「イリノイ探訪」
カーセージ
人口2700人弱の小さな田舎町である。町の中心に、1858年にリンカーンが来て演説をしたという記念碑が残されている裁判所があり、その回りを店舗がぐるりと囲んでいる。ただそれだけの町である。何がこの町を有名にしているのか。古い牢屋である。末日聖徒イエス・キリスト教会(以下モルモン教と呼ぶ)を創めたジョセフ・スミスが1844年に殺された牢屋である。
索漠とした田舎町で、その牢屋だった建物のある一角だけが、いやに美しく観光名所らしく整備され、日本並みに人々が長い列を作り、ビジターセンターへの入館を待っていた。駐車場にはアイダホやミネソタ、ユタ、オクラホマ、オレゴン、オハイオ、ミズーリ、カンサス、ニュージャージー、インデイアナ、コロラド、ウイスコンシン、ネブラスカ、サウスダコタと全米各地、そしてカナダからの車さえ並び、ここがモルモン教徒のメッカのようになっていることは一目瞭然だった。
入館まで2時間近くを待ちながら、ふと私は、すべての信徒に収入の10パーセントを捧げるよう指導するモルモン教会が、世界でもっとも裕福な教団の一つであることを思いだしていた。「ふううん、どうやらここは教会の敷地だな。だからお金をかけてこんなに立派なんだ。たとえ地元がどんなにモルモン教が嫌いでも、町にもたらす経済効果を考えれば、長い目でじっと我慢していれば"もうけ"がころがりこむんだ。ジョセフ・スミスが来てなかったら、とりたてて何もない町なんだから。観光振興という経済開発に宗教団体の影響力は相当なもんだ」などと、不遜なことを考えていた。そういえば、オウム真理教で一躍名が知られるようになった山梨のある村は、いっとき村の名をつけた饅頭を売り出したんじゃなかったっけ。
なぜ、ジョセフ・スミスは牢屋に入れられたのか。カーセージから車で1時間ほど西にあるナウブーの町にあった教会内で大きな亀裂が生じ、対立者がスミスを訴えたからである。
1827年にエマ・ヘイルと結婚したスミスだが、1831年ごろからCelestial(天界の、こうごうしい)と呼ぶ天的結婚ー異教徒の現代感覚では不倫の結果の重婚ーを説き始め、1838年に17歳の少女と"結婚"したのを手始めに、1843年までに10代から50代まで、名前が歴史的文書で確認できるだけでも49人の妻を持っていたとか。多妻婚は一般の会員には知らされず、教会の正式な教義として採用されたのは1843年7月からだが、結婚を申し込まれた女たちの夫や兄弟、父親たちはスミスと対立、自分たちで印刷機を手に入れ、新聞「ナウブー・エクスポジター」を発行して、多妻婚やスミスを批判した。
彼らは紙上で、スミスは暴君である、ナウブー(市長がスミス)の行政は政教分離というアメリカの方針に違反している、多妻婚は"売春"であり、おぞましいものだ、ナウブー憲章を無効にし、市をアメリカの民主主義によって治めるべきだ、と主張した。新聞は1844年6月7日にたった一度だけ発行された。金曜日に新聞が出ると、翌土曜の朝と月曜日に市議会が開かれ、新聞は町の平和と安全を脅かす不快な妨害だとの認識で一致した。市議会は、市長ーつまりスミスーに妨害物を除去する権限を与え、スミスは自警軍に印刷所の破壊を命じた。200人もの人間がマスケット銃やピストル、ナイフ、ハンマー、剣などで武装して印刷所に押し入り、機械を壊し、道路に投げ捨て、残っていた新聞を燃やした。
新聞の発行人たちはカーセージに行き、この破壊行動が市議会の権限を逸脱したもので、市会議員たちは表現の自由にかかわる憲法違反を犯したと訴えて、議員18人の逮捕状を要求した。6月25日に18人のうち15人がカーセージに現れ、一人500ドルで次の巡回裁判まで保釈され、ナウブーに帰った。
が、ジョセフ・スミスと兄のハイラム・スミスはカーセージに残っていた。というのも、6月12日にすでにナウブーに暴動とリンチのきざしが見えているとの"反逆罪"で逮捕状が出され、州知事が法の適正な適用を約束して、州の民兵がナウブーに入り、ジョセフとハイラムをつかまえたからである。二人とお供のウイラ−ド・リチャードとジョン・テイラーの4人は、24日の夜にカーサージに到着、翌25日には建物の2階にある牢屋に入った。カーセージの民兵が建物の外を守っていた。
牢屋生活2日目に入った6月27日の午後5時ごろ、カーセージ周辺から集まって来た150人から250人とも言われる暴徒たちが発砲をはじめた。知事が解散させていた他の町の民兵たちも、顔を黒く塗ってカーセージに入ってきた。地元の人たちは、ナウブーのモルモン自警軍が責めてくるのを恐れ、暗くなるまでに町から逃げ出していたという。
暴徒がやってきても、守りについていた民兵たちは何もしなかったとか。暴徒は2階への狭い階段をかけ上がりながら、発砲した。牢を出ていたスミスたちも銃をもって撃ち返し、何人かに傷を負わせたものの、弾がなくなり、窓から逃げようと窓にかけよったところを、後ろから撃たれた。と同時に、外にいた兵からも下から撃たれた。スミスは「おお、神よ」と叫びながら、地面に落ちた。落ちたとき、スミスはかすかに首を動かしたが、そのまま息たえた。ジョセフ・スミス、38歳だった。兄のハイラムは最初に部屋で撃ち殺されていた。
と、以前全世界6万人の一人として宣教師をしていたツアーガイドのおばさんが熱心に語り、人々も一言も聞き漏らすまいと言わんばかりに耳を傾けていた。スミスが撃たれた小さな部屋には血痕が残っていたが、1980年代に「あまりにも胸が苦しくなるから」との理由でとってしまったとか。家族と住みこみで牢番をしていたジョージ・ステイグルという人はモルモン教に理解があって、スミスを牢から出していたが、6月27日当日はここにいなかったらしい。スミスを殺した暴徒たちは酔っ払っていたとガイドさんは言い、だからお酒を飲んじゃだめですよ、と話に聞き入る男の子に声をかけた。暴徒のリーダーは教会の元トップだったそうで、組織というものの難しさと、スミスという人の人柄を改めて思った。
ある資料によると、ジョセフ・スミスという人は、自分の一番近い人間とけんかし、一番手ごわい敵に回す傾向があったらしい。若い時、自分には宝を発見する能力があると言って、金を出させ、土を掘らせて宝探しをさせた人間たちはスミスの一生の敵となったし、「モルモン書」を発見、翻訳したあと、教会づくりに協力してくれた友達や仲間たちともすぐにけんか別れをした。教会を去った人々は教会の外で悪いうわさを流した。1844年の最後の「けんか」について、ガイドさんは「ナウブー・エクスポジター」のことは何も言わなかった。
それにしてもスミスは、若い時から牢屋とは縁が深かったようだ。思春期に、村に現れた「魔法を使う神懸りの男」に魅せられ、インデイアンが昔埋めた宝を発見できる力を得た、と人々から金を集め、宝探しをしたスミスは、1826年春、だまされた人たちに訴えられている。スミスのことを傲慢で、詐欺師、怠けものだと証言したのが、よりにもよって妻エマの父親だった。父親は宝捜しに参加、スミスに"投資"したからである。スミスは有罪となった。
モルモン書の翻訳が1830年3月に初めて出版・販売されると、一週間後、ニューヨーク州ロチェスターの新聞は「不敬なもの」と称した。ニューヨーク州との州境にあったペンシルバニアのエマの父親の土地では、かく乱罪で、再び裁判にかけられたとか。エマは、以後2度と父親の顔を見ることはなかった。スミスは東部を離れ、オハイオのカートランドを拠点にして教会員を増やしたが、いつも暴徒に追われる身でもあった。信徒が移ったミズーリ州でも私刑が続いたため、スミスはオハイオから武装したモルモンの一団を送りこんだ。ミズーリではモルモンの10倍の数の州の民兵を集めており、数の上で負けると知ったスミスはすぐに降伏したものの、ミズーリ州政府に、軍隊をもちこみ、ミズーリの人間を殺すことを計画したと訴えられた。
ミズーリを追われた15000人のモルモン教徒は、1839年にミシシッピ川を渡ってイリノイにやってきた。スミスはウイスキーと800ドルの賄賂をシェリフに渡してミズーリを脱出、イリノイで信者と合流した。33歳だった。死んだのはそれからわずか5年後のことである。スミスの遺体がナウブーの家に戻ってくると、エマは走りよってきて、「ああ、ジョセフ、ジョセフ、とうとう彼らはあなたを殺したのね」と叫んだとか。心の中では、ああ、やっと死んでくれたのね、とほっとした気持ちもかすかでもかすめはしなかっただろうか。
1830年にニューヨークでスミスが教会をはじめても、6ケ月ものあいだ、かたくなにモルモンに改宗することを拒否したエマさんである。かっこのつかなかったスミスは、かなりのプレッシャーをかけて、その年の秋に彼女を改宗させたらしい。(lds-mormon.comより) 翌1831年にはすでに、お手伝いの17歳の女の子に対する、現代の異教徒の言葉で言うところのセクハラが発覚しており、「多妻婚」への第一歩だったらしいが、エマさんは「不倫」を知ってもなるべく無視するようにしていた。
が、一度自分のいい友達だと思っていた女がスミスと抱き合っているのを見つけたときは、感情を制しきれずにほうきで女ーなぜ男ではなかったのかーをなぐったとか。天的結婚は既婚の女とも可能で、従来の結婚より高い価値があり、永久に続くと説かれた。が、男は複数の妻を持てても、女は複数の夫をもてなかった。女が天国に行けるかどうかその可能性は、女自身の価値よりも夫の価値次第だとスミスは説いたらしい。エマさんが怒っていたのはよく知られるところである。
スミスが死んだ時、エマさんは4人の子持ちでしかも妊娠していた。が、3年後の1847年に再婚した相手は、モルモン教徒ではないルイス・ビダモンだった。なるほど、と私は納得した。一方、スミスといっしょに殺された兄のハイラムの妻メアリは夫の多妻を認めており、自らも他の男の妻になっていた。だから、ハイラムが殺されたといっても、それほど落ちこみはしなかったそうな(「モルモン・エニグマ」イリノイ大学出版局 199ページ)
ふううん、なるほど。妙に合点がいって、私は再び納得した。とにかく生き続けるのが大事なのである。私は心底納得した。