「リンカーンの国から」
(5) ディクソン
国家に向けて自分の忠誠心を表現するのに一番手っ取り早い方法は何かー軍隊に入ることだろう。もしかしたら失業していて、単に仕事が、金が必要だったから、が入隊の直接的動機かもしれない。が、そんな世俗な気持ちも、「愛国心」という崇高な言葉に飾られると美しく変質する。自分の一つしかないいのちを賭けるわけだから、美化は当然必要だろう。そしてそれは、リンカーンも同じだったのでは、と私は想像している。
1832年3月、リンカーンはイリノイ州議員選挙に出ることを表明する。表明してすぐに、事務員として働いていたオフットの店がつぶれ、リンカーンは失業。その翌4月のことだった。サーク族のチーフ、ブラックホークに率いられたインデイアンたちが、政府によって自分たちが追いやられたアイオワの地を離れ、ミシシッピ河を渡って、現在のイリノイ州ロックアイランドに近いかつての自分たちの村に戻ってきた、というニュースがニューセーラムをかけめぐったのは。何もないフロンテイアのこと、驚きと怖れ、それに興奮が渦巻いたに違いない。ブラックホークは、サーク族とフォックス族約1200人と武装した戦士たち約500人を率いていた。すぐにイリノイ州知事ジョン・レイノルズは民兵入隊を呼びかけた。州議員選挙に出ることを表明した失業者リンカーンにとって、こんなに都合がよかったことはあるまい。すぐに馬を借りて、名乗りでた。
ドナルド・レーガンが少年時代を過ごしたことで知られるデイクソンの町に、兵隊姿のリンカーンの像が立っている。兵隊リンカーンの像はこれだけとか。ロックリバーの川岸である。かつてここにデイクソン砦があって、リンカーンはここで、後に第12代大統領となるザカリー・テイラー将軍や南部連合のジェファーソン・デイビス大統領らと知合ったといわれる。何やら選挙運動を兼ねて軍隊に入り、”愛州心”を売りこんだようなりンカーンだが、多くの人間たちにとって、このブラックホーク戦争での”従軍“は、その後の政界進出や成功への足がかりとなったらしい。
ニューセーラムから集まった民兵たちは、リンカーンをキャプテンに選んだ。”指揮官”リンカーンは意気揚揚と”従軍”、兵籍を3回更新して、全部で51日間ブラックホーク戦争に参加した。が、実際のところ、一度もインデイアンとの戦闘を経験せず、戦い、殺したのは野生のたまねぎと蚊ばっかりだったという。
デイクソンの北にスティルマンバレーという名の人口850人の小さな村がある。1832年5月14日、ブラックホーク戦争の最初の戦場として知られる場所だ。アイゼア・スティルマン少佐率いるところの275人の民兵たちが、50人たらずのインデイアンたちに追い詰められ、ここで逃亡しはじめるという「スティルマンズ・ラン」なる戦闘があったところだ。戦闘で死んだのはインデイアンが3人、政府側は12人で全員が切り裂かれたとか。なぜこの負け戦さが特別か、というと、白人側が負けているとの知らせにかけつけた民兵たちの中にリンカーンがいたからである。そして死んだ兵隊たちを埋めるのを手伝ったから、なのである。
1901年に建てられたメモリアルにはっきりと刻まれていた。「アブラハム・リンカーンが、名誉ある戦死者を埋葬するのをてつだったことが、この地を“セイクリッド”なものにした」と。なんでリンカーンが穴を掘ったら、この地が“セイクリッド”になるのよ、と私はぶつぶつ。穴を掘れば”功績”として称えられるとは、当時のリンカーンは夢にも思わなかったことだろう。ブラックホーク戦争でリンカーンは125ドルを受け取った。それだけではない。戦後の1850年と55年に、現代のGI法と同様の法案が成立、退役軍人には土地が与えられることになった。1852年、リンカーンはアイオワのトレド近くに40エーカーの土地を、1855年には更に120エーカーを手に入れている。
除隊入隊を繰り返したものの、口べらしに人員整理され、7月10日、ウイスコンシンで最後の除隊となった。馬を盗まれたリンカーンは、徒歩でニューセーラムまで戻った。7月下旬から懸命に選挙運動を行ったが、ブラックホーク戦争は8月2日に終わり、8月6日にはリンカーンの州議員選挙落選が判明したのだった。