「リンカーンの国から」

(12)奴隷制反対運動とベンジャミン・ランディ

 

 

 

 かつてイリノイを南北に縦断していたイリノイセントラル鉄道が走っていたルートは今、高速道路39号線である。ラサールの南で高速を降りて、ブルーハイウエイを行く。だんだん道が小さくなって、とうとうとうもろこし畑の中のあぜ道になってしまった。対向車が来たらお手上げである。周りに家は一軒もない。畑だけがえんえんと続き、方角も定かではなくなってしまった。西へ向かっているはずだ、という気持ちだけが頼りである。しばらく焦る気持ちを抑えながら走っていると、交差する道が出てきた。車2台がなんとか走れるちょっと大きめの道である。ここで間違うわけにはいかない、と直感した。左折してしばらくすると、トラックがこちらに向かってきた。私は急いで車を止めて、手を振った。トラックは一度は私のそばを通りすぎたが、すぐにバックして戻ってきてくれた。近寄ると、パイプをくゆらせて、にこにこ笑った粋なおじさんだった。「迷ったね」と向こうから声をかけてくれた。「マクナブはこっちでいいですか」と尋ねると、「もうすぐ、そこまで来てるよ」と道を教えてくれた。「マクナブのどこへ行くの」と聞いてくるから、「フレンズ墓地まで」と答えると、「誰か知っている人がいるの」。私は首を振って、「歴史上の人、ベンジャミン・ランディという人」おじさんは、ふうんという顔をして、墓地までの道も教えてくれた。村に入ってすぐのところらしい。マクナブはかなりこじんまりとした村のようだ。

 

 教えられた通りに行くと、マクナブは確かにすぐだった。人口350人という標識が目にとびこんできた。おじさんに言われた通り、村に入ってすぐの道を左折、今は使われてはいない線路を超えると右手に中学校があった。休み時間だろうか、元気な子供たちの声があちこちからひびいている。目指していたクエーカー教徒の墓地、フレンズ墓地はそのパットナム・カウンテイ中学校の隣だった。小さな村にしてはけっこう大きな墓地である。真新しい慕石が整然と並んでいる。石に飾られた造花もまだまだ新しい。きっとこのあたりには、まだまだクエーカー教徒がたくさん住んでいるに違いない。

 

 2000年の国政調査によると、マクナブの人口は100パーセント白人である。ここがイリノイではじめてクエーカー教徒の会が持たれた所だ。思ったより広い墓地で、無事に19世紀のベンジャミン・ランディの古い墓が見つかるだろうか、と心配したが、杞憂に終わった。イリノイにおけるこの墓地の歴史的な意義はきっちりと認められていたのである。

 

 

 

 

 

墓地のちょっと奥まったところに、大きな石がおいてあり、そこにクエーカー教徒を記念する金属板がはめられていた。小さな小屋の絵と「最初のクリアークリーク・フレンズミーテイングハウス跡」とあった。ベンジャミン・ランデイの立派な墓もすぐに見つかった。文字は風雨にさらされてほとんど読めなくなっているが、それでもベンジャミン・ランディの名ははっきりと読めた。そして古い墓石の後ろに、州も関わった記念碑がたっていた。いわく、「ベンジャミン・ランディ 1789年ー1839年、パイオニアクエーカー 奴隷制反対運動者」

 

碑には、詩人ジョン・ホイッティアの言葉が添えられていた。

It was his lot to struggle for years almost alone a solitary voice crying in the wilderness yet amidst all faithful to his one great purpose the emancipation of the slaves.」 

 

 墓地を訪ねた時にいつも感じる不思議な満足感が私をとりまいていた。「道に迷いながらも来てよかった」という思いがわきあがってくる。子供の歓声だけが聞こえてくる静かな墓地で、信念に生きた人のオーラがあたりに漂っている。彼を誇りに思うクエーカー教徒たちの幸せ感が墓地の向こうの畑にまで広がっていく。

 

 

 

ベンジャミン・ランデイーニュージャージー生まれのクエーカー教徒である。若い時にウエストバージニアで鎖につながれた奴隷を見て、残りの生涯を奴隷制廃止にかけることを誓った。1821年、奴隷制反対の最初の印刷物 Genius for Universal Emancipation をオハイオやメリーランド州ボルチモア、ワシントンDCと各地を転々としながら発行、多くの人に影響を与えた。

 

一番有名なのが、のちの1831年に、新聞 Liberator を発行した急進派、ウイリアム・ロイド・ギャリソンである。が、そのうち、ランディとギャリソンは袂をわかつことになる。

 

 ギャリソンの新聞を読んで、イリノイ最初の奴隷制反対協会を作ったのがマクナブあたりに住む11人だった。1833年2月のことである。同年12月には、フィラデルフィアで全国組織としてのアメリカ奴隷制反対協会が設立された。クエーカー教徒や自由黒人が支援、1840年までに会には25万人のメンバーがいて、20以上の印刷物を発行し、2000のローカルチャプターがあったといわれるまで成長した。イリノイ州レベルで協会が設立されたのは、マクナブの4年後、1837年である。

 

 ランデイは、黒人の植民地を作ることと段階的な解放を訴え、カナダやハイチ、メキシコ、テキサスまで旅行して、解放された黒人たちが安全に暮らせる場所を探した。1830年までに20000マイルを旅行、そのうち5000マイルを歩いたといわれている。が、黒人の植民地には反対、即時奴隷解放を叫ぶ人々もいて、ランディの意見がいつも受け入れられたわけでは決してなかった。

 

 ランデイが、マクナブ近く、クリアクリークにあったクエーカー教徒のコミュニテイにいる親戚を頼ってイリノイにやってきたのは1838年頃、死の一年前である。機関紙発行の必要性を感じていたイリノイ奴隷制反対協会から依頼されたランディは、イリノイでも新聞の発行を続けた。1839年8月23日、ランデイが50歳で死んだあとも、その遺志は、ゼビナ・イーストマンが発行する「ウエスタン・シティズン」に引き継がれた。

 

 

 

 

 

イーストマンはのちにシカゴに移り、「ウエスタン・シティズン」はイリノイの反奴隷制運動の新聞となる。奴隷制反対を訴え、運動の立ち上げに貢献した初期の先駆者、ベンジャミン・ランディが「リンカーンの国」に眠っているのも何かの縁であろう。なぜなら、ランディの主張ー黒人の植民地建設と段階的奴隷解放は、まさしくのちのリンカーンの主張にほかならないからである。