「イリノイ探訪」

コリンズビル


 久しぶりにインデイアンのパウアウに行った。パウアウとは、インデイアンの盆踊りのようなもの。11月初めに、ノーザンイリノイ大学で開かれたのである。キャンパスにN.A.T.I.O.N.S.というインデイアン組織があり、毎年開いている。会場には大きなテイピイが立てられ、アクセサリーやブランケット、CDなどインデイアングッズを売るベンダーがたくさん来ていた。フライブレッドやビーンズといったインデイアン料理も並んでいた。観客たちは、ダンサーたちの踊りをとり囲むように座っている。独特の口調のインデイアンの司会で、ダンサーたちがフロアに出ていく。久しぶりにジングルダンスやトラデイショナルダンスを見て、懐かしさがこみあげてきた。
 そのうち、集まって来ている人々の中に、いやにウォナビーが多いのに気づいた。ウォナビーとは「なりたがり屋」のこと。どこから見ても白人にしか見えないのに、インデイアンダンサーの格好をし、頭に羽をつけている。イーグルは連邦政府が管理する貴重な国有財産であり、死んだイーグルでも見つけるとすべて政府に報告せねばならない。そしてインデイアンにとっては、羽一枚でも聖なるスピリチュアリテイそのものとなる。本物のイーグルの羽は滅多なことでは使われない。たいてい鶏かターキーの羽で代用されるが、インデイアンの人ならともかく、白人が鳥の羽を頭につけているのには、「インデイアンズ」とか「ブラックホーク」といったプロスポーツのロゴをめぐる論議同様、うさんくささを感じてしまうのである。
 サウスダコタの居留地のパウアウに行くと、敵意とまではいえなくとも、やはり「よそ者」の違和感から逃れることはできなかった。一方、イリノイのパウアウは政治色がなく平和だった。「人類みな兄弟」式の美辞麗句が高く掲げられているようで、現実が遠くに打ち捨てられているような気がした。
 平和な時代のインデイアンといえば、コリンズビルの近く、ミシシッピ川を越えてミズーリ州セントルイスの高層ビルを望むことができる、カホキアマウンドの遺跡に立った時を思い出す。「へえ、アメリカにも、こんな時代のインデイアンの遺跡があるんだ」と驚いたのである。
 コリンズビルは、セントルイスのダウンタウンから15分ほどのところにある、人口22000人の町である。1810年にできて、一度は炭坑の町として知られていた。現在は、1949年に造られた170フィートの世界一大きなケチャップビンが自慢の町である。ブルックスなんていうケチャップのブランド名は聞いたことがない、と1956年生まれの同居人が言った。
 この町から10分ほど西へ行ったところに、1982年に国連のユネスコから世界遺産に指定された、2200エーカーの先史時代の遺跡、カホキアマウンドがある。アメリカの先史といえば、コロンブスが来た1492年以前ということだから、紀元前の縄文文化にロマンを感じる日本人としては、苦笑ものと言えば言えなくもない。

 

 

 


 かつてこのあたりに住んでいたインデイアンたちは、ミシシッピ川の肥沃な土地にミシシッピアンと呼ばれる一大文明を築いていた。紀元700年から1400年あたりのころである。この文明の特徴は大きなマウンドー土丘ーを造ったことだ。メキシコ以北唯一、かつ最大のアメリカインデイアン都市跡であるカホキアマウンドには、頂上が平坦なもの、屋根のような形のもの、三角錐にとがっているもの、丸いものと、全部で120を超えるマウンドが造られていた。現在、そのうちの109の所在が確認され、遺跡として保存されているのが68、公開されているのが、都市の中心部にあたるグランドプラザに点在する17の大小のマウンド、そして観光客が頂上まで登れるのが高さ100フィート、底面は14エーカーにもなるモンクスマウンドだけである。
 モンクスマウンドは4層のプラットホームをもち、建設には紀元900年から1200年ごろまで、300年はかかったと考えられている。えっちらこ、えっちらこ、と土を運んだ、声なき無数の人々の気持ちや姿を想像しながら、私は頂上までの階段をゆっくり登った。そして、「太陽の国」カホキアの王の気分で、眼下に広がるグランドプラザの、セピア色の都市の賑わいを満足気に見下ろした。最盛期の1100年から1200年ごろには二万人が住んでいた。当時ロンドンは泥まみれの村、アメリカでは1800年代にフィラデルフィアの人口が3万人を超えるまで、カホキア国がアメリカ最大の都市だったというから、カホキア王の権力は絶大なものだったのである。ミシシッピ川の河川交通により、他地域からさまざまな物や人々が運ばれてき、グランドプラザの’朝市’やお祭り、競技大会の賑わいは相当なものだったに違いない。王は、近くに造った5つのウッドヘンジ(太陽カレンダーとなる、地面に立てた木の支柱群)で、毎日日の出を祝い、季節を知り、春分の日や秋分の日、夏至・冬至を祝い、祭祀をとり行っていた。キリスト教という異教徒によってアメリカ国が建設される以前の平和な時代のことである。
 モンクスマウンドの南にあるマウンド72は墓場である。それも、カホキア国の社会階級を如実に表した墓場だった。40代前半の王と思われる男性が、二万ものメキシコ湾の貝殻で飾ったブランケットや、死後も仕えるようにと男女3人ずつ、6人の人間と数多くの貢物に囲まれて埋められている場所があるかと思えば、生贄とされたらしい15歳から25歳までの若い女性たちが100人以上埋められていたり、中には祭祀のために頭と手が切り落とされた20歳から45歳の男性がいたり、その一方で担架でどさっと運ばれてき、老若男女混合でごみのように打ち捨てられた人々もいた。

 

 
 遺伝子研究だの臓器移植だのと高度科学技術文明が、凡人の日々の時間を必要以上に複雑にしているように思える現代人の感覚からすると、生贄を必要としたカホキア王たちの悩みも、生贄となった男女たちのそれも、私たちの日常の営みからは想像もつかないほど小さかったに違いない。単純な時間の繰り返しで十分に幸せだったんだろうなあ、という思いがうらやましい。モンクスマウンドの頂上で私は、あたりを飛び交うとんぼの群れを目でおっかけ、足元においしげる乾いた雑草が風にそよぐかさついた音を心地よく聞きながらぼんやりと、流れ続ける時間が内包するミクロの世界に属した人々の極小の生と死を考えていた。それは、「盛者必衰、諸行無常の鐘の音」よりももっと深く心にしみとおった。
 1200年ごろをピークに、カホキア国は衰退していく。原因は分かっていない。14世紀には完全に廃墟となっていた。それから200年を経て、1600年代後半に、カホキアという名の小グループを含む、イリナイというインデイアン部族がこのあたりにやってくる。「イリノイ」の語源だろうか。それからまもなくフランス人の毛皮商人や宣教師たちもやってきた。1699年のことだ。1735年には、フランス人の宣教師たちが、カホキアインデイアンたちをこのモンクスマウンドの近くに連れてきて、モンクスマウンドの第一層にチャペルを建て、小さな村を造った。「モンクスマウンド」と呼ばれるゆえんである。以降、近隣のインデイアンたちとの戦いが始まった。この地のアメリカ西部史の始まりである。そうしてインデイアンとの戦いの歴史は、1818年にイリノイが州となり、1832年にサック族のブラックホークが破れるまで、ほぼ100年続く。そして今、イリノイでインデイアンといえば、多民族文化尊重社会を構成する一エスニックグループにすぎないのだろうか。
 ノーザンイリノイ大学のパウアウでもらったパンフレットの一つが、シカゴ近くのウエストチェスターに事務局を置く「ミッドウエスト・ソアリング・ファンデーション」の活動を紹介していた。セージやスイートグラスといったネイテイブの植物をイリノイの地に植え、繁殖させたり、バッファローをイリノイに呼び戻すためにすでに一頭を購入したという。イリノイにバッファローが戻ってくるー。頭に鶏の羽をつけて喜んでいるウォナビーにはない、人間の本物のダイナミズムが好きである。