「イリノイ探訪」
マンマス
1994年にワーナー・ブラザースが製作した、ケビン・コスナ−主演の191分に及ぶ大作映画「ワイアット・アープ」を借りてきて、けっこう夢中になって見ていた。その様子を見ていた高校生の娘が、不思議そうに尋ねた、「その人って、ほんとにいた人なの」
「OK牧場の決闘」と題されたアープの活劇が、ハリウッド映画やテレビシリーズでよく取り上げられてきただけに、伝説として創りあげられた部分は大きい。”徳が高かった”から、女たらしのギャンブラー、盗人、殺人者、詐欺師までかまびすしい。相反するさまざまなイメージゆえに、ほんとに「ワイアット・アープ」って実在してたのと疑問に思っても決して不思議ではない。 実は、かつて映画狂で鳴らした私自身にも今もってそんな思いがある。
イリノイ州西部にあるマンマスが、アープの生まれた町である。1848年3月19日のことだ。映画ではマンマスの時代は出てこない。アープが15か16の少年になって、「ママを頼むぞ」と弟に言い残し、家出しようととうもろこし畑を逃げ隠れしているところを、父親に見つかって家に連れ戻されるところから映画は始まる。どうせ撃ち合いが主なんだろう、とたかをくくっていたのだが、見終わっていやに満足感に包まれたのには我ながら驚いた。勧善懲悪のありふれた西部劇ではなく、アープの人間性や家族関係に焦点を当てた映画だったのである。それでも「男」の映画という意味では、確かに西部劇だった。
弁護士だが農業が好きで、よりよい土地を求めて西へ、カリフォルニアへと移動を続ける父親ニコラスの口ぐせは、「家族の血だけが頼りだ。家族はいつもいっしょだ」というもの。小さい時から聞かされ続けたこの言葉が、アープとその兄弟たちの人生をしっかりと縛っている。法律家の父親は、世の中には悪いやつらがあふれているから、悪と戦うのなら、法律でもってするかそれとも殺すかだ、殺すなら必ず最初に撃ち、必ず殺せ、と息子たちに教えた。勝つしかないという男の単純な二元論にあらためて気づかされて、私は「ふうん」とうなった。ワイアットは、異母兄のニュートン(1837年生まれ)を含めて、男ばかり6人兄弟の4番目である。父親も入れると、男ばっかり7人の家で、母親のビクトリアにしてみれば、さぞ”むさくるしい”家だったろう。が、「男らしさ」をめぐる兄弟間の軋轢や競争が、強い正義感を育てたのかもしれない。
一家はワイアットが二歳(1850年)の時に、アイオワに移る。そこで2人の弟、モーガン(1851年}とウオ−レン(1855年)が生まれている。1861年に南北戦争が起きると、父と3人の兄は北軍に従軍。除隊後の1864年に一家はカリフォルニアへ移動、父親は南カリフォルニアに牧場を買った。3人の兄、ニュートンとケンタッキー生まれのジェームス(1841年生)とバージル(1843年生)は、父親に従わず自分たちの人生を探した。映画を見ていて感心し「男の世界」を実感したのは、このばらばらになった兄弟たちがいつのまにやらワイアットの元に集まり助け合っていることだ。
カリフォルニアに移ったワイアットは、期待されたような弁護士になるかわりに、駅馬車の御者になり、1868年頃には大西部ワイオミングへやってきた。鉄道工事現場で働いたり、賭けボクシングのレフリーと、さまざまな仕事をして食いつないだ。1870年あたりには、イリノイに戻ってきていたらしい。ある資料には、ワイアットは学校に通うために1856年から1859年の3年間と、1868年から69年にかけてマンマスに戻っていた、とあった。このあたりの正確さは誰にも分からないところで、ウイラ・サザーランドと出会い、1870年に結婚したのもマンマスなのか、それともミズーリ州のラマールなのかはっきりしない。ただウイラは結婚数ヶ月後に、子供を宿したまま、伝染病にかかって死んだ。享年21歳だった。
それからのワイアットは荒れたようで、評判はよくなかった。結婚前にウイラを妊娠させたため、サザーランド家はワイアットを認めていなかったとか、金銭問題で2回訴えられたとか、何かのかどで逮捕され44ドルの罰金を払ったと1872年のイリノイ州ぺオリアの新聞ざたにもなっている。
映画では、やけを起こしたアープは酒びたりとなり、アーカンソーで馬泥棒に。死罪で牢屋に入れられていたアープを助けたのが、はるばるカリフォルニアから駆けつけた弁護士の父親だった。「失うことは人生につきものだ。言い訳するな。生き続けるしかないんだ。」と涙を浮かべて、息子を固く抱く。またもや画面から「男」が臭ってきた。
父親から銃と馬を受け取ったアープは、カンサスへ。バッファロー狩をやったり、ギャンブルをやったり、と相変わらずさまざまな商売をするが、人が変わったアープは、以後アルコールは一切絶ち、バーで飲むのはいつもコーヒーという健全ぶりには驚いた。
いよいよ活劇が始まるのが、1874年にカンサス州のウイチタで保安官代理になってからだ。腰抜けシェリフに代わって酒場の暴漢を退治した結果、バッジをもらうだけ。別に公務員試験があるわけでなし、銃さばきという技術とそれに象徴される力だけがものを言う開拓時代の「単純さ」に改めて感動。悪とたたかう兄弟を助けようと、兄のジェームスや弟のモーガンもどこからともなくやってくる。評判が高くなると、同じカンサス州のドッジシテイからも仕事のオファーが来て、いつのまにやら現れたすぐ上の兄のバージルともいっしょに、ドッジシテイに乗りこみ、”悪”と戦う。
かつて映画に夢中になっていた頃、西部劇の”悪”とは法に従わない”ならず者”、かっこいいガンマンは”悪”をやっつける善人、という単眼的な視点でしか活劇を見ていなかった。今回画面で、クリスマスと7月4日以外は町への銃もちこみ禁止、通りでの飲酒禁止、と書かれた立て札をじっくり見て、これはかなり大変だぞ、といやに納得した。もしこの時代に私が生きていたなら、案外”ならず者”の子分にでもなっていて、流れ弾に当たって死んでいたかも知れないなあ、とも。
大体、保安官なんて季節労働者だったのだ。牛を運ぶ季節だけ町がカーボーイであふれ、治安が不安定になる。そんな時、「銃持ちこみ禁止」だの「飲酒禁止」だのと、荒くれのカウボーイにしてみればとほうもなく馬鹿げて思える法を守らせねばならないわけだ。「守らないのなら、お前を撃ち殺す権利が俺にはある」と、アープは”悪者”たちに言うのだが、これを言うにはかなりの勇気がいるのは十分に想像がつく。何よりもまず、自分の銃の腕に自信がなくてはならない。そして身体全体から気迫を発せねばならない。そこには揺るぎない自分への自信と堅固な意思がある。そんな強さが羨ましいからこそ、反発して逆恨みする小物は必ず出てくるわけで、そうなると命を狙われるのが運命のような商売だ。何が起きたかがいつも問題となり、どうして起きたかは誰も問わない理不尽な世界となると、保安官なんて馬鹿たらしいも骨頂の仕事に思える。町の人に感謝されているかというと、撃ち合いに巻き込まれるのはごめんだ、とばかりに、たとえ撃たれて通りに倒れようとも助けてくれる人もいなさそうだし、平和なときは町から出ていってほしがられるという、カッコよさとはほど遠い、かなり暗く孤独な商売である。
いつ自分が撃たれるか分からない緊張と孤独に嫌気がさすと、ガンマンは次の町で新しい生活を探す。ドッジシテイが嫌になったアープ4兄弟は、1879年、それぞれの妻や子供を連れて(アープは売春婦だった内縁の妻マッテイとともに)、銀発見で沸くアリゾナのツームストーンへ移った。1881年、そこでアープの唯一の友達、ドク・ホリデイも交えての有名なOK牧場の決闘となる。一分たらずでならず者たちを皆殺しにしたものの、当然恨まれ、翌年、一番ハンサムで向こう見ずだったモーガンが30歳の若さで闇討ちされ、ジェームズも片腕をなくした。
兄弟を亡くして、商売の虚しさに気づいたのだろうか。その後兄弟はばらばらになっていく。ジェームズとヴァ−ジルはカリフォルニアで、それでもやっぱり警察の仕事についた。アープは恋に落ちた踊り子、ジョゼフィンやドク・ホリデイとコロラドからカリフォルニア、そしてゴールドラッシュに沸くアラスカへ。ホリデイは、コロラドの結核サナトリウムで36歳で死んだが、アープは何やらビジネスをはじめて、後年は経済的には結構恵まれたようだ。ジョゼフィンとの結婚生活も47年も続き、死んだのは1929年1月13日、父親と子供時代を過ごした南カリフォルニア、ロサンゼルスでだった。80歳だった。老年のアープの写真を見たが、普通のおじいさんのそれで、ほんとにOK牧場の決闘を生き抜いたアープなのと、実在したことが相変わらず信じられない。
何十年ぶりかに西部劇を一生懸命に見て、不思議と満足した。別れ(死)の美学というか、たとえ消耗品であっても、最後に自分の価値を決めるのはやはり生きざまだといった、死をかけて筋を通す美しさ、というか、武士道にどこか通じるような日本文化との共通点を感じたのだ。そして何よりも目を見開かされる思いをしたのが、なんとそれまで目にも入らなかったガンベルトの位置だった。
今、読んでいる「身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生」(斎藤 孝著 NHKブックス)によると、今日日本人が失いつつある技の一つに、立つという自然体があって、その中心をなすのは腰ハラの感覚とか。この身体感覚を意識させるのが帯であり、かつて日本男子は下腹部ー臍下丹田ーに帯をすることで、存在の中心感を確認、物事にいたずらに動揺しない安定した身心のあり方を支えていたとか。映画を見ながらびっくりした、なんとこの臍下丹田に締めた帯こそガンベルトじゃないか、と。ふうん、力を誇示しなければならなかった男にとっては、それが銃であろうと刀であろうと、力の源は東も西もおんなじだったんだねと改めて思ったのだ。ちなみに今日の日本の若者は、子供同様、みぞおちに帯をしても違和感を感じなくなっている、と著者は嘆いている(25−27ページ)
しっかりと地に足をつけ、腰につけた“帯”によって腹の力を引き出し、”悪”と戦ったアープに惹かれたとは、メルバさんもロバートさんも言わなかった。「私たちはここで生まれ育った人間だから、アープのファンですよ。ここで新しい人と出会うのが楽しみなんです」とだけ言った。マンマスで30年間数学と英語を教え、教師生活を退職後、ワイアット・アープ・ミュージアムを開いた老夫婦である。実際のところ、生まれた家はこれだとは特定できていないのだが、1994年に州の歴史協会が「家族の歴史によると、生まれた場所はサウスサード通り406番地」としたため、このマッツン夫婦がこの家と強引に決めてーもちろんアープの子孫の了解を得てー、非営利団体を作り、ミュージアムを開いたのである。
2階建ての小さな家は、19世紀に建てられたオリジナルの家だけあって傾いていた。床も階段もがたがたで、かび臭かった。合わせて4つの部屋をアープの時代ごとに分けて、マッツン夫婦が1986年から集め始めたワイアット・アープ関連の資料や写真、古い新聞に雑誌、おもちゃ、映画関係、書籍、切手が所狭しと並べてある。今でも毎年、アリゾナやカンサスなど西部のあちこちへ”買いだし”に行くという。観光シーズンには、庭でOK牧場の撃ち合いシーンも再現するそうな。
マンマスカレッジの前の小高き丘の上に、1833年から1861年まで使われたパイオニア墓地がある。ここに、ワイアット・アープの親戚の墓があると聞いて、広い空き地にぱらぱらと並んだ古い墓石の間を歩き回った。170年ものあいだ雨風にさらされてきたため、墓石に刻んだ字が消えかけ、倒れているのやくずれてぼろぼろになった墓が多く、なかなか見つからない。若くして死んだ子供の墓が多いのにびっくりした。ようやく、丘の斜面で地面に埋まりかけたような小さな墓石を見つけて、思わず「あった」と声が出た。WC&Pアープの息子、1853年8月7日、生後2週間とあった。
マンマスにあるもう一つの墓地には、フランシス・アープ(6・1821−4・1901}やメアリ・アープ(10・1819−4・1891)の名が入った新しい墓がある。メルバさんによると、ワイアット・アープのおばさんたちとのこと。マンマスの一番の有名人、「アープ」の名に恥じないように、と言わんばかりに立派な墓である。
時代は、ワイアットの父親が言うところの、悪と戦うには法律でもってする時代となった。が、やっぱりいつの時代も人の世は、自分の生き様をかけて仕事をまっとうしようとする人間を必要としているようなそんな気がしてならない。1982年6月、サンフランシスコのファインスタイン市長は「ピストル所持禁止法」に署名した。全米ライフル協会などから同法の違法性を論議する動きもあったが、最終評決で6対4の小差で成立、サンフランシスコは、アメリカの大都市で最初の「禁ピストル市」になった(2002年6月28日付北米毎日紙)
それから20年、サンフランシスコが今もって「禁ピストル市」とは聞いたことがない。どうやら現代のワイアット・アープは現れず、また必要ともされなかったようだ。