「リンカーンの国から」

 

(16) エドワード・ビーチャー

 

Edward Beecher Hall

 

 

 1830年代のイリノイってどんな感じだったのだろう、と、現代イリノイのとうもろこし畑のまんなかでけっこう退屈している日本の女が思いをめぐらす。小さな町が州のあちこちに点々としていて、訪ねるのはけっこう時間とエネルギーがかかったろう。でも、町が遠く離れていても、町の有力者なるもの、案外州のどこでもけっこうみんなお互い知りあっていたのではあるまいか。

 

 イリノイ最初のカレッジ、ジャクソンビルに作られたイリノイカレッジの最初の学長が、1851年に発表された「アンクルトムの小屋」を書いたストー夫人、つまりハリエット・ビーチャ−・ストーのお兄さんだったと知ったとき、歴史を形作る人脈の緊密さを思い、私は一瞬声を失ったものだ。そして、「へえ、そういうことかあ。やっぱりねえ」と、妙に納得したのである。

 

 アルトンの奴隷制反対論者イライジャ・ラブジョイを最後まで応援、助けたのが、ストー夫人の兄、エドワード・ビーチャーだった。ラブジョイが心を許すことができた数少ない人物の一人である。 1837年11月、ラブジョイがアルトンで殺された夜も、4つ目の印刷機が無事に倉庫に到着したのを見届けてから、ビーチャ−はジャクソンビルに戻っていったのだが、ラブジョイはそのあとで殺されたのだった。

 

 エドワード・ビーチャーは1803年コネチカット生まれ。有名な牧師だった父親ライマン・ビーチャーと同じ道を歩もうと、1822年父親と同じイエール大学を卒業、1826年にボストンのパークストリート教会の牧師となった。

 

 その頃イエールでは、「イリノイ・アソシエーション」が結成されていた。未知の西部の人間を救うためのキリスト教の責任と伝道活動について語るうち、イリノイへ行って学校をはじめようという計画がもちあがったのである。が、イリノイなんて、東部ではぜんぜん知られていなかった。そんな僻地に学校を作るなんて、と話を聞いた人間は鼻で笑った。が、ニューイングランドのキリスト教文明をフロンティアに伝えねば、と熱意に燃えたイエール関係者7人は、皆の非難や嘲笑もものともせず、イリノイにやってきたのである。

 

ジャクソンビルが選ばれたのは、森や池があり、土地も非常に肥沃な黒土と自然環境がよく、またこれから人口が増えると予想されるミシシッピバレーの重要性、将来性も強調された。とりわけライマン・ビーチャ−が計画に大賛成した。そして1829年、イリノイ最初のカレッジが創立された。のちに、ニューセーラムでリンカーンが店の共同経営者となったウイリアム・ベリーや、スプリングフィールドの法律事務所のパートナー、ウイリアム・ハンドン、そしてリンカーンの伝説の初恋の人、アン・ラットリッジの兄、デービッドも通ったカレッジである。アン自身がカレッジの女子校に通う予定だったようで、1835年にデービッドが「時間はお金より大事。無駄にしないで早くおいで」とアンに応援の手紙を書いている。

 

 最初のクラスが開講したのは1830年1月4日。学生数9人。イリノイには学校がなく、誰も大学進学に足る知識がなかったので、1年半ものあいだ、カレッジは小学校レベルから教えねばならなかったとか。それでも6年後の1836年に、9人のうち3人がバカロレアをとり、1838年に4人目が卒業した。

 

 同年8月、「イリノイ・アソシエーション」はエドワード・ビーチャ−を学長に推した。アルトンのラブジョイは、セントルイスで自分が発行していた新聞紙上で、「彼がこの職をひきうけるかどうか疑問である」と書いたのだが、ラブジョイと同様、ニューイングランドで築くキャリアより、広大な西部で人々の教育にあたり、福音を伝えるほうがはるかに崇高な事業である、とビーチャーも考えたのだろう。学長職をひきうけ、12月にジャクソンビルにやってきた。年収600ドル、精神的・道徳的哲学を教えることになっていたが、主な仕事は東部での寄附金集めである。

 

 学生たちは、奴隷制廃止、自由黒人の植民地化、インディアン問題などについて議論したが、町の人間の大半が南部のメンタリティをもち、教授たちがヤンキーだったため、何かと風当たりが強かった。アルトンで殺されたラブジョイが置かれた状況と全く同じである。

 

 初期の学生もほとんどが南部からで、中にはカレッジが学生たちに奴隷制廃止の理念を受えつけようとしていると考えるものもいた。ラブジョイをミズーリ州から追い出したセントルイスの新聞は当然イリノイカレッジを攻撃した。リンカーンの政敵でメソジスト派の牧師、ピーター・カートライトなどは辛辣にカレッジ関係者を攻撃、「自分は大学などに行ったりして、汚染されていないぞ」みたいな演説をしていたらしい。

 

 それでも、奴隷制に対するカレッジの立場は、社会全体の利益を考えると即時解放には反対するというものだった。東部から来た教授たちはみんな奴隷制には反対だったが、創立者の一人、牧師のジュリアン・スタートバントは中間的な立場に立った。神が制度の存在を認めているのだから、国は神の決定にまかせるべきだと考えたのである。そして、憲法がその制度を認めているのだから、反対するなら憲法に、と考え、憲法改正が政治的解決を見出すとの立場をとっていた。

 

 スタートバントもラブジョイをよく知っており、家でよくもてなしたとか。即時解放論者のウイリアム・ギャリソンのような過激な言葉を使わないラブジョイの穏やかで紳士的な言動を好み、友好的で愛情豊かな愛すべき人物だと称したという。ラブジョイもカレッジの卒業式にゲストとして招かれたりしていた。

 

 ビーチャ−は、ラブジョイにはじめて会ったときから親近感とつながりを感じ、ラブジョイの新聞に20ドルを寄附、さらに200ドルの寄附を集めるとも宣言、ラブジョイの新聞を全面的に支持していた。

 

 1837年11月はじめ、ラブジョイが印刷機を何度も壊されながらも、アルトンで新聞発行を継続すべきかどうかが、周辺で大きな波紋を呼び始めていた。ラブジョイは、地元の激しい敵意、反感にとりかこまれながら、イリノイ州反奴隷制協会を設立、「イリノイ・アソシエーション」からも4人が参加、ビーチャ−もその一人だった。

 

 設立の会合開催にあたって、ビーチャ−とラブジョイは意見をたがえた。ビーチャ−は、奴隷制反対よりは、奴隷制について自由に議論、表現する権利を前面に押し出し、反奴隷制協会の地盤固め、支援基盤を広げることを会合の議題にしようと主張した。友情を失いたくなかったラブジョイは一応同意したものの、結果はラブジョイが心配した通り、アルトンから奴隷制賛成派が大勢会合におしかけてき、会をコントロール、会は混乱のままに終わってしまった。その時のラブジョイのスピーチを聞いたビーチャ−は、声をあげて泣いたという。ラブジョイに死ぬ覚悟ができているのを感じたのである。子供のような純真さで、ラブジョイは最後の奴隷制反対を訴えたのだった。

 

 ラブジョイの死後も、1844年まで14年間、ビーチャ−は学長としてカレッジにとどまった。そのあいだにカレッジは、視聴覚・精神障害者の学校や病院、女子アカデミーや音楽学校など施設を拡充、中西部における高等教育の育成期を担った。ビーチャ−家からは兄のヘンリー・ビーチャーがやってきて講義、妹のストー夫人、ハリエット・ビーチャーもやってきた。1843年には弟のトーマス・ビーチャ−がカレッジを卒業、アブラハム・リンカーンもスピーチをした。エドワード・ビーチャ−は一度は東部に戻ったが、1855年再びイリノイに戻ってきて、1871年までゲールスバーグの教会で牧師を務めた。イライジャ・ラブジョイが殺されたとき、アルトンにいた弟のオーウエン・ラブジョイは、その後過激な奴隷制即時廃止論者となってリンカーンと対立したが、彼の葬儀を執り行ったのも、エドワード・ビーチャ−だった。

 

 今日イリノイカレッジは、人口19000人のジャクソンビルの閑静な住宅街に囲まれた、こじんまりとした瀟洒な学校である。1829年に建てられたカレッジ最初の建物はビーチャーホールと名付けられている。1841年には、イリノイ最初の医学校がこの建物で開かれた。建物の前で、私はちょっと首を傾げた。ドアが建物の中央から少しずれているのだ。ふうん、おかしいな。今は、学生たちの文芸活動に使われているとのこと、ジーンズ姿の学生たちが中に吸い込まれていった。

 

 そして、今このイリノイカレッジは、京都の私学と交換留学制度をもっているという。毎年1月から3月まで、日本の大学生が20人ほどやってき、イリノイカレッジの学生も5月から京都へ出かけていく。シカゴ周辺ならいざしらず、イリノイ南部のジャクソンビルかあ。図書館の一室に、エドワード・ビーチャ−の肖像画が飾られてあった。あごがとんがり、神経質そうな面持ちだが、意思の固そうな表情である。はるばる洗練された東部から、現代日本から、イリノイの田舎までやってきた、そしてやってくる人々に私は改めて尊敬の念を覚えている。