「イリノイ探訪」

序 ー デカブ

 

 

 

 コロラド州の北に位置する過疎の農業州、サウスダコタからイリノイ州デカブに移ってきて、早一年が過ぎた。

かつて、私が7年をすごしたサウスダコタ州西部の町、ラピッドシテイは「ミドル オブ ノーウエア」と呼ばれる。達者なハンドルさばきで車を飛ばしても、東はミネアポリスまで8時間、西はソルトレークシテイまで10時間、南はデンバーまで6時間、そして北は北極圏まで何もなしという、都会の雑踏とエネルギーからは隔絶した土地柄だからである。それにひきかえデカブは、大都市シカゴから西へ63マイル、車でわずか1時間。都会育ちの私には天国のように思える1年だった。

 

 ところが、ふと立ち止まると、カリフォルニアの友人たちの声がいやに胸につきささるのである。

 「デカブ。そんなところへ行くぐらいなら、ダコタにいたほうがいいよ。シカゴの西なんてなんにもないんだから。」

「シカゴ。あそこにあるのはシアーズタワーぐらいでしょ。何もないよ。やっぱりアメリカといえば、東と西海岸ですよ。」

 

 本屋に行っても、地元について書かれた本は見当たらなかった。ダコタの本屋では、地元の歴史の本が山積みだったのに。それもそのはずダコタは、連邦政府とインデアンが最後の壮絶な戦いを繰り広げた土地であり、今だに日常生活では、大西部のアウトローやカウボーイたちの文化を色濃く残した、西部劇の世界だからである。それにひきかえ、イリノイはー。

本屋に本が見当たらないとなると、自分の足で調べるしかない。イリノイでの時間を大切に楽しむために。この1年、私はそんな思いにとらわれはじめていた。

 

 それでも、デカブの町を有名にしたものを知ると、私をダコタからデカブまで導いた赤い糸を感じてしまった。牛の囲いこみを可能にすることで、カウボーイたちが謳歌した自由の大平原を消滅させた「有刺鉄線」発祥地だというのである。

ニューヨークの企業家たちに依頼されて、ラッセル・ハントレーが農地視察にやってきたのが1837年。シカゴ・ノースウエスタンの鉄道が敷設されたのが1855年。ハントレー村がデカブになったのは1857年である。

 

1873年のカウンテイフェアーで、デカブのヘンリー・ローズが、木材に釘をうちつけただけの簡単なフェンスを紹介した。当時、農地開拓が進み、安価なフェンスの需要が高まっていたのである。ローズのアイデアに目をつけたのが、デカブの3人の男たちだった。ジョゼフ・グリデン、ヤコブ・ハッシュ、そしてアイザック・エルウッドである。男たちはローズのアイデアを改良、特許をとり、世界で初めての有刺鉄線工場を建てて大量生産に乗り出した。1874年には、わずか32マイルをカバーする1万ポンドの生産量だったが、1880年には263000マイルをカバーする8000万ポンド以上の生産量を誇るようになり、デカブは「バーブシテイ」と呼ばれるようになっていた。とりわけ、エルウッドは後に、全米のワイヤー生産を独占するアメリカンステイールアンドワイヤーカンパニーを設立するまで事業を拡大、巨万の富を築いた。

 

 というのが、デカブの「売り」である。有刺鉄線かー。あまり感慨がわかないというのが、島国日本の、そのまたうさぎ小屋で育った私の正直な気持ちである。