「リンカーンの国から」
() バンダリア

 

 

 

州中央部、人口6200人の町バンダリアは、1820年から39年までイリノイの州都だった町である。かつてリンカーンが歩き回った州議事堂はすぐに見つかった。小さな町の真ん中で、異様な存在感を放っている。現存している数少ない19世紀の建物の一つで、現代の改装工事が行き届いているせいか、まばゆいばかりに真っ白に輝いていた。

リンカーンが初めてホイッグ党の州下院議員に当選したのは、落選してから2年後の1834年の夏である。その年の12月から会期が始まり、リンカーンはさぞ意気揚揚として、ニューセーラムからバンダリアに乗りこんだに違いない。農業で成功したニューセーラムのコールマン・スム−トから200ドルを借りて、そのうちの60ドルで新しい服を買い、借金もきれいに返して(とあったが、200ドルはどうなるの)、残りがバンダリアまでの馬車代となった。ニューセーラムから南へ75マイル、36時間の馬車の旅だった。

 

1834年の会期では、道路やフェリー、橋、鉄道といった州のインフラ拡充が主な議題だったとか。リンカーンは、ニューセーラム近くのソルトクリークの橋の通行を有料化する法案や、スプリングフィールドからサンガモン川まで新しく道路を作る法案などを提出、地元のために働いたが、それ以外は静かに成り行きを見守っていたらしい。会期が終わった1835年2月に、リンカーンは258ドルと交通費を受け取って、ニューセーラムに戻っていった。2年目の1835年の会期でも、リンカーンはニューセーラムを流れるサンガモン川に運河を作ることを主張したりして、ニューセーラムを港町にしたかった地元の気持ちを訴えている。

 

リンカーンが非常に頭の切れる人間だったことは誰しもが認めていた。しかも冗談好きで弁舌も立ち、その上フロンテイア生活で鍛えた力自慢とあって、男が圧倒的に多いニューセーラムの町ではなかなかの人気だったというが、運もよかったに違いない。はじめてバンダリアに来たというのに、すぐにも自分の人生を決定づける人間に会っているのである。その一人が、スプリングフィールドで弁護士をしているジョン・スチュアートだった。ブラックホーク戦争にも参加した、ホイッグ党の院内総務である。彼がリンカーンに弁護士になれと勧めたのだった。院内総務に勧められてリンカーンも、「うん、これは行けるぞ」と思ったに違いない。

 

以後、ニューセーラムに戻ったリンカーンは、馬に乗ったり歩いたりして、スプリングフィールドのスチュアートの所まで本を借りにいって、弁護士の勉強をはじめた。暇さえあれば、本を読んでいた。当時は、弁護士になるのに難しい試験があったわけでなし、1836年8月に下院議員の再選を果たすと、その翌月には、もう十分に勉強したし、いい人だから、という理由で、弁護士の資格が与えられるという簡単さである。フロンテイア時代の弁護士とはこんなものか、と、あっけにとられる気がしないでもない。そして会期が終わった翌1837年4月にはさっさとスプリングフィールドに引越しし、弁護士としてスチュアートの事務所で働きはじめている。以後、ニューセーラムに戻ることは2度となかったという。 

 

実は私は、リンカーンといえば、奴隷解放をしたからなのか、悪妻の尻に敷かれていたからなのか、とにかく「優しい人」というイメージをもっていたのだが、今になって、とんでもない、ほんとのところは、損得計算の早い非常な実際家で、相当な野心家、かなりの曲者だったのではないか、という気がしてきた。切れ者で、損得計算をする自分の醜さもはっきりと見えていたからこそ鬱になったのであり、だから「気が弱い」「優しい」というイメージがつきまとうようになったのではあるまいか。「優しさ」すら平気で簡単に計算できる男だったような気がするのだ。

 

下院議員再選後の1836年12月からの会期では、弁護士リンカーンはすでにホイッグ党の院内総務に選ばれ、州の政界ではよく知られるようになっていた。リンカーンがはじめて公に奴隷制反対の意見陳述をしたのもこの議事堂で、1837年3月の特別会期中だった。奴隷制は不公正で悪い政策だが、すぐに廃止しようとする者は状況をさらに悪くするだろうという、急進的な奴隷制廃止論者を牽制する意見だった。そして、「憲法は奴隷所有を神聖な財産権として認めている」「奴隷制は完全に州政府に判断を任された事項である」といった州の決議案に反対票を投じたが、77対6で、決議は可決した。

 

 なぜリンカーンは奴隷制に反対するのか。出身のケンタッキーは1792年に奴隷州として認められた州である。両親は、奴隷制反対のバプティスト教会の教会員で、教会の方針に厳しく従い、ケンタッキーの奴隷制にも反対していたとか。また、父トーマスのような貧しい農家は、ケンタッキーの大地主がいい土地を独占し、かつ奴隷を使って土地を耕しているのでは太刀打ちできなかった。奴隷のほうが多いようでは、16歳以上の男子は仕事が見つからなかったのである。きっと父は貧困の愚痴をこぼしたに違いない。そういう家庭環境に育ったリンカーンにとって、奴隷制反対は当然だったろう。リンカーンがどの教会にも属さなかったのは知られるところである。人道的見地ではない、まさに経済から見た奴隷制反対だったのである。

現在のスプリングフィールドへの州都移転が決まったのも、この1836−1837年の会期だった。

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バンダリア州議事堂

 今残っているバンダリアの州議事堂は、実は3つ目である。1つ目は1823年の火事で焼失、2つ目は銀行の建物が使われた。今の3つめが1836年の会期から使われるようになったときにはすでに、州の人口はこの建物の大きさでは処理できないほど増えていた。州北部の人口が増加するにつれ、州都をさらに北に移そうとする動きが活発化、リンカーンもその動きに同調し、ロビー活動を行った結果、1837年2月に移転が決定、1839年7月4日からスプリングフィールドに州都が移ることが決まった。

 1838年、リンカーンは3度目の再選を果たし、議会のある時はスプリングフィールドからバンダリアまでやってきた。その年の12月からの第11回会期が、バンダリアでの最後の議会となった。リンカーンは下院議長になろうとしたが、民主党議員に敗れた。 

建物の2階に、上院と下院があった。ふーん、ここかあ。。下院の部屋には、3人か4人掛けの長い机が、半円状にいくつも何列にも並んでいる。訪問客が必ず聞く問いがあるという。「リンカーンはどこに座っていたの」答えはない。現在のように、席に名札があって、決まっていたわけではないらしい。ただ、ホイッグ党は部屋の右側、民主党は左側だったそうな。

 

 リンカーンが下院議員としてバンダリアで過ごしたのは全部で44週だった。1831年にぶらりとニューセーラムにやってきたフロンテイア青年は、わずか8年後には弁護士として、政治家として州都に乗りこんでいる。そして、リンカーンを後押ししたニューセーラムは、結局港町に発展することができず、州都スプリングフィールドがリンカーンをちやほやしはじめた1840年頃までには、もう存在していなかった。