「イリノイ探訪」
ガリーナ
ロックフォードから20号線をひたすら西に向けて走ること2時間、アイオワ州との州境となるミシシッピ川から6マイルほど東の町ガリーナが、イリノイ北西部の屈指の観光地とは、イリノイに来た当初から聞いていた。
今日の町の人口は約4000人。ミシシッピ川の傍流であるガリーナ川の両岸に広がる赤煉瓦造りの町並みは、”ラブリー”といった言葉が思わず口をついて出てきそうでさすがである。細いメインストリートの両側には観光客を意識したこぎれいな、しゃれた店が軒をつらねている。が、旅を重ねてきた中年女は、その少女チックな”愛らしい”雰囲気に感激するというよりは、そういえばサウスダコタのデッドウッドもこんな感じだったかなあ、ロードアイランドのニューポートにどこか似てるところもあるなあと、海辺、山の中、川べりと地理的条件は全く違うにもかかわらず、観光を売り物にする過去の町々の記憶をまさぐるばかりで、感受性の鈍化もはなはだしい。
それでも、町を離れて84号線を北へ10分、背丈までのびたとうもろこし畑の間を縫い、夏の緑が高くなったり低くなったりしてウイスコンシンまで続いているような丘陵地帯の真中で、ヘルメットをかぶり、ひんやりとした地中に入っていったときは、「ガリーナ」の骨頂に触れたような気がして感激した。ガリーナとは硫化鉛という意味だそうな。1828年に発行された町の最初の新聞は”The Miner's Journal"、つまりガリーナは鉛の採掘で始まった町なのである。1840年代の最盛期には世界一の鉛の生産量を誇っていた。ヘルメットをかぶって私が訪れたのは、かつてこのあたりにあった1000にも上る鉛鉱山の中の最小のもので、現在鉛の採掘現場ツアーをしている州唯一の鉱坑、ヴィネガーヒルである。
ヴィネガーヒルとはアイルランドの地名である。ここに土地を買い、故郷にちなんでヴィネガーヒルと名づけたのはジョン・ファーロングだった。ファーロングは、1798年に故郷アイルランドのヴィネガーヒルで起きた英国軍との戦いで英国軍につかまり、他の多くのアイルランド人兵士たちといっしょにカナダに送られてきた。そこでフランス人と知合ったファーロングは、ジュリアン・デビュ−クや鉛採掘の話を聞き、英国軍から離れて、ミシシッピの東岸までやってきた。そして1824年に3人の友達とここで鉛の鉱脈を見つけたのだった。息子のジョンが1882年まで、ひ孫のトーマスは1934年に閉山するまでここで働いていたという。そして1967年からこの鉱坑でツアーをはじめたのがやしゃごのアールだった。
最初は、畑の真中にポツンとあるだけの、単なる小さな掘建て小屋にしか見えなかった。その胡散臭さに私は、ほんとにここなの、と思わず顔をしかめた。
小屋の内部は薄暗く、採掘に使った機械などが置かれた資料室になっていた。鉛と言われても、何に使われるのだろう、と頭を傾げ、弾丸ぐらいしか思い浮かばない貧しさだから、「ここでとれたものです」と棚に並んだ鉱石を見せられても、「これがほんとに鉛なの」とおぼつかないことはなはだしい。小屋の真中の地面に穴が掘ってあって、井戸式の巻き上げ機とバケツがおいてある。地下で採掘した鉛をこのバケツに入れて、地上に運んだのである。「今からこの50フィート下の地底へ降りていきます」と言われて、穴をのぞきこみ、足がすくんだ。
小屋を出て、再び畑のあいだを歩く。馬が草をはむ平和な農場の黒い沃土の下で、人間がつるはしをふるっていたなんて全く想像できない。ヘルメットを受け取って、生い茂る野草に隠れるようにして作られた坑道に入った。ダイナマイトは使わず、手で掘っていたから、坑道内部はオリジナルの形で残っているという。坑道の入り口には、澄んだ水をたたえた小さなせせらぎが流れていた。
腰をかがめて坑道に入った途端、ひんやりとした空気に囲まれた。天井に頭をぶつけないよう、そろそろと歩く。「昔の人は小さかったんだな」と改めて思い、天井からしたたり落ちてきた、足元の水に足をとられないよう気を使いながら歩いた。岩壁のところどころは緑色だった。昔インデイアンが絵を描くのに使ったとか。ところどころで、案内係の青年が岩肌を差しながら鉱脈の話をしてくれるが、私には「馬の耳に念仏」で、それよりもここで毎日12時間から14時間を過ごした人間たちの気持ちを想像していた。
人一人がなんとか顔をあげて通るのがやっと、という低く、狭い地底の空間で、人々は何を思いながら、毎日長時間にわたって岩に向かっててつるはしをふるっていたのだろうか。だいたいつるはしを思いっきり振りあげることが可能だったということすら信じられない。重労働のあとの楽しみはおいしい晩ごはんか。それとも仲間と騒ぎながら飲む酒か。それとも一攫千金をあてて大金持ちになる夢だったのだろうか。案内係の青年が、ろうそくをともしてから頭上の電灯を消した。それからふっとそのろうそくの火も吹き消した。突然重い闇が回りにたちこめ、人の気配どころか、自分が息をしていることすら感じられなくなった。自分の身にまとわりつく闇に絞りとられ、押しつぶされていくようで、窒息する思いである。地底に閉じ込められるとはこういう感じなんだ。ここでろうそくを使って働いていた人々は、何度この息苦しさを味わったことだろうか。
人々が必死の思いで作った狭く細長い坑道のつきあたりでは、戸外で見た小さなせせらぎが豊かな水を湛える川に変身していた。坑道の下を流れてきているらしい。地下50フィートにできた天然洞穴は緑青色の水で静かに満たされ、川は蛇行してもう一つの黒々とした洞穴に向かっていた。水に触れることはできなかったが、地底の川は、昔読んだジュール・ベルヌの冒険小説の世界に誘う不思議な開放感にあふれていた。
ツアーが終わって、まぶしい戸外に戻った。掘建て小屋の前の立て札の言葉がいやに現実感を帯びて響く。かつてここで働いた鉱夫の日記の一節なのだろうか。「静寂が訪れた。もう何も聞えない。私のプレーリーの日々はとうとう終わった。ドアの回りに草がおいしげっている」
苛酷な労働環境であればあるほど、そこで働いた人々が一度は描いた夢の大きさを思い知らされる気がする。
この地で最初に鉛を発見したのは、もちろんインデイアンたちである。 そこへやってきたのがフランス人探検家たちだった。フランス人たちが作った地図には多くの鉱山が記され、アッパー・ルイジアナ領土のスパニッシュ鉱山と呼ばれていた。“やま”はウイスコンシン州南西部、アイオワ州北東部、そしてイリノイ州北西部に集中していた。最初に採掘が始まったのはウイスコンシンだったという。
鉛の採掘が本格化したのは、1778年にケベック人、つまりフランス系カナダ人の毛皮商人だったジュリアン・デビュークがやってきてからである。今日のアイオワ州デビュークは、彼にちなんで名づけられた。デビュークがその近くにトレーデイングポストを作ったからである。そして鉛の価値に気づいたデビュークは、ミシシッピ川を利用して鉛を運搬、セントルイスに市場を開拓した。
まもなくガリーナの鉛は、毛皮に次ぐ重要な産物となって、世界中に輸出された。銃や大砲の弾となる鉛は軍事行動や戦争に大きな影響を与え、ナポレオン戦争(1805−15)やブラックホーク戦争(1832)、米西戦争(1846−48)、そして南北戦争(1861−65)に大きな役割を果たしたという。ヨーロッパを席巻したナポレオンは、ガリーナの鉛を使っていたかもしれないというから、思わず当時の世界の「小ささ」にびっくりした。
鉛鉱山の噂が広がると、一攫千金を狙う人々がこの地に押し寄せはじめた。イリノイ各地はもちろんのこと、ミズーリやケンタッキー、テネシーなど他州からもやってきた。南部からきた人々は奴隷もいっしょに連れてきたため、彼らがこの地のアフリカ系アメリカ人の”祖先”となった。lこの地に定住したヨーロッパ人も多かった。当時一番多かったのはもちろんフランス人と、ファーロングのようなアイルランド人だった。
1827年になると、イギリスのコーンウオールからも鉱夫たちがやってくるようになった。コーンウオールは鉛鉱山で知られた町だが、そこで仕事を失った鉱夫たちがガリーナにあつまり始めたのである。”プロ”まで呼びこんだガリーナの人口は、1825年の200人からわずか3年後の1828年には10000人に急成長した。当時シカゴの人口はまだ数百人だった時代である。鉛の生産量も43万9472ポンドから1295万7100ポンドと30倍に増加、それを運び出す船の数も、1828年には99隻、1835年には153隻、1842年には350隻を超えた。川沿いの小さな町ガリーナは鉛発見に沸くフロンテイアから、活気あふれる商業の町に発展、のちにドイツ人やウエールズ人、スカンジナビア人たちもやってきて、19世紀のイリノイでもっとも多民族文化社会を誇る町となっていた。
最盛期の1845年の人口は14000人まで膨れ上がり、ガリーナの鉛産業は、アメリカの全産出量の83パーセントを占めるまでになっていた。1821年から1858年までのあいだにガリーナから運び出された鉛の総量は8億2062万2839ポンドに上り、ピークの1845年だけでも5449万4850ポンドを数えた。その価値は当時のお金で4000万ドルを下らなかったという。
が、盛者必衰が世のならいなら、ガリーナの鉛も決して例外ではない。まもなく勢いを失い、1849年から1850年頃にはすでに衰退の道をたどっていた。その理由として、地表鉱脈の鉛が枯渇し、深層を開発するだけの資本がなかったこと、鉱夫たちがゴールドラッシュに沸くカリフォルニアに向かったこと、1846年以降、土地のシステムが変わって、土地の売却ができるようになり、農業が盛んになっていったこと、またガリーナに、ミシシッピを渡りデビュークとつながる鉄道が敷かれたことで、ミシシッピの河川交通そのものが衰退していったことなどがあげられている。
そして現代はー。ガリーナにある郡博物館では、1830年代のオリジナルの30フィートのたて坑が再現され、ガリーナとジョー・デイビス郡の発展の礎となった鉛産業の歴史を紹介していた。展示を見て初めて、鉛は銃弾はもちろんのこと、私たちの日常生活でも、パイプにはんだ、ペンキ、陶器などに使う上塗り薬、クリスタルガラス、電池、ガソリン、エックス線防御物、おもちゃなど数多くに使われているのを知った。そして展示の横には、「鉛の被害から私たちを守るために」というパンフレットが無造作に何種類も置いてあり、「やっぱりアメリカだな」と思わず微笑んでしまった。
パンフレットによると、埃や水、土、ペンキなどに含まれている鉛が体内に入り蓄積すると、健康を害するので、部屋をよく掃除し、埃を吸いこまないようにすること、とりわけ壁や窓のペンキがはがれているところには幼児のベッドをおかないこと、家の改築にはプロの指示を仰ぐこと、などさまざまな細かい対策が記されていた。胎児や幼児はもちろんのこと、大人でも長期間鉛にさらされると、生殖機能に障害が起きたり、高血圧や食欲不振、神経障害に記憶力や集中力の低下など、さまざま症状を引き起こすという。それを読んで、ふと思った、毎日食べて寝る以外は、ずっと地中の坑道で過ごし、かつてこの地の繁栄を支えた人々は大丈夫だったのだろうか、と。ガリーナの表向きの歴史が決して語ろうとはしない、繁栄の陰のもう一つの”顔”ということになろう。