「リンカーンの国から」
(6) ピーターズバーグ
リンカーンの妻、メアリ・トッドがかなりの曲者で、リンカーンにとってそれほど幸せな結婚生活でなかったことは、世間によく知られたことらしい。私は全然知らなかったので、そう聞いて、そうだったのか、やっぱり人間、すべてを手に入れることはできないんだ、と妙に納得した。
メアリ夫人の癇癪は有名で、火をおこすのが遅いといって、薪で夫をなぐりつけ、熱いコーヒーを浴びせかけたり、ほうきの柄でたたくなどは日常茶飯事だったとか。妻の家庭内暴力への恐怖心から、リンカーンは”帰宅恐怖症”にかかり、仕事が終わっても家に帰らず、結果的にホワイトハウスまで上りつめるような仕事をしたが、もし結婚生活が平穏なものなら、生涯弁護士で満足していたかも、という。
「フーン、別に奴隷解放したくて大統領になったわけじゃないんだ。陰に女性問題があったんだ」とますます納得した。
当時にしてはパラサイトが長く、リンカーンはかなり”おくて”だったろうと私は想像しているが、彼の女性問題についてはけっこう論考が出ている。その一人が、ニューセーラムのアン・ラットリッジである。
1829年ニューセーラムを切り開いた開拓者の一人がジェームズ・ラットリッジだった。ニューセーラムにやってきたのは、バージニアやケンタッキー、テネシーといった南部の人間が多かったが、中には高い教育を受けた人間もいた。ラットリッジもその一人だろう。25冊から30冊ぐらいの本を持ち、”図書館”と呼ばれ、1831年にはデイベート・ソサエテイをつくった。アンはその娘であるから、名士の娘ということになる。もちろんリンカーンは、そのデイベートソサエテイに入り、頭角をあらわしていた。
ニューセーラムで自分の家を持たなかったリンカーンは、何人もの家で下宿していた。村でラットリッジが経営していた「ラットリッジ・タバーン」もその一つである。そこでリンカーンはアンと出会ったが、当時アンはジョン・マクナマラという男と婚約していた。1813年ケンタッキー生まれ、青い目と金髪の、痩せて背が高い美人だったとか。要するに、どこにでもいた「オールアメリカンガール」というわけか。のちにラットリッジ一家は、ニューセーラムから7マイル北にあったサンドリッジという農場に移っていく。測量士や郵便局長をしていたリンカーンはしょっちゅう農場を訪れていたらしい。それゆえに、アンがリンカーンの最初の恋人だの永遠の恋人だの、婚約もしていたとか、なにかとかまびすしい。
とりわけ、1835年1月に、いっしょに店をやっていたウイリアム・ベイリーが死に、同年8月にアンが突然熱病にかかり、22歳の若さで死んだものだからよけいである。リンカーン26歳の時だ。その時のリンカーンは気も狂わんばかりで、生きる力を失い、自殺するのではないか、と回りの人間たちは心配したという。
ニューセーラムからサンガモン川を2マイルほど下ったピータースバーグのオークランド墓地に、アン・ラットリッジの墓がある。あたりを陰でおおってしまうほど葉をおいしげらせた大木の下にあった。他の墓とは違い、回りは鉄柵で囲まれ、大きな碑が建っている。イリノイが輩出した有名な詩人、エドガー・リー・マスターズの長い詩である。
「But of
me unworthy and unknown the vibrations of deathless music! With malice toward
none, with charity for all. But of me forgiveness of millions toward millions,
and the beneficent face of a nation shining with justice and truth. I am Ann
Rutledge who sleep beneath these weeds. Beloved of Abraham Lincoln, wedded to
him, not through union, but through separation. Blown forever, O Republic, from
the dust of my bosom!」
まあ誰でも、「合体ではなく、別離によって、永遠に結婚した」なんて謳われると、いやがおうでもその気にさせられるというものだ。しかし、マスターズは1868年に生まれているから(死亡は1950年)、アン・ラットリッジを知るよしはなく、すべては彼の頭の中での想像ということになる。学者ジーン・ベイカーによると、「釣った魚に餌はやらぬ」式の平凡な結婚生活の現実にうんざりした男たちの、女に対する勝手な夢物語ということらしい。
しかもアンは、リンカーンと「婚約」する以前に、2人の男と婚約していた。わずか22年しか生きていないのに、その短いあいだに3人の男と婚約する女なんてーと、ベイカーはその論文の中で、女の目から見たアン・ラットリッジに批判的だ。(「リンカ−ン・イニグマ」ボリット編、38ページ)
ラットリッジ伝説の一つの要因は「死」だろう。同じ別れといっても、生別と死別では、ノスタルジアによる「美化」の度合いが違うというわけだ。学者たちは、リンカーンがアンのことを生涯忘れなかったとか、いやそんなことはない、とかいろいろ論じるが、一つだけ確かなことは、彼女が死んだ直後はたとえショックだったとしても、「もう二度と恋も結婚もしない」というほどまで、リンカーンが彼女にうちこんではいたわけではないということだ。その証拠に、ラットリッジが死んだ翌年には別の女性とデートをはじめたとか。大統領夫人となる悪妻メアリ・トッドとは1839年に出会い、1942年11月にあわただしく結婚した。ラットリッジの死後7年がたち、リンカーンは33歳になっていた。当時、男性は24歳ごろまでには結婚していたから、リンカーンはかなりの晩婚である。
いろいろな説を重ねあわせてみると、どうやらリンカーンの伝記を最初に書いたウイリアム・ハーンドンという男が、妻のメアリ・トッドをことのほか嫌っていたため、アンをとりわけロマンチックな存在に仕立て上げたらしい。実際は、婚約者に逃げられたアンとリンカーンはまあかすかな恋心を抱きあっていたか、それとも単なる友達だったか、その中間あたりが妥当なところで、婚約は証拠不十分で”却下”である。
私が今にやにやしながら読んでいる「大人の”男”になる85ヶ条」(弘兼憲史著 講談社α文庫)という本の中に、次のような記述がある。「好きだからこそ、”女の怖さ”をひき出すな」ー女とうまくつきあい、恨まれずにきれいに別れるこつは「女を本気にさせないこと」だそうな。へへへ、リンカーンさん、失敗しましたね。メアリさん、本気になっちゃったんだ。一度はリンカーンのほうから婚約を破棄した仲である。後世まで、悪妻だの、リンカーンに嫌われていただの、結婚は失敗だっただのといろいろとりざたされて、メアリさん、どんな気持ちかなあ。今、墓の下で、「私の勝ちよ」といわんばかりに一番にこにこしてるのは、伝説の恋人に仕立てあげられたアンさんに違いない。