「リンカーンの国から」
(13)イライジャ・ラブジョイ
ミズーリ州セントルイスから、ミシシッピ河を隔てて対岸にあるイリノイのアルトンは、人口3万5千人、かつて港町として栄えた町である。急な高い岩崖と美しいミシシッピの流れにはさまれた川沿いの道は、現在グレート・リバー・ロードと呼ばれ、観光道路となっている。町のすぐ北でイリノイ川がミシシッピ河に流れこみ、町は河川交通をコントロールする要所だった。
ミズーリ州は奴隷州だった。大西部への入り口となったセントルイスには、ニューオーリンズの北で一番大きな奴隷売買市場があった。そこには、自由を求める多くの奴隷たちがあふれていた。一方、河を渡った自由州イリノイのアルトンには、1820年代から自由黒人が住むようになっていた。河をはさんで隷属と自由のはざまをアルトンの人々は見ていた。
1837年ーアルトンが悪名高き「血にまみれた無法の西部の町」になった年である。イリノイ州議会が奴隷州の権利を認める連邦憲法の条項を支持、ワシントンDCでの奴隷制禁止に反対する決議を提出、イリノイが自由州と奴隷州のはざまで揺れた年でもあった。春3月、州下院議員だったリンカーンが、はじめて公に奴隷制反対を表明、少数派の立場を明らかにした時でもある。10月には、州レベルの奴隷制反対協会ができた。新聞を発行していたイライジャ・ラブジョイが自分の新聞「アルトン・オブザーバー」で協会の初会合を呼びかけたのである。が、そのわずか10日後の11月7日に、暴徒によってラブジョイは殺された。が、時代は確実に動きはじめていた。ラブジョイの死を知ったリンカーンは、どんな反応を示したのだろうか。
ミシシッピ河を望む高台にラブジョイの墓地がある。墓地の入り口に、自由のシンボルとして93フィートのラブジョイ・モニュメントが高々とそびえていた。モニュメントの3つの壁面には、ラブジョイの言葉が刻まれている。
「自由の殉教者ーI have
sworn eternal opposition to slavery, and by the blessing of God. I
will never turn back.」
「ゴスペル伝道者ーIf the
laws of my country fail to protect me, I appeal to God, and with him I
cheerfully rest my curse I can die at my post, but I cannot desert it」
「言論の自由を守った英雄ーBut,
Gentlemen, as long as I am an American citizen, and as long as American blood
runs in these veins I shall hold myself at liberty to
speak, to write, to publish whatever I please on any subject- being amenable to the laws of my country for the same.」
ラブジョイは、言論と出版の自由を守ろうとして殉教した。自由州といえども、アルトンの人間の大半は南部気質だった。ニューイングランド出身の、変なアクセントでしゃべる「お堅い」ラブジョイに、アルトンに居場所はなかった。が、信念だけが彼を支え、信念が彼を殺したといえよう。
1802年、メイン州で牧師の息子として生まれたラブジョイは、1826年、カレッジ卒業後、教師として大西部セントルイスにやってきた。当時のセントルイスの人口は6000人ほど。フロンティアの大都会だった。黒人に対するリンチや暴動は日常茶飯事だったろう。が、ラブジョイは、実は奴隷問題には全く興味がなかった。あえて語れば、自由黒人をアフリカへ送還する考えに賛成はしていたが、奴隷制即時廃止論にはまっこうから反対した。国を混乱に落とし入れるだけ、と考えたのである。このあたりは、リンカーンとまったく同じである。だから、メイン州に住む弟のジョセフが、即時廃止論者ウイリアム・ロイド・ギャリソンの新聞「リベレーター」のエージェントになったと聞くと、激怒したらしい。彼の関心事は、奴隷問題よりも、飲酒に売春と”乱れた”宗教色のないフロンティア生活を矯正することにあった。公立学校がなかったので、学校をはじめたものの、すぐに教えることに興味を失い、新聞発行に手を染めはじめた。
ラブジョイが奴隷問題に興味を持ちはじめたのは、セントルイスのFirst Presbyterian
Church で改心してからである。そこの牧師が奴隷制反対論者だった。自分も牧師になると決意したラブジョイはいったん東部に戻り、2年後の1833年11月、牧師の資格を得てセントルイスに戻ってきた。そして、その10日後には新聞「セントルイス・オブザーバー」を発行しはじめた。ミシシッピ河の西で発行された最初のプロテスタントの宗教新聞で、カソリックやイギリス国教会を攻撃した。セントルイスは、もともとフランスやスペインの統治下にあった町で、人口の3分の1がカソリックという町なのに、カソリックを攻撃したというから、ラブジョイがどういう人だったか容易に想像がつくというものだ。
どうやらラブジョイは、牧師だった父同様、鬱病だったらしい。このあたりもリンカーンに似ていよう。気持ちが不安定で、自分を自分で追いこんでいく傾向があったらしい。ラブジョイが育った家庭は、非常に宗教的な環境だったが、言いかえればそこは偏見と独善に満ちてもいたということになる。なるほど、と私は納得した。要するに、バランス感覚に乏しかったのだ。ちょっとリンカーンとは違うなあ。
当然、新聞の発行は難しくなっていく。そこでとりあげたのが、禁断の味の奴隷制問題である。最初は目立たず、が、やがて論調は激しくなっていった。といっても、まだまだ即時廃止反対で、奴隷が所有者から逃げることにすら反対していた。あくまでも宗教的、人道的な立場からの「奴隷」反対だったが、政治的には保守的だった。が、ミズーリの人間たちは「よそ者」が嫌いだった。しかも奴隷反対論者である。
町の有力者や牧師もいっしょになって、ラブジョイが町の平和を乱していると非難、新聞をつぶし、奴隷制反対の表明自体を禁じようとする動きがはじまった。たとえば、ストレスから病気がちなラブジョイの妻が死んだら、ラブジョイは異人種間結婚つまり黒人女性と結婚するだろうという噂を流すというあんばいである。風説が流れるや、ラブジョイのほうは自分の新聞で、白人の奴隷主による黒人女性へのセクハラ、レイプを非難してやり返すという面白さである。当然地元での新聞への風当たりは強くなっていったが、逆に州外の人間たちはラブジョイを応援、新聞の購読者も増えていった。
1836年7月、印刷機が暴徒によってこわされたのをきっかけに、ラブジョイはイリノイ州アルトンに移ってくる。相変らず3度も印刷機を壊され、ミシシッピ河に投げ込まれながらも、新聞「アルトン・オブザーバー」を発行し続けた。部数はセントルイス時代の2倍以上に増えていた。自分を助けてくれるのが州外の即時廃止論者だと知ったラブジョイは、ついに1837年7月、自ら即時奴隷解放論者となった。
そして、11月7日の夜。ラブジョイと彼の支援者20人ほどが、ミシシッピ河の川岸にあった倉庫で、オハイオ州シンシナティの奴隷制反対協会本部から届いたばかりの新しい印刷機を守っていた。これが4つ目の印刷機だった。今回の新しい印刷機の運搬は秘密裡に進められた。蒸気船が印刷機を運んできたのが11月7日の朝3時。ラブジョイの友達数人がそれを確認しに行き、急いでウイリアム・ギルマンが所有する倉庫の3階に運んだのだが、見られてしまったのである。その日のうちに、町中に新しい印刷機の到着がしれわたった。
夜10時、暗闇の中を群衆が集まってき、倉庫の中の動きを探りはじめた。緊張が高まっていく。 突然、ギルマンが窓際にあらわれ、「何がほしいんだ」と群衆に向かって叫んだ。印刷機だ、と叫び声が上がる。ギルマンは窓の外に向かって叫んだ、「我々は、君たちの誰にも悪い感情はもっていないし、傷つけあうこともしたくない。しかし、われわれは市長から自分たちの財産を守る権利を認められている。だから命をかけてそうするぞ。」
まもなく、群集の一人が倉庫の窓に石を投げ始めた。中にいた者も応酬、それからは撃ち合いとなった。ラブジョイと友人たちも撃ち返した。群衆の一人が倒れた。「燃やしてしまえ」と誰かが叫ぶ。はしごが運ばれ、木造の倉庫にたてかけられた。屋根に火をつけようと、少年がたいまつをもってくる。ラブジョイたちは密かにすばやく外に出て、はしごを倒し、また中に戻ったものの、再びはしごがたてかけられた。ラブジョイたちがもう一度果敢にはしごを倒そうと外に出たところを、今度は見つかり、容赦なく銃弾が飛んだ。胸に3発、腹に1発、左腕に1発と5発の銃弾に倒れたラブジョイは、倉庫の中に戻り、2階に向かおうとして、その場で友人の腕の中で息をひきとった。
すでに、倉庫の屋根は燃えていた。ラブジョイの支援者たちは、印刷機をあきらめるしかなかった。群衆は喜びの声をあげて倉庫に入り、印刷機を窓から川岸にすて、こなごなに壊し、ミシシッピ河に捨てた。ラブジョイの友人たちは、遺体を次の朝まで倉庫から動かそうとはしなかった。遺体への暴力を恐れたからである。翌朝、友達に守られてやっと家に戻ったラブジョイは、35才の誕生日だった11月9日の夜、家の近くの畑の中、誰も知らない場所に密やかに埋葬された。墓が荒されないようにと、墓石が置かれることはなかった。ラブジョイを埋めたウイリアム・スコット・ジョンソンは、セントルイスの大聖堂で石切の仕事をした自由黒人だった。時代が変って、30年近く経った1864年に墓を埋め直すときに、場所を知っていたのはこのジョンソンだけだったという。
今日のラブジョイの墓は立派なゲートに囲まれ、花も飾られて、どこかかわいい感じがしないでもなかった。激しいリンチの時代に激しく信念を燃やした人の激情はもう墓からは感じられない。オリジナルの1864年の墓石も、現代のつるつる光る石の上に添えられている。35才は確かに若すぎた。が、どんな結果でも引き受ける、と覚悟を決めた生きざまがその使命を終えただけ、と思えば、墓所の可愛いげな感じが優しさに変っていく。
ラブジョイの死は、多くの州で、人種に関係なく奴隷制廃止論者を勇気づけた。確かに奴隷制はまちがっているが、制度廃止へ追いこんでいこうとまでは考えていなかった人々の気持ちを揺り動かしたのである。町の裁判で暴徒たちは全員無罪となったが、州外へはアルトンは無法の西部の町として知られるようになり、やがて衰退した。
そして、リンカーンは。。。ラブジョイが殺される7ケ月ほど前に、バンダリアの州議会で「確かに奴隷制は悪いが、廃止はもっと悪い」と時代の盛りあがる波を牽制したリンカーンである。ラブジョイの死については一切語ろうとはしなかった。夏にスプリングフィールドで開かれた青年会議でも、わずか数語で新聞発行者への暴力や、印刷機を河に投げ捨てる行為の不適切さに触れたものの、ラブジョイもアルトンの名前も一切口にしなかった。ラブジョイの死は、アルトンの有力者や州政府関係者まで巻きこんでいたから、言葉を選んだのだろう。ラブジョイと違って異様なまでバランス感覚に優れていたリンカーンのこと、自分のキャリアを考えると、リンカーンがあえて火中の栗を拾うわけはなかった。そして思うのである、たぶんリンカーンは、ラブジョイを「馬鹿なやつ」と憐れみはしても、称えはしなかったんだろうな、と。