「イリノイ探訪」
スティルマンバレー
古戦場に向かうにはぴったりの気分の日だった。夜明け前の激しい雷雨はやみ、太陽が顔をのぞかせているものの、うす暗い青灰色のあつい雲が空をおおっていた。重なりあう雲のすきまから、まっさおな空がひょっこり浮かんでいるが、木枯らしが吹きすさんでいた。収穫が終わり、黒い土肌を寒風に吹きさらした畑地が道の両側にえんえんと続く。冬枯れの木々が点点と空と畑の境界線に突き刺さっている。
メモリアルは村に入ったところの、それも小さな丘とも呼べない、道より少し高くなった場所に建てられていた。人口850人の小さな村の、それも今から170年も前の戦争のメモリアルにも、そばで星条旗がはたはたと風に翻っていた。村の名はスティルマンバレー。ロックフォードから39号線を10マイルほど南に下ったところにある。1832年5月14日、ブラックホーク戦争の最初の戦地として知られている場所だ。
戦争遂行にあたっては軍上層部の思惑が交錯し、うまく指揮がとれていなかった。そのために兵隊たちの士気は下がり、アイゼア・スティルマン少佐率いるところの275人の民兵たちは、50人たらずのインデイアンたちに追い詰められ、ここで逃亡しはじめたのだった。当時は「オールドマンズ・クリーク」と呼ばれていたが、不名誉な指揮官の名をとって、この戦闘は「スティルマンズ・ラン」と呼ばれる。戦闘で死んだのはインデイアンが3人、政府側が12人で全員が切り裂かれた。つまりこのメモリアルは、政府の負け戦さを記念するものなのだが、なぜこの負け戦さが特別か、というと、白人側が負けているとの知らせにかけつけた民兵たちの中にリンカーンがいたからである。そして死んだ兵隊たちを埋めるのを手伝ったから、なのである。
1901年に建てられたメモリアルにはっきりと刻まれていた。「アブラハム・リンカーンが、名誉ある戦死者を埋葬するのをてつだったことが、この地を“セイクリッド”なものにした」と。はあ、なんだって。「歴史に善意なし」という言葉が、私の心の中でふつふつと頭をもたげてくる。セイクリッドって、宗教的な意味をもつ言葉じゃなかったのか。「この地で倒れたイリノイの義勇兵を弔って」という言葉とその気持ちは十ニ分に理解できるけれど、なんでリンカーンが穴を掘ったら、この地が“セイクリッド”になるのだろう。
メモリアルのてっぺんには、銃を持った民兵の像が立っている。それを見た瞬間、昔、カンサス州のレブンワースで、とある教会に入った時のことを思いだした。教会の壁には、インデイアンと戦って死んだ第七騎兵隊のカスター将軍や兵士の名前がずらりと刻み込まれていた。友達はそれを指でなぞりながら、「どう、すばらしいでしょう」と言ったのだ。私は、とっさに言うに言われぬ嫌悪感を覚えて、「何がすばらしいのか、さっぱりわからない」と友達に言い返した。友達は黙って口をつぐんだ。
今もって思う、何がすばらしいのか、と。リンカーンの穴掘りだって同じだ。リンカーンの何がメモリアルを“セイクリッド”にすると言うのだろう。
リンカーンとインデイアンとの最初の接点といえば、リンカーンが生まれる以前の1786年に、父方の祖父、同姓同名のアブラハム・リンカーンが、友人のダニエル・ブーンに勧められて移ったケンタッキーで、インデイアンに殺されていることだ。8歳だった息子トーマスは、父親が殺されるのを目撃、父親と同じ名前をつけた息子、のちの大統領には小さな時から、ダニエル・ブーンやインデイアン、そして殺されたアブラハムの話を繰り返し聞かせたという。リンカーンがインデイアン嫌いに育ったかどうかは不明だが、とにかく1832年当時、”徴兵”法により、黒人、混血、インデイアン以外の18歳から45歳までの白人男子は民兵として入隊せねばならなかったのである。リンカーンの入隊なんて、ただそれだけのことだったのではあるまいか。
ただリンカーンは、1832年3月、ニューセイラムから州議会の議員選挙に立候補していた。翌4月7日には、イリノイ民兵隊の第31連隊のキャプテンに、同月21日には、ニューセイラム近辺の義勇兵たちの中隊のキャプテンに選ばれた。リンカーンは”指令官”として意気揚揚と“従軍”していったわけだが、リンカーン自身はインデイアンとの戦闘は経験せず、戦い、殺したのは野生のたまねぎと蚊ばっかりだったという。1ヶ月後の5月27日には、リンカーンが率いる中隊は、オタワのフォートジョンソンで解散している。リンカーンがこのスティルマンバレーで”穴を掘って”からわずか2週間後のことだ。除隊後は、20日間だけエリア・アイルス率いる連隊に入隊、6月16日にはまた別のヤコブ・アーリーがキャプテンの中隊に入隊したものの、口べらしに人員整理され、7月10日には再び除隊している。戦争は8月2日に終わり、8月6日にはリンカーンの議員落選が判明しているのである。
何やら選挙運動を兼ねて軍隊に入り、”愛州心”を”売りこんで”いたようなものではないか。一度も生きたインデイアンには出会わずとも、戦争、つまり国家のために命を捧げた名誉ある退役軍人となったわけである。ラッキーの一言だろう。が、それはリンカーンだけではなかった。数では民兵を圧倒していたインデイアンたちは、当時すでにロックリバーの上流に退却しており、ウイスコンシンでの8月の最後の戦いと政府側の勝利は、民兵の多くが除隊したあとのことだったのである。民兵の多くは戦闘には参加しなかったが、裁判官や郵便局長など、コミュニテイでリーダー格だった多くの人間たちが、このブラックホーク戦争での”従軍“を、その後の政界進出への足がかりとしたのだった(「リンカーンとブラックホーク戦争」ロイド・エフランド著 51ページ) 国が認める名誉なんて案外そんなものかも、といえば叱られるだろうか。
”従軍“経験の政治的利用はあとからついてくるとしても、リンカーンだって“仕事”をして食べていかねばならなかったのは事実だろう。ブラックホーク戦争でリンカーンは125ドルを受け取っている。キャプテンの1ヶ月の給料は80ドルだった。それだけではない。戦後の1850年と55年に、現代のGI法と同様の法案が成立、ブラックホーク戦争で”戦った”者には土地が与えられることになった。1852年、リンカーンにはアイオワのトレド近くの40エーカーの土地が与えられた。1855年には更に120エーカーを手に入れている。リンカーンの死後、1892年に土地は、遺族によって1300ドルで売却されたが、なんとその土地には、今日重量2トンものモニュメントが建てられているらしい。そして、そこには次のように刻まれているという。「1832年のブラックホーク戦争に尽くした功績を称えて、リンカーンに与えられた」と(前出書 50ページ)
冗談じゃないよ。本当に”尽くした”のは、土地をもらうことのなかった戦死した人々ではないのか。読めもしない、うさんくさい条約で土地を取り上げられ、故郷を追われ、不毛の土地に追い詰められていったインデイアンたちも”戦死”した人々である。戦闘に加わることなく、穴を掘って、蚊を殺しただけのリンカーンに、どんな功績があったというのだろう。しかし現実には、除隊後のリンカーンがニューセイラムに帰る途中に通ったいくつかの町には、リンカーンの通過を名誉だと、リンカーンを称える碑があちこちに建てられているらしい。歴史なんて、「善意なし」どころか、名もなき無力だった者の真実を切り捨て、「村おこし」のために利用されるにすぎないものなのだろうか。
スティルマンバレーのメモリアルには、キャプテンや軍曹、伍長、兵卒、斥候たちと、インデイアンに殺された12人の名が刻まれていた。近くに墓石も12個並んでいたが、なぜか3つだけいやに新しかった。村役場のデール・ロップさんによると、12人のうち3人はこのスティルマンバレーではなく、スティルマンバレーとディクソンの間のどこかに埋められていたのだという。ところが、1980年代の初めに地元の有志が3人の骨の一部を探しだし、改めてこのメモリアルに埋め直し、新しい墓石を三つ建てたのだという。歴史を刻む善意とは、国といった実体のない、抽象的な概念にすぎない”化け物”ー“お上”から授かるものではなく、郷土を愛する草の根の人々の心に宿るものなのだろう。
郷土愛をもっと感じたのは、メモリアルの土台のそばに埋められたタイムカプセルを見た時だった。1975年に埋められて、100年後の2075年に開けると書いてあった。デールさんによると、村創立100周年だった1975年に、高校の社会科の先生が音頭をとって、その年の新聞や教会などのコミュニテイ紹介、高校生たちによる地元紹介の文章などが入れてあるという。2002年の秋の村祭りのテーマは、メモリアル建設100周年とのこと。そのうち、リンカーンが“穴を掘って”から200周年というのも、歴史的イベントとして盛大に祝われることだろう。ユーモアのセンスにあふれていたというリンカーンさん、あなたの”穴掘り”200周年記念行事をどう考えられますか。歴史に名を残したかったあなたとしては大満足でしょうか。たとえどんなに臭く臭っても、なんでしょうか。「立つ鳥跡を濁さず」はやはり、凡人が自分の非力を弁解しているにすぎないのでしょうか。