「イリノイ探訪」
デイクソン
イリノイといえばまずリンカーンだが、実はレーガン・トレールなるものがある。北部のタンピコからデイクソン、そして中部のぺオリア近く、ユーリカまでをつないでいる。第40代アメリカ大統領、ロナルド・レーガンのイリノイでの足跡を辿るものだ。レーガンの母親ネルは、アイオワとの州境にあるフルトン生まれ。父親ジョンはアイオワ生まれだが、6年生の時に両親をなくし、フルトンの祖父母に育てられた。2人はフルトンで結婚、1911年2月6日、人口1000人の町タンピコにあったパン屋の上のアパートの一室でレーガンが生まれている。ロナルド・レーガンは純イリノイ産なのである。
レーガンが大統領だった1980年代、つまり1981年から1989年といえば、私の人生が大きく転換した時代である。大学を出て会社勤めを始めて4年ほどがたったころで、すでに転職を2回経験していた。1981年には、新聞広告で見つけた外資系企業で毎日ごそごそと変わり映えのしない事務員をしていただろうが、すでに二足か三足のわらじをはきかけていた。が、レーガンがホワイトハウスを去った1989年といえば、結婚してカリフォルニアに移り住んですでに2年が経った頃で、子供も2才になっていた。私生活に追われていたせいか、レーガンには何の感慨もない。大統領に就任したニュースにも、アメリカって昔映画俳優だった人でも大統領になれるけったいな国らしいよ、と思った程度の記憶しかない。が、百科辞典によると、レーガンというのは、大統領という仕事に新しいスタイルをもちこんだ、つまり行政府のトップというよりは、メデイアを使ったコミュニケーションの重要性を認識させた人という評価がなされているらしい。要するに、メデイアの巨大な権力を利用して、政治の虚構性、ショー化に拍車をかけたということなのだろうか。
同居人は根っからの民主党で、「レーガンってどんな人だった」と聞いても、「そんなやつのこと、知るかあ」とそっけない。が、レーガン自身は共和党に傾きがちでも、1962年まで民主党だったというから驚きである。
ロックリバーが町の中心を流れる人口16000人の小さな町、デイクソンに、ロナルド・レーガンの少年時代の家がある。1920年、のちの大統領が9歳の時に引っ越してきた家だ。チャンスを求め続けた父親に従い、一家は、レーガンが2歳の時にタンピコからシカゴへ、それからゲールスバーグ、またタンピコ、そしてデイクソンへと引越しを重ねた。両親はデイクソンに17年間住み、家を5回変わったが、観光スポットとして公開されているのはその最初の家だけである。わずか3年を過ごした、借家のこの家だけが、なぜかレーガンの自叙伝にも出てくるらしい。ロサンゼルス近くにあるロナルド・レーガン・ライブラリーにも、この家の小さなファミリールームが再現されているというから、よほど思い入れがある家なのだろう。
ドアをあけるとすぐ、狭い急な階段が二階に続いている。階段の一番上に立つところがり落ちそうな安普請の二階に小さな部屋が3つ。一つは兄ニ−ルと共有した部屋。浴室をはさんで両親の寝室。そして一番日当たりのいい部屋は、母親が内職の洋裁をするのに使っていた。階下には小さなリビングにファミリールーム、ダイニングに台所。面白かったのは家具だった。大半は1920年代に使われていたものをあちこちから寄せ集められたものだが、中には、実際に昔レーガンも座ったという、レーガンの友人所有だったロッキングチェアーや、レーガンが5年生だったときの先生が寄贈したミシンなども置いてあった。町で個人的にレーガンを知る人から、レーガンゆかりのものを必死でかき集めたといわんばかりで、その意気込みが、小さな町にとってレーガンの存在がいかに大きいかを物語っていた。
この家が観光スポットとなったいきさつは、1980年夏に家が売りに出たのを郵便配達人が見つけ、250ドルの手付け金を払って家を”救った”ことから始まった。郵便配達人はレーガンのファンだったに違いない。31500ドルのローンは、翌1981年ーつまりレーガンが大統領になった年ーに寄付で払い終えた。現在家は、非営利団体のロナルド・レーガン・ホーム保存基金が運営、電気や暖房、土地の管理など年間に維持費が6万5千から8万ドルもかかるが、大金持ちのレーガンファンがいて、資金が足らなくなると、ぱっと小切手を切ってくれるそうだ。おかげで家は入場無料である。今だにレーガンがそんなに人気があるとは私はつゆとも知らなかった。
その証拠に、家にはひっきりなしに観光客が来た。隣接しているビジターセンターでは若い女性が、家ではナンシー・メットというおばさんが、一息つくまもなくオウムのように同じ説明を繰り返しながら、みなを案内した。私が真っ先に彼女に聞いたのは、「ここでガイドになるには、共和党じゃないとだめなの」といううがった質問。彼女の答えは、「とんでもない。人さえ好きだったら誰でもいいんですよ。」「私は前は民主党だったけど、やめて今は共和党です」だった。デイクソンに移ってから変わったの、と私がたたみかけると、ナンシーさんはげらげら笑い、首を振って、それ以前のずっと前、東部にいたころ、と答えた。
そのナンシーさんの自慢は、70歳の誕生日を祝うためにレーガンが1984年にこの家に来た時のことだ。この小さな町に、全州から警察官が集まり、ナンシーさんは厳しいチェックを受けて、現職の大統領のそばに立っていた。大統領とは、ワシントンDCからつれて来た専属シェフが料理したものしか食べられないとか。ダイニングルームのテーブルについた大統領に、地元の人がバースデーケーキを作って差し出したが、レーガンはウイップクリームを食べるまねはしたものの、すぐに背後に立つシークレットサービスにとめられ食べられなかったそうな。大統領とはけっこう不自由なものらしい。が、職を離れた1990年にもう一度来て、2日滞在したときは、同じテーブルで町のケイターリングサービスのランチをおいしそうに食べたそうな。
大統領の屈託のない笑い声を聞いたように思ったのは、ナンシーさんがリビングにある暖炉の前のタイルを一枚動かしてみせた時だ。タイルの下にペニーがあった。子供時代のレーガンが、ペニーを隠しておく場所だったという。大統領が来た時もペニーを前もって入れておいたとか。タイルの下にペニーを見つけたレーガンの、大きなさぞ楽しげな笑い声はこの小さな家に響きわたったことだろう。
デイクソンでの貧しい子供時代のことを、レーガンは、「トムソーヤの冒険のような日々だった」と書いている。
生まれた時にころころと太っていたため、父親から「オランダ人」というニックネームを授かった”ダッチ”は、庭でウサギを飼い、フットボール選手にあこがれた。11歳の7月4日は、禁じられていた花火で遊んだため、パトカーに見つかり、親は警察で罰金を支払わさている。14ドル50セントという当時の大金を親に返すのに、かなりの時間がかかったらしい。人生最初の仕事は、14歳の時の土方仕事で、1日10時間、週に6日、時間給35セントで地面を掘った。稼いだ200ドルは大学の学費にした。水泳がうまく7年間ライフガードをして、77人の人命救助にあたったとか。カントリークラブでキャデイをしたり、YMCAのバンドでドラマーをやったり、「私は引越しが多かったせいか、内気な性格だった。でもデイクソンで、自分自身を発見した」というのは、レーガンの本音だろう。
そして何よりも、「その夜、私の人生は変わっていた」とレーガンに言わせしめた事件が、ここデイクソで起こっている。
子供、とりわけ男の子を育てるには、父親よりも母親との関係や母親の度量がものをいうのでは、と私はつねづね感じてきたが、レーガンも母親ネルの影響を強く受けたらしい。靴のセールスマンをしていた父親はシニカルだったが、母親が非常に前向きで、社会意識の強い人物だったようだ。家の窓から見える郡の刑務所を出所したばかりの人々が行き場を失っているのを知ると、行き先が見つかるまで食べ物や部屋を提供するような母親だった。
その母親が一番好きで上手だったのが演劇だった。1920年代初めのデイクソンで娯楽といえば、詩や劇、スピーチ、本などの朗読だった。レーガンもある時母親に勧められて、いやいやながら屋外ステージの上に立ち、朗読をした。「何を言ったかは全然覚えていないが、観衆からの反応ははっきりと覚えている。人々は大笑いし、手をたたいて喜んでくれた。それは自分にとって全く新しい経験だった。みなに受け入れられたのがとても気持ちよかった。不安な思いを抱えている少年にその喝采は音楽に聞えた。その時はわからなかったが、その夜舞台を下りたとき」レーガンの人生は変わっていた。マスコミをうまく使う大統領への道が、目の前に広がったのである。
「昔映画俳優でもなれた、けったいな」大統領職だが、レーガンはぺオリア近くの小さなユーリカカレッジで、学生自治会会長を経験。
1932年に卒業後は、アイオワでラジオのスポーツキャスターとなってマスコミ界へ。1937年にハリウッドに移り、「ラブ・イズ・オン・ザ・エアー」(1937年)のチョイ役から「オールアメリカン」(1940年)と、25年間にワーナーブラザーズ社の52本の映画に出演した。が、そのあいだに俳優組合活動にも積極的に参加、会長に6回も就任している。戦後の映画界の”赤狩り”にも熱心で、1947年には下院の公聴会で証言もしている。単なる俳優業で収まる人間ではなかったのである。レーガンの政治的キャリアが全米レベルで認められはじめたのが、1964年の共和党支持のテレビ演説。そして1967年にカリフォルニアの知事に就任している。
ライフガードだった若かりし日のレーガンは、目元に涼しさも漂わせたなかなかの甘いマスクである。それから60年が流れ、アルツハイマー病にかかっているとのニュースとともに、レーガンが公の場から姿を消してからもう久しい。数えれば今年91歳である。今はもう、自分がかつて映画俳優やアメリカ大統領といった華やかな世界で活躍したことすら、自らの記憶から消え去っているのだろうか。人生夢のごとし、とはいうけれど、自分の手ですら自分の人生を握りしめられなくなる時、生きるとはどういう意味を持つのだろうか。理解できぬまま、サルトルやハイデガーをただ字ずらだけ追っていた青い時代が、ふと私の脳裏によみがえる。