「イリノイ探訪」
ロックアイランド
目の前ですっきりと横に伸びたカリブ海の水平線に時折視線をなげかけながら、私は、英国人ジョナサン・レイバンの「オールド・グローリー」という本を読んでいた。レイバンが一人小さなボートでミシシッピ川を、上流のミネソタ州ミネアポリスから下流のルイジアナ州ニューオーリンズまで川下りする話である。海を見ながら川の本を読むというのも、なかなかおつなものだった。このカリブの海も、頭を北にめぐらせば、メキシコのユカタン半島とキューバにはさまれた海域を経てメキシコ湾につながり、ミシシッピはメキシコ湾に注いでいるのだから、まあカリブで読むミシシッピの話もそれほど酔狂ではあるまい、と自分を納得させていた。
本を読みながら、少年にとってトム・ソーヤやハックルベリー・フィンは、少女にとっての「赤毛のアン」や「若草物語」と同じような意味をもっているらしいと知った。レイバンがミシシッピに惹かれたのも、トム・ソーヤやハックルベリーの冒険を通してとのこと。ミシシッピを「輝く川」と呼んだマーク・トーウエンがミネアポリスにやって来たのは1880年のことである。
私自身は、ニューオーリンズでミシシッピの"川上り"をした。覚えているのは、眼前の空間を灰褐色の幅広の大きな水の帯が独占し、ゆたゆたとその長い身をくねらせ、うねらせている何の変哲もない河という印象だけである。何でこんな退屈な大水のことで、ミシシッピ、ミシシッピと大騒ぎするんだろう、と思ったものだ。トム・ソーヤやハックルベリー・フィンは、明らかに私の世界ではなかった。
アメリカ人にとって、ミシシッピが何やら特別な意味をもっているらしいのは、1998年に、100年前の「1898年トランス・ミシシッピ切手」が再発行されたことでも分かる。1898年6月から11月までの4ケ月間、ネブラスカ州オマハで、エキスポとインデイアンコングレスが開かれた。そして、ミシシッピの西から太平洋岸までの24の州やテリトリーのビジネス関係者が集まって、ミシシッピ以西の大西部を"宣伝"したのである。期間中、260万人もの(ほんまかいな、と私はうそぶいた)人が4062の展示を見にきたとか。インデイアンコングレスでは、28の部族が集まり、部族同士や観光客との文化交流が行われたという。
再発行されたのは1セントから2ドルまでの切手9種類で、そこに描かれているのは、インデイアンといっしょにミシシッピを探検しているフランス人のマルケットや汽船がその下を通過する橋、バッファローを追いかけているインデイアン、ロッキーマウンテンを探検したフリーモント将軍、列車を守る軍隊、幌馬車にのって困難な生活に乗り出す開拓民たち、ろばを連れている山師たち、大雪の中の牛馬、それに広大な農地での収穫の様子といった当時の大西部そのものである。全長2552マイル、流域は31州にわたるミシシッピ川は当時、文明地と未開地との分かれ目みたいなものだったのだろう。
アルプスやライン川上流や英国の湖水地帯に比べてもはるかに"遅れて"いた1800年代のミシシッピ川流域は、スー族をはじめとするインデイアン国が支配していた。イリノイ、とりわけ北西部イリノイにとって、ミシシッピといえばブラックホークと切っても切り離せない。故郷で死ぬと決意したブラックホークたちが覚悟してミシシッピを渡ったことが、アメリカ人には宣戦布告と映り、ブラックホーク戦争の発端となったからである。
イリノイ西部、ミシシッピ川とロックリバーの合流点にあるクアッドシテイ、ロックアイランドとモリ−ンの2つの町は、川を隔ててアイオワ州のデブンポートとベッテンドルフの2つの町と向き合う。ギャンブラーから犯罪人,
一攫千金を狙う商売人までいろんな人間が川を使ってやってくる。港町にも似た煩雑さと寂れた感が入り混じったロックアイランドの通りや店の看板には、ブラックホークの絵があふれかえっていた。レイバンは、アイオワのデブンポートに宿をとり、川向こうのイリノイのクアッドシテイを嫌って、ぶつぶつと書いている。どちらの町もアイデンテイテイを失い、すべてが低く広がった風変わりなかたまりになっていて、海岸で子供たちがつくる砂の城みたいに、生意気にもミシシッピに侵食している感じだと言う(上掲書174ページ)。が、一言もブラックホークの歴史については触れていない。私はその"生意気"なロックアイランドで感激していた。ブラックホークの実物の顔に対面できたからである。
ミシシッピ川にそそぎこむロックリバーを臨む208エーカーの高台一帯に、新緑が広がっていた。紀元前100年から250年あたりまで、インデイアンの埋葬マウンドがあったと考えられている所だが、いまはもちろんない。1730年ごろから、のちにブラックホークが率いたサーク族とフォックス族がこの地を故郷とし、サーク国の首都?サークヌック村がこのあたりにあった。5000人の人口を抱えていたと見られ、北米でも最大級の村の一つだったとか。川に沿って土地を耕し、毛皮取引をしていたサーク族とフォックス族は、最盛期にはイリノイ、ウイスコンシン、ミズーリ、それにアイオワの大半を支配下においていた。
ブラックホークはこのサークヌック村で1767年に生まれた。現在、この自然公園がブラックホーク・州歴史記念地と名づけられた所以である。中にインデイアン博物館があって、そこで私は、1830年頃石膏で型をとったブラックホークの顔に出会った。想像していた以上に優しげな顔で、心がほっとなごんだ。ブラックホークが使っていた金属製のトマホークや二つのパイプもいっしょに飾られ、名リーダーとされるブラックホークがやっと私の頭の中で実在の人物として結実した。
が、歴史の皮肉や面白さを感じたのは、博物館の前の地面に埋められた小さな記念碑を見たときだった。サ−クネック村は1780年に、アメリカ軍のジョン・モンゴメリー大佐によって焼き払われた。当時は独立戦争の真っ只中で、サ−クネック村は独立戦争の最西部の戦線となっていた。ところがサーク族の中に英国側に組したのがいたのである。記念碑は、1779年に英国軍に抵抗した、つまりアメリカ側についたサ−ク族のチーフ、ザ・ブロークン・ハンドを称えるものだった。
ところが、それからちょうど4半世紀たった1804年、サーク族の一部がアメリカと結んだ条約は理不尽だとブラックホークはアメリカと対立し、1812年の米英戦争でブラックホークは英国側についた。インデイアンたちはサークヌックでふんばり、ミシシッピ川での二つの戦い、キャンベル島の戦いとクレジット島の戦いでアメリカ軍を打ち破り、アメリカの西進を阻止した。時代は転変し、まるでその"裏切り"を称えるかのように、今この場所は反米派ブラックホークの名がつけられているわけで、ザ・ブロークン・ハンドさんも居心地が悪いというか、苦笑ものだろう。
川は戦場となり、重要な軍事拠点である。それを体感したのが、かつてサーク族とフォックス族が精霊によって守られていると考えたアーセナルアイランドに行ったときだった。アッパーミシシッピ最大の島である。
橋を渡って島に入ったところに迷彩色のトラックと戦車が置かれている。ゲートの回りには土嚢がつまれ、ものものしい雰囲気の中、迷彩服を着た軍人が立っている。川の管理は1917年の議会で戦争省の手にゆだねられることになり、島は陸軍の管轄地である。MPなのか、威嚇する雰囲気で、入ろうとする車を全部チェックしている。あわてて、車にとりつけていたレーダー探知機をとりはずし隠して、自分たちの順番が来るのを待った。係官はIDをチェックし、無線でこちらの名前と車の種類を中の人間に告げている。軍には独特の雰囲気がある。
無事にゲートを通過して向かったのは、レイバンが「川というより国際空港を管理するモンスターだ」とぶつぶ書いた陸軍のプロジェクト、第15水門とダムである。ミネアポリスとセントルイスの間に29の水門があって、「国際空港」並みの管制が敷かれ、河川交通を可能にしている。
河川交通は、南北戦争と鉄道の発達でいったんはだめになったが、それでも1890年には3000万トンの貨物がミシシッピ川を下っていた。が、1970年のオイルショックによって再び息を吹き返し、1979年には100年前以上の4000万トンの貨物が川で運び出された。1ガロンの燃料で、鉄道はわずか200トンしか運べないが、船はその倍の400トンもの穀物を運ぶことができる。今日、中西部産の穀物がロシアに向けてニューオーリンズから運びだされているという。
島には、毛皮商人たちを守る目的で1816年から17年にかけてフォート・アームストロングが造られた。第一次ブラックホーク戦争は、1831年6月30日に、このフォート・アームストロングで、アメリカ軍のゲイン将軍とジョン・レイノルズ・イリノイ州知事とブラックホークの間で平和条約が結ばれ、終わった。翌年の1832年8月、ブラックホークが捕らえられて戦争が完全に終結したあとは、この砦のおかげで、あたりは商業の町として発展していった。1835年当時はステイブンソンと呼ばれていた町がロックアイランドと改名されたのは1841年のことである。1836年まで島には陸軍が駐屯し、1836年から1838年まではインデイアン連絡事務所がおかれ、1840年から45年までは陸軍の兵站部があった。常に島が軍と戦争と隣合わせなのが、川の重要性を物語っている。ベトナム戦争時代には、島の両端に壕が作られ、武装した兵隊が24時間態勢で見張っていたというから、政治の世界は、素人には、「風が吹けばおけやが儲かる」式の複雑さだ。
ロックアイランドの経済は、1856年に、ミシシッピを渡る最初の鉄橋が作られてからおおいに発展した。ジェシー・ジェームスが人生最初に襲った列車もこの鉄橋の列車とか(ほんまかいな、と私は再びうそぶいた)。さすがイリノイと笑ってしまったのは、この鉄橋にもアブラハム・リンカーンにまつわる話があると知った時である。
鉄橋が完成した翌月の5月、川を上っていた蒸気船エフィ・アフトン号が橋脚の一つにぶつかり、船は火災をおこし損傷してしまった。また橋の一部も破壊されてしまい、鉄道も止まった。蒸気船会社は鉄道会社を訴え、事故は鉄道会社の故意によるものだと主張した。その時、鉄道会社に雇われたのが弁護士をしていたアブラハム・リンカーンだった。裁判では、船会社の主張が認められー要するにリンカーンは負けたーたが、鉄道も残ることになった。1872年には、アーセナルアイランドの近くに2つ目の橋が建設された。これは下からのぼってくる煙と騒音が馬を怖がらせないようにと、馬車の通る道を下段に、上段に鉄道線路を敷いたものだった。20年後の1896年には、機関車の重量に耐えられるよう橋は取り換えられた。
橋を遠方に控えた、銀波がゆらめくミシシッピの静かな川面を私はじっと眺めていた。何も聞えてこない。と、突然、頭上で「管制塔」が騒がしくなって、マイクの声が行き交いはじめた。やがて、茶色ににごった水の下流から真っ白なキャビンクルーザーが入ってきた。すると、目の前で水があっというまにどんどん上昇し、船体が水とともに押し上げられていった。若い女の子が一人に男が3人、デッキで談笑しているのが見えた。のんびりと水との時間を楽しんでいるに違いない。
5分もたたずしてクルーザーが目の前を通り過ぎると、今度は水面がまたたくまに下がり、クルーザーは何もなかったかのように再び川にすべりこんでいった。若い女の子の銀波に劣らぬ輝く笑顔を見て、私も若かりし頃の船の旅を思い出した。下関から韓国のプサンに向かうフェリーの甲板から見た、真っ暗な夜の海にぼんやりと点点と浮かぶいか釣り漁船の灯り、横浜から香港に向かったロシア船で昼の12時から入り浸っていたバー、大阪発中国上海行きの客船からのぞきこんだ揚子江に浮かぶごみ、ニューイングランドの夏の夜、吹き荒れる雨風の中で必死で舵を握っていたヨットでの嵐の時間ーレイバンも感じただろうか。
四六時中身体が水に囲まれ、揺られる浮遊感からたちのぼってくる、水から生まれたいのちへの、子宮で過ごした時間への郷愁を。若かったからこそ感じられたのだと思う。あれから25年、もう今の私には船旅をする勇気も元気もない。