「イリノイ探訪」
アルコラ(1)
まさかこんな所で、”日本”に出会うとは思ってもみなかった。
イリノイ州中部アルコラーイリノイ大学のあるシャンペーンの町から、57号線を南に30マイルほど行った所にある、人口2700人の小さな町である。1855年にイリノイ・セントラル鉄道が通るようになるまでは、馬車の駅がある村にすぎなかった。最近は、全米一のブルームコーン(箒を作るとうもろこし)の産地として知られるようになった町である。
その小さな町のメインストリートに、「ラガデイ・アン・アンド・アンディ」博物館がある。「ラガデイ・アン・アンド・アンディ」とは、アメリカ人なら誰でも知っているらしい人形キャラクターのことだ。らしい、と書くのは、私がその人形と遊んだわけでもなく、その名に何の感慨も持たないからだ。娘のエミは、15歳を目前にした今頃になって、「一回も買ってもらったことがない」とぶつぶつ言う。確か3つぐらいの時に、小さいのを一つ誰かにもらって持っていたのに忘れてしまっているらしい。面白かったのは、同居人の方だ。博物館では、「人形なんて、フン」といわんばかりに何の興味も示さなかったくせに、あとで姉と話したところ、4歳ぐらいまで人形がぼろぼろに擦り切れるまで遊んでいたと聞かされて、へらへらと照れくさそうに笑っているのだった。
博物館は、「ラガデイ・アン・アンド・アンディ」の生みの親、ジョン・グルールの一生や人形の歴史、数多くのコレクションを紹介している。赤毛は変わらずとも、人形をよく見ると、「ハローキテイ」同様、時代とともに顔が少しずつ変化している。
ジョン・グルールは1880年にアルコラに生まれ、2歳の時にインデイアナポリスに移っている。父親が印象派の画家として知られ、ジョンも十代の時にすでに画才を発揮していた。が、父親のように風景や人物画には興味がなく、1901年に地元の新聞社で政治風刺の漫画の仕事を始めた。以後、セントルイスやクリーブランド、ニューヨークといくつもの新聞社でキャリアを積んだ。
子供たちのために、イラスト入りの物語を書き始めたのは1908年のことである。もともと優れたストーリーテラーだったグルールは、1902年に生まれた愛娘マルセラのためにいろいろなストーリーを作っては話して聞かせていた。が、マルセラは1915年に病死、その同じ年にグルールは「ラガデイ・アン・アンド・アンディ」の商標登録をしている。ラガデイ・アンはグルールにとって、マルセラのうまれ変わりだったのかもしれない。
1918年に、シカゴの青春もの出版社ボーランドが、ラガデイ・アン物語を出版、同時に人形も作られるようになった。その後グルールは、「ラガデイ・アン・マン」として知られるようになるまで成功したが、それでも新聞や雑誌の仕事を続け、その漫画や話しの巧みさは多くの人々を魅了し続けたという。1938年に亡くなるまでに、34冊の自作のイラストとストーリーの絵本、11冊のストーリー(イラストは他人の手になるもの)、そして21冊の他人の本のイラストを手がけた。
博物館がオープンしたのは2001年5月。作ったのは、グルールの孫娘ジョニと、夫のトム・ウオナメーカーである。オープニングには日本からも日本人が大勢かけつけたというから、何事ぞと思いきや、それもそのはず、館内の販売スペースの半分以上を占めていたのが、”日本”だったのである。日本の「ラガデイ・アン・アンド・アンディ」、つまり着物を着た人形や、日本のファンからの手紙、ファンたちが手作りした人形の写真、雛壇、ちょうちん、羽子板、扇子、日本人形などなど、日本のみやげものが所狭しと並んでいる。“日本“コーナーへの入り口は、地元のアメリカ人大工が建てた木造の立派な門があり、壁にはジョニが、着物を着たラガデイ・アン・アンド・アンディが、富士山の見える京都の町を散策しているという設定の絵を描いている。
なぜ、”日本”なのか。日本に初めて「ラガデイ・アン・アンド・アンディ」が紹介されたのは、同名の映画が1977年に封切られた時とか。それから23年後の2000年11月に、横浜で、第一回「ラガデイ・アン・アンド・アンディ」フェスティバルが開かれた。そのフェスティバルに出された小物ーブラシスタンド、コップ、マグネット、キーチェイン、ブローチ、ハンカチ、タオルなどがショーケースにわんさか並んでいる。”かわいさ”を売り物にしたこまごまとした物たちこそ、まさしく日本の消費文化を象徴するものであり、私は思わず「ああ、日本だ」と声をあげたのだった。
日本に「ラガデイ・アン・アンド・アンディ」の輸入代理店があって、2000年4月末から日本国内で、オリジナルラガデイ商品のライセンス生産を行っているとのこと。日本のファンクラブは4年前の1997年からあるという。そして今年もまた11月に、池袋のサンシャインシテイで、第2回のフェステイバルが開かれる。大手出版社の学研が出している雑誌「カントリードール」主催の手作りドールコンテストというのも共催されるそうで、こうなってくると、2001年5月に博物館ができたことすら何やら「日本マネー」がからんでいるような気がしてきて、ふん、ふん、ふん、と私は、日本人の好きな「異国情緒」と「金もうけ」のはざまに漂うにおいをかぎ分けようとしてしまう。
それにしても、日本人はラガデイ・アン・アンド・アンディのストーリーを読むのだろうか。だから愛着が湧くのだろうか。それとも単に“物”に対する憧れなのだろうか。日本における広告を調べた学者が、日本人は車や化粧品など非日常を強調したい物の広告には外国人をよく起用するが、海苔や掃除用品など日常生活に密着、日本の伝統や”心”につながる物には決して外国人を使わない、それは日本人の閉ざされた社会の姿だと書いている。そしてまた、何もかも受け入れるとは、実は、何も本質的に受け入れないという「排除」の形態だとも。(小坂井敏晶「異文化受容のパラドックス」朝日選書235ページ)「閉ざされた社会」が提示する、“物”に対する表層的な「開かれた文化」のパラドックス状況に働く反発と憧れ、模倣と拒絶の力学ー着物を着たラガデイ・アン・アンド・アンディもいいけれど、何か欠けてるものがあるんじゃないのと、どうしても首をかしげてしまうのは私だけなのだろうか。