「イリノイ探訪」
チェリー
昨年の秋、九州最後の炭鉱が閉山となったというニュースが、日本から流れていた。規模を縮小して操業を続けることを模索したが、採算の見通しがたたないので断念したという。テレビの画面には、ヘルメットをかぶった精悍な男たちが黙々と坑道に下りていく、最後の日の姿が映し出されていた。日本国内に残っていたもう一つの炭鉱、北海道の海面下737メートルを掘っていた太平洋炭鉱も、2002年1月30日をもって閉山したとか。坑内の温度約26度、湿度80パーセント、轟音と粉塵にまみれての仕事である。私たちが毎日何も考えずに使っている電力は、今も地底や海底で働く人々の忍耐と、危険な仕事への誇りや情熱に支えられていたのだと思うと、ニュースを聞いて、「へえ、まだ石炭を掘ってた人がいたんだあ」とただ驚いただけの自分と、自分の無知にほとほと嫌気がさした。
石炭をめぐる状況はイリノイも同じではないだろうか。全米で消費される電力の56パーセントは石炭から作られており、石炭はイリノイで3番目に大きい産業だという。車社会にあって人々は、1セントでも安いほうにと石油の値段に敏感になり、原子力の安全性はよくマスメデイアを騒がすが、石炭のことを人々はどれだけ話すだろうか。
イリノイでは毎年4000万トン以上の石炭が生産され、10億ドルもの取引がある。顧客の大半は電力会社で、最大の市場であるインデイアナやフロリダ、ミズーリ、テネシーといった中西部と南部の電力業界が、イリノイ産石炭の3分の2を買い上げている。海外へも年間約200万トンが輸出されている。主な輸出先は英国(43パーセント)、デンマーク(19%)、ドイツ(17%)だが、なんと日本にも輸出(5%)されているのである。
イリノイで石炭が見つかったのは300年以上前、採炭が始まったのは1810年からだった。鉱脈は、州面積の3分の2にあたる37000平方マイルをおおい、102の郡のうち86郡をカバーする。300億トンという埋蔵量は全米埋蔵量のほぼ8分の1にあたり、600万戸の家庭に500年にわたって電力を供給できる量だという。
かつてはイリノイの73の郡に4500もの鉱山があり、その周辺には炭鉱ブームに沸く村が次々と現れては消えていった。 村の通りに競うように立ち並んだ店といえばもちろん酒場ーサロンだったろう。炭鉱で働く男たちの唯一の楽しみといえば、毎晩酒を飲み、週末には村の広場で野球をするぐらいだったに違いない。が、一度坑内で火事でも発生すれば、男たちは次の山を求めて一人また一人と去り、村はまたたくまにさびれていく。やがて、古い鉱山のたて坑に牛が落ちて、その夏おぼれ死んだといった話が静かに語りつがれるような、地図には存在しないゴーストタウンとなる。
イリノイ西部への入り口、ペルーから80号線で西へ10分、ラッドから北へ5分ほど走ったところにある、人口500人の小さな村チェリーも、そんなうち捨てられた炭鉱の村ということになるのだろう。現在の山に人影はなく、回りは鉄条網で囲まれていた。が、日曜だというのに、若者たちが大きなトラックを運転し、出入りしていた。どうやらセメント会社の敷地になっているらしい。
チェリー鉱山では、1905年にセントポール石炭会社が採掘をはじめ、1909年には年間30万トンを生産していた。炭鉱の所有主であり、また唯一の顧客だったのは、シカゴ・ミルウオーキー・セントポール鉄道会社だった。このチェリーの鉱山を有名にしたのが、1909年11月13日土曜日に起こった大火災である。259人が命を落とす、アメリカ史上最悪の炭鉱事故の1つとなった。
当時、石炭を乗せたカートを引くのは、40頭ものラバの仕事だった。ラバたちの首には、トンネルを通るときを炭鉱夫たちに知らせるための小さな鈴がつけられていた。ラバたちの食料、枯草は地底に運びこまれていた。鉱夫たちは、電気がなかったため、灯油たいまつを使って仕事をしていた。
事故の日、地底のラバ小屋の枯草に、たいまつからこぼれた油が燃え移り、火災が発生した。火はまたたくまにひろがり、何人かは逃げることができたが、多くは炭鉱内に取り残された。死者の中には、救助に駆けつけて亡くなった人が12人もいたという。
遺族を助けようという善意の声がシカゴやその周囲のコミュニテイから集まり、40万ドルの基金がすぐに設立された。また鉄道会社との交渉で、さらに40万ドルが追加された。この事故をきっかけにより厳しい炭鉱規制が敷かれ、また州政府に労災補償法の成立を促したのだった。
それでも現実には事故は続く。イリノイの炭鉱の歴史で初めて死亡事故が出なかったのは1981だった。採炭が始まって170年間、毎年死亡事故と背中合わせで、男たちは地底で働き続ける。現在、イリノイ西部から南部にかけての17の郡の27の鉱山で採炭が続いており、5000人以上の人々が働いている。
イリノイの石炭は軟炭で、1ポンドあたりの熱量放出率が高い。つまり1時間に1キロワットの電力を生み出すのに、1ポンド以下の石炭ですむという具合に効率はいいのだが、硫黄の含有量が多い。1990年に排気ガス規制法が改正され、より厳しい規制がしかれるようになってから、市場では、熱量放出率が低くても、硫黄の含有率の低い西部州の石炭の需要が高まってきている。イリノイでは、排気ガス規制に合うように、硫黄含有率の低い石炭を混ぜたりとさまざまな方策を講じたが、結局コスト高となって、閉山を余儀なくされてきた。閉山は失業した人々の生活はもちろんのこと、地域経済に大きな影響を与える。税収入の減少により、学校をはじめとするコミュニテイが大きな痛手を受ける。
それでも、州政府の商工・地域振興部、石炭開発マーケテイング課のチーフ、ジェームス・ムーア氏は、ウエッブサイトで胸を張っている、環境に優しい技術開発に投資すれば、21世紀のイリノイの石炭産業には力強い未来が開けている、と。世界エネルギー報告によると、2020年までに世界のエネルギー消費量は2倍に増加、世界の石炭生産量もほぼ2倍の78億トン以上になるとのこと。2010年までにヨーロッパでの石炭の需要は41パーセント増加、アジアでも15年以内に輸入量が82パーセント増えるだろうと予測されているとか。ということは、これからも一瞬の事故で命を落とす危険にさらされながら、地底や海底の苛酷な労働条件で働き続ける人々がいるということである。
チェリーの村に入ってまもなくのところにある墓地に、鉱山労働者組合が1911年に建てた慰霊碑が建っている。その慰霊碑のそばで、星条旗がはためいていた。アメリカ人が国旗に抱く思いは、日本人のそれとは大きく異なることはよく指摘されることだが、こうやって、90年以上も前に鉱山事故で命をなくした人々にも敬意を表して、星条旗がはためいているという事実に、私は改めて、アメリカ国家が標榜する民主主義の底力を想う。国は確かに過ちを冒すだろう。が、その過ちを正す使命を天賦の権利として与えられているのがアメリカ国民である。アメリカという国は、この国に住むあらゆる人々が国造りに関わり、そのたゆまぬ努力と貢献によって、人間社会の壮大な理想に向かって絶えず変化し続けている不完全な存在とされる。プロセス思考でとらえる星条旗は、国家とその旗の下に集う人間との間に交わされた契約、国民的合意を象徴する。
翻って、私は日章旗を思い浮かべて、首を傾げた。日本の日常生活では見かけることが少なくなった、白地に赤く丸く染められた「日の丸」が象徴しているものは一体何なのだろうか。星条旗は国旗法でアメリカの国旗と定められているが、日の丸を国旗として定めた法律は戦前も戦後もないとのこと。起源は、16世紀末に豊臣秀吉が朝鮮に出兵した時の軍旗や17世紀の朱印船、江戸時代には幕府の御用米を運ぶ船の印や藩が外洋に出す船に掲げる「日本国総船印」に使われた。明治時代に日本船が掲げる国旗として、赤丸の直径は縦の長さの5分の3と様式が定められたとか。もちろん戦時中は、軍国主義日本の象徴として、占領地に翻っていたという(朝日新聞99年7月3日付)。
ふーん、なあんだ、日の丸って、何やら島国日本の海の外への憧れ、悪く言えば海外進出・侵略の欲望を象徴してるだけなんじゃないの。そう思うとなぜか、チェリーの炭鉱で命を落とした259人の人々がうらやましくなった。あなたたちのことは決して忘れませんー星条旗がそう彼らに語りかけている、と私ははっきりと感じたからである。