武さんはあくまでも「普通」を演じ、その一方で読者には、「あんな障害をもっている人でもこんなに“普通”なんだから、私の悩みなんて小さい、小さい」と、自分が置かれている状況に満足、納得させ、密やかな優越感を植えつけることに成功した。だから、ベストセラーである。そこには、自分たちの社会を少しでもよくしようとするコミットメントの気概はなく、ただ「普通」という多数派の特権に安住し、その気楽さにお墨付を与えるかのように仕組まれたベストセラーを、したり顔でますます”かつぎあげる”。
私の「大足のシンデレラ」本は、どんなにあがいてもベストセラーにはならない。ならないことは誇りですらある。誇りに思うからこそ、頭を下げてお願いしよう。確かに、大きい女の悩みはあなたとは関係ないかもしれない。でも、あなたにも何か身体的コンプレックスがあるはず。一度「大足のシンデレラ」の思いに耳を傾けてください。あなたの気持ちと私のそれがどこかで共振し、社会を変える可能性を生むかもしれない。それだけが私の望みなのです。