「リンカーンの国から」
() 準州時代

 

イリノイの英国時代は短い。10年ほどである。1778年、アメリカ独立戦争西部戦線で、バージニア知事の命を受けたジョージ・クラーク将軍が、イリノイのカスカスキア、それからインディアナのビンセンヌを英国から奪還して、イリノイの“正式な”英国支配は終わった。今日、イリノイとインディアナの州境をなすワバッシュ川に面して、壮大なジョージ・ロジャース・クラーク・メモリアルが建つ。アメリカにとって、英軍に勝つということがどんなに意味がある出来事だったかを思い知らされるような建物である。

 

そのころである。ハイチ黒人ジャン・デュサーブレがシカゴにやってきて定住、イリノイのオタワ族やセントルイスのマイアミ族と取引をはじめたのは。アメリカが独立したといっても、英国はまだまだアパラチア山脈の西での領土拡大のチャンスを狙っていた時代である。イギリス人は、デュサーブレを、教育のあるかっこいい黒人と書き残した。

 

Text Box:  
英国軍を破り、アメリカ独立を導いたジョージ・クラーク将軍記念モニュメント(ビンセンヌ)
 1784年 バージニアは東部からの遠隔統治ができなくなり、イリノイをはじめとする西部の土地を連邦政府に譲渡、イリノイはアメリカのノースウエスト・テリトリーに組み込まれた。現在のオハイオ、インディアナ、イリノイ、ミシガン、ウイスコンシンの一部を含む広大なオハイオバレー地域である。

独立戦争前夜の1776年ごろには、すでに北部では奴隷制は衰退しはじめていた。新しいテリトリーへの奴隷制の拡大は、新規入植を難しくするだろうと懸念した連邦政府は、1787年、ノースウエスト法令で「犯罪人が罰として労働する以外は、奴隷制も望まぬ年季労働もない」と決めた。要するに、ノースウエスト・テリトリーでは奴隷制は禁止されたのである。そして、オハイオ川の北は自由州、南は奴隷州ととりきめられた。 

 

 同じ1787年に、ペンシルバニアで開かれたのが合衆国憲法制定会議である。奴隷制は大きな問題だった。黒人に選挙権を与えるのか。奴隷を財産と見なすなら課税はどうするのか。それとも、そういった規定はすべて州に任せるのかー妥協の産物として、5分の3条項が提出された。連邦議会の上院と下院の定員を決めるのに、上院は人口に関係なく二人、ところが下院では、人口に比例して定員数を決定、その際に黒人奴隷は頭数の5分の3を人口として計算しようというものである。5分の3かあ−奴隷の数も勘定して人口を増やし、その分議員数も増やして、議会での影響力を大きくしようという南部の計算だなあ。。5分の3とは、わずかに南部の勝ちということだなあ。。要は、奴隷制問題なんて、政治家にとっては妥協で片付ける一種の派閥争いのようなものだったのである。それも金と力を呼びこむための道具にすぎなかった。合衆国憲法自体がその妥協に加担、のちの南北戦争の伏線となっていく。

以後、インデイアンたちの抵抗にあいながらも、ノースウエスト・テリトリーへの白人の入植は続いた。その結果、1799年、オハイオ準州が成立・分離、1800年にはインデイアナ準州ができて、イリノイもインデイアナに組み込まれた。インディアナの中心は、かつてのフランス村、ビンセンヌである。

 

 このインディアナ準州に「奴隷法」があった。長年の年季労働を認めるもので、実際は奴隷制と同じだった。つまり、表向きは奴隷制禁止となっていたが、すでに奴隷はいたわけで、新しく奴隷をもちこむことは禁止と法解釈しても、実質的には意味がなかったということになる。

 南部と北部の妥協の産物ー憲法は、アフリカからの奴隷の輸入禁止を1808年まで延期すると決めた。最初の逃亡奴隷法も成立。ある州で奴隷の者は、他の州、たとえ自由州に移っても奴隷である、というものである。また奴隷を見つけた自由州は、所有主から要求されれば、所有主に返さねばならない義務がある、とされた。

 同じ頃の1793年、イーライ・ホイットニーが綿繰機を発明、産業革命によって大量生産時代を迎えていたイギリスの原綿輸入は急増、奴隷の需要も増大した。

ところが、1807年 英国議会は奴隷貿易を廃止、合衆国憲法が定めた1808年の期限も来たが、憲法はアフリカからの奴隷輸入を禁止したとのことで、キューバといった他国からの密輸入は続き、かつ国内での奴隷売買が活発となっていく。要するに、北で自由黒人を誘拐、南で高く売れば儲かるという仕組みである。

 

Text Box:  インディアナ準州の中心地、ビンセンヌ
*click to big picture
 イリノイの人口が増え、準州と認められ、インデイアナから分離したのは1809年である。1813年には、イリノイ準州への黒人移入が禁止されたものの、年季労働は許されていた。要するに、黒人人口は増やしたくないし、いっしょに住みたくもないが、働くならOKというところだろうか。イリノイ準州政府は、1814年、塩製造業での奴隷使用を許可している。

イリノイへの最初の入植者は、ケンタッキー、テネシー、南北カロライナ、ヴァージニアといった南部に住んでいた人々だが、奴隷制に対しては寛容ではなかった。ケンタッキー出身のリンカーンの父親も同様、金持ちの奴隷保持階級に抑圧された貧農層がイリノイにやって来たからである。パイオニアたちは奴隷制をこわがるとともに、自由黒人が自分たちといっしょに住むことにも熱心に反対した。1818年、イリノイがついに21番目の州に昇格した時、州憲法は奴隷制を禁止したが、相変らず年季労働は許したまま、いくつもの「ブラックコード(黒人法)」を実施した。

 

まず、黒人を自由にして逃がす目的でイリノイに連れてくることはできなかった。見つかれば一人あたり罰金1000ドルを課せられた。逃亡者をかくまうのは重罪とされた。イリノイの自由黒人は市民権も選挙権ももたず、裁判所に訴えることも証言もできず、民兵にもなれず、自分たちの財産を自由に使うこともできなかった。自由黒人はその証明書をいつも携帯しなければならなかった。もし証明書をもっていなかったら、逃亡奴隷と見なされ、新聞に広告を出され、売買されて、1年間の年季労働につかされた。もちろん読み書きは教えてもらえなかった。自由の証明書には、まるで日本の戸籍のように、家族全員が登録され、管理された。

 

 自由州イリノイの黒人差別意識は「隔離」といえよう。それはちょうどリンカーンが、「私が奴隷制に反対するからといって、何も黒人女性を妻にすると言ってるわけではない」と政敵と議論したまさしくそのメンタリティにほかならない。そして、リンカーン自身は、イリノイのブラックコードについては一言も言及しなかった。