「リンカーンの国から」
(14) スプリングフィールド−リンカーンの女性問題
Mary Todd
1837年11月、「奴隷制反対」という表現の自由を守ろうとしたイライジャ・ラブジョイがイリノイ西部のアルトンで殺され、翌38年に奴隷制反対を訴え続けたベンジャミン・ランディがイリノイ中部のマクナブで死んだころ、1837年4月にニューセーラムからスプリングフィールドに移った新進の州下院議員は何をしていたのだろうか。しばらくは「女」にうつつを抜かしていたと言えば叱られるだろうか。
リンカーンが住むようになった1837年頃のスプリングフィールドは、もちろん舗装した道路も鉄道も街燈もない、ぬかるんだ道を豚や牛が自由に歩きまわっているようなフロンティアの町だった。しかし、州都になると決まると、大きく変わりはじめた。人口2000人、新しい煉瓦の建物が次々に建てられ、店が24軒以上、教会が6つ、弁護士11人、医者は18人。。。独身男たちの天国となり、パワーが集まりはじめたのである。リンカーンもここで独身時代を謳歌、のちの「恋敵」か、親友となるビジネスマン、ジョシュア・スピードにも出会った。
リンカーンがスプリングフィールドで最初に泊まったのは、スピードがやっている雑貨屋だった。スピードが店の2階の自分の部屋をシェアしようと申し出てくれたのである。ベッドをシェアしたので、今頃になって、二人は同性愛の関係にあったのでは、と疑われる所以でもある。仕事は、バンダリアで弁護士になれと勧めてくれたウイッグ党院内総務のジョン・スチュアートの事務所で働きはじめた。スチュアートが連邦議会に出かけているあいだは、リンカーンが一人で法律事務所を切り盛りした。と同時に、スピードといっしょに、スプリングフィールドの社交界にも顔を出しはじめたのである。
スプリングフィールドに移る頃、結婚を考えていたのは、1833年にニューセーラムで出会っていたメアリー・オーウエンズだった。姉のベネット・アベルがいたので、ケンタッキーから遊びに来ていたのである。1ケ月ほどしか滞在しなかったが、リンカーンは好きになったらしい。伝説の恋人、アン・ラットリッジの死んだ翌年の1836年、ケンタッキーに戻るアベル夫人が、冗談半分に、リンカーンが結婚するなら妹を連れて戻ってくるよ、と言ったらしい。リンカーンも軽いきもちで同意、夫人はメアリーといっしょにケンタッキーから戻ってきた。メアリーは1838年の春までニューセーラムに滞在した。リンカーンが書いたメアリ宛の手紙も残っており、リンカーンが寂しいと言ってみたり、ふられることを覚悟しているみたいに、この手紙には返事をくれなくてもいい、と言ってみたり、で、とにかく「婚約」するだけの恋心はあったらしい。が、ニューセーラムと議会が開かれるバンダリアやスプリングフィールドと離れ離れになって、二人はなかなか会えなかった。
ところが、彼女がスプリングフィールドにリンカーンを訪ねてきたことがあった。リンカーンは会ってびっくり。彼女が思いのほか太っていたのである。がっかりしたリンカーンは、なんとかメアリを振ろうと冷たく扱い、知人には「彼女を抱きしめても、一生自分の母親を思い出すのはいやだ」などと、現代風に言えばセクハラおやじ丸出しの手紙を書いている。結局1838年のよりにもよって「エイプリルフールデー」に、リンカーンは婚約を破棄したのだが、このあとが鬱病だったリンカーンらしいのである。きっと破棄した自分を責めたのだろう。そのあとで、再びメアリに結婚を申し込んでいるのである。もちろん、メアリは断わった。リンカーンは心底ほっとしたに違いない。
1866年、リンカーンの伝記を書いたウイリアム・ハーンドンが彼女にコンタクトをとると、7人の子供の母親になっていたメアリは、「リンカーン氏は、女を幸福にするための小さな事柄をうまくつなぎ、大きな輪を作ることができない人物だった、少なくとも私の場合はそうだった、」と答えたという。そうでしょ、そうでしょ、鬱病抱えて、天下国家のことを論じたがる男に、複雑な女心を思いやる余裕などないのである。しょせんリンカーンは自分のことしか考えられなかったというところだろう。
ところが、1年待った翌1839年12月、そんな男の身勝手さを機知で補い、男の才能に自分の人生を賭けようとする奇特な女が現れた。舞踏会で知合った青い目のケンタッキー美人、名家出身のメアリー・トッドである。私立学校でいい教育を受けた21歳、スプリングフィールドの社交界の花で、当時の流行で5フィート2インチの身体はころころ、しかもリンカーンの好きな上向きの鼻をしていた。リンカーンはすぐにメアリを追いかけはじめたが、トッド家は、リンカーンが教育もなく、家庭環境も違いすぎると猛反対。トッド家への出入り禁止となった。もちろん「あつあつ」の二人は翌1840年の秋、婚約、順風満帆のはずだった。ところが、またもやリンカーンの病気が出たのである。自殺願望にとりつかれ、12月はじめに教会の窓から飛び降り、1841年1月1日、婚約破棄。
以後、記録に残るようなひどい鬱になり、部屋から、かみそりやらナイフやら刃物は全部持ち出しておかねば、自殺の危険があるほどだったという。弁護士の仕事も州議員の仕事もオッポリ出して、食べるものも食べず、ベッドに横たわり続けた。見かねた医者が転地療養を進め、親友のスピードがいたケンタッキーへ。やっと気分が変わって、42年秋メアリとの交際を再開、11月4日にスプリングフィールドであわただしく結婚した。
なぜいったん婚約破棄したのか。身分の違いを乗り越える自信がなかったとか、政略結婚しようとする自分に嫌気がさしたとか、社交界の花だったメアリがリンカーンの政敵、スティーブン・ダグラスにも色目を使っていて、裏切られたと思った、とか、親友スピードとともに同じ時期に、マチルダ・エドワーズという18歳の、父親がウイッグ党の政治家である美しい女性に恋をして、メアリに興味を失ったから、とか、マチルダに結婚を申し込んだものの振られたスピードがイリノイを去ったのがショックだったとか。。。とにかく学者たちはかまびすしいが、一つはっきりしているのは、自分のことしか考えられなかった病人リンカーンにとって、結婚という他人をしょいこむ重荷はどうしても耐えがたかったということだろう。が、重荷をかなぐり棄てれば、今度は自分のしたことに深い罪悪感を覚えるという悪循環である。頭がいいのも何かと不便なものだ。「ワル」を通せないのである。
同じ女としては、リンカーンが抱えている問題をようく見抜きながらも、自分の人生を賭けたメアリ・トッドの勇気に尊敬の念を覚えると同時に、結局はあんまり幸せでもなかったらしい彼女が哀れでもある。無理をして自分の思いを通しても、しょせんひずむだけ、ということだろうか。