「リンカーンの国から」
(
) ディケーター その2


アメリカ海軍のヒーロー、ステイーブン・デイケーターにちなんでなづけられた町、デイケーターは、イリノイ中央部にある人口85000人ほどの町である。なあんかロサンゼルスみたいにただだだっ広い感じがするなあ、が第1印象である。


リンカーンの一行13人がインデイアナ州のビンセンヌでワバッシュ川を渡り、イリノイにはいったその前年の1829年に町として認められたところである。1830年早春、リンカーンたちは、ワバッシュ川を渡って現在のローレンスビルにはいり、それから北上、2週間かけて氷の張る道なき道を200マイル以上旅してたどりついたのがデイケーターだった。3つの荷車で移動したが、リンカーンはその一つを”運転”していたという。樫の木がこんもりと茂っている土地を切り開き、丸太小屋が10軒ほど建っていたにすぎない当時のデイケーター付近の開墾地で、3月14日の夜、一行はキャンプを張った。


今、デイケーターのダウンタウンに、「リンカーンスクウエア」がある。もちろんリンカーンの像が立っている。ここでりンカ−ンは何をしたのか。荷車から家族のために寝袋をおろし、キャンプの準備をしたというわけではない。人生最初のスピーチをしたところなのである。

 


伝えられているところによると、ある夏の日、リンカーンが近くの農場で仕事をしていると、町で騒ぎがおきていると聞きつけた。すぐにリンカーンはかけつけ、町の一角、酒場の前で繰り広げられている政治演説を聞いた。演説が終わると、リンカーンはすぐに皆の前に出ていき、地面に置かれた木の切り株に上がり、反対演説を行ったという。像はその時の姿である。どうやら、自分たちが岸辺に小屋を建てたそのサンガモン川の航行を改善しようとするイリノイホイッグ党の政策を擁護する演説だったらしい。経済開発という近代化を嫌う南部の価値観と、のちにホイッグ党から共和党が推し進めていく近代化政策との最初の衝突ということになるだろうか。


それにしても、木の切り株の上で河川開発について街頭演説というのがなんともほほえましい。リンカーン自身は、まだインデイアナに住んでいた1828年の4月、19歳のときに、農産物を平底船に載せて、ニューオーリンズまで運ぶ仕事をしている。その時に黒人7人の賊に襲われたり、ニューオーリンズで奴隷のオークションを目撃したという。若いときのなまなましい経験と感覚が、その後の人生を形作っていくことは十二分に考えられることだ。デイケーターには、そのほかにも、弁護士時代のリンカーンを称える像があちこちに残っている。第8巡回裁判所でいろいろな事案で活躍したのである。


1860年5月にイリノイ共和党大会がデイケーターで開かれたとき、満場一致でリンカーンを大統領候補に選出した。その時、のちにイリノイ知事になった、デイケーターの弁護士、リチャード・オグルスビーは、リンカーンといっしょに横木切りをした従兄弟のジョン・ハンクスに、30年前にデイケーターでリンカーンが切った横木をもってこさせたという。以後、リンカーンの木こりのイメージは全米に定着、デイケーターの横木は有名になって、ハンクスさんは1本1ドルで全米に送りだしたとか。リンカーンが暗殺されたあとは、その横木で作った杖まで販売したとか。


リンカーンにとって、デイケーターは人生の通過点でしかなかったが、わずか1年しか生活しなかったデイケーター時代のリンカーンを”味わい”つくしたハンクスさんは、1889年にデイケーターで87歳で死んでいる。大統領に選出されたときに、自分が昔切ったとされる横木を見せられて、リンカーンさんがどんな顔をしたか知りたいものだ。

 

2006年2月、ワシントンDCを訪れた。記録に残る大雪の翌朝だった。観光客は、雪にも負けず、スミソニアン博物館を訪れる。私もその一人だった。博物館には、リンカーンが自らの手で木を切って作ったという柵のほんの一部が展示されていた。ジョン・ハンクスが、あれは1829年か30年かだったと太鼓判を押した、ハンクス自筆の”証明書”もいっしょに展示されている。もともとは、南北戦争で負傷した兵士のために開かれた1864年のシカゴフェア?で手に入れられたものとか。その後、高価な”おみやげ”としていくつかの家族の手に渡り、1983年にスミソニアン博物館に寄贈された。

 

 今日、19世紀の小さな木片はガラス壁の向こうに鎮座している。リンカーンが斧を振るったから、それだけの理由である。ふ〜〜〜ん、ふと歴史に対するかすかな疑念の思いがわいたのは、私が単にあまのじゃくだからだろうか。