「イリノイ探訪」

カスカスキア

 

 

 アメリカの歴史をところどころかじっていると、イギリス人じゃなくて、フランス人がこの国をめぐる戦争に勝っていたら、この国はどう変わっていただろう、なんて思うことがある。アングロサクソンとラテンとの違いとも言うべきものだろうか。イギリスが勝ったばかりに、アングロサクソン風土がアメリカ社会の主流となったのではないのだろうか。アメリカがラテン的な国になっていたら。。。。

 

 とはいうものの、そのイギリスからアメリカが独立したとされる7月4日の独立記念日を、どの町でも人々は花火をうちあげて祝う。イリノイでは、フランスまでがアメリカの勝利を祝ったと知り、どうしてもフランスを膚で感じたいと車をイリノイ南部に走らせた。かつてイリノイカントリーは、北はカナダのセントローレンス河流域、南はニューオーリンズ周辺をのぞくと、フランス人が一番多い地域だった。フランスは、1670年代からフレンチ・インデイアン戦争でイギリスに敗れる1763年までの100年近くものあいだ、イリノイを支配していた。が、その歴史が語られることはあまりない。

 

1778年の独立記念日に、イギリスからの解放を祝って鳴らされたのは、現在のカスカスキア島にある「リバテイ・ベル・オブ・ザ・ウエスト」である。フィラデルフィアの「りバテイ・ベル・オブ・ザ・ウエスト」より7年古く、1741年にフランスで鋳造された鐘である。フランス王ルイ15世からカスカスキアにあるカソリック教会に寄贈されたもので、650ポンドの鐘は、フランスからニューオーリンズに船積みされ、ミシシッピ川を上って、1743年にカスカスキアに到着した。鐘の片面に、フランスの象徴、"フリュ−・ドウ・リー"(ゆりの花)がレリーフとして刻まれ、もう一面には十字架が多数のゆりに埋まるデザインで、フランス語でPour l'eglise des Illinois par les the Illinois, とある。a gift of Rev. Fr. D'outreleau (the Superior of the Jesuit Missions)ーフランス王からのギフトである。

 

 

 セントルイスの南60マイルにあるカスカスキア島は、ミシシッピ川の西岸にあって、一応ミズーリ州側に属するが、イリノイ領である。かつては島ではなく、イリノイ州と地続きだったが、ミシシッピ川が繰り返して氾濫し、1881年春の大洪水で川の流れを変えてしまった。ミシシッピ川がカスカスキアの村の北にあった細いくぼ地に入りこみ、その勢いでカスカスキア川に流れこんだため、村を切り離して島にしてしまったのだった。

 

 現在、イリノイから島に渡るには、まずポパイの町チェスターからミシシッピ川にかかった橋を渡っていったんミズーリ州に入る。そこには、かつての川底なのか、平坦で何の変哲もない広大な土地が広がっている。一見雑草がぼうぼうとはえているように見えるが、よく見るとアルファルファや小麦、とうもろこしが植わった肥沃な農地である。セントメアリーという小さな村で、再び橋を渡り、カスカスキア島に入る。橋の途中でイリノイの州境を越え、イリノイに戻ることになる。

 

 長年、ミズーリ州とイリノイ州は、島の帰属をめぐって争ってきた。ミズーリは島がミシシッピ川の西岸にあるから、と言い、イリノイは、オリジナルの川の境界線が州境だ、島はイリノイに属すると主張した。論争は1970年まで続き、連邦最高裁の判決は、島を二分、カスカスキアの村も含めて、論争となった多くの部分をイリノイのものとした。面積14000エーカーの島の人口は70人、カスカスキア村の人口は約32人である。148マイルにわたる堤防が島を守るために作られたが、1973年の洪水で300人が島を去り、1976年に再び川が氾濫。1993年の大洪水で、ほとんどの人が島を去ったという。

 

 洪水と背中合わせの危険な村は鳥のさえずりしか聞えず、平和そのものだった。足元でおおきな蛙がとびあがった。車の音一つ、人影ひとつない。土煙のあがる細い道にはフランス語の名前がついていた。カスカスキアが島になる以前、18世紀にこの地に住んでいたフランス人たちの生活がふっとたちのぼってきて、一瞬目くらみを覚えた。

 

 

 260年前にフランスからこの地に贈られた「リバテイ・ベル・オブ・ザ・ウエスト」は、小さな建物の真中に鎮座し、ボタン一つでドアが自動的にあいて、10分間ほどだけ拝観させてもらえる。制限時間が来ると、ドアは自動的に閉まるという低コスト観光スポットである。

 

 カスカスキア村となる地をフランス人が最初に訪れたのは1686年のこと、探検家ロベール・ドウ・ラサールの副官、ヘンりー・ドウ・トントだった。トレーデイングポストの候補地を探してイリノイを探検していた。村は、1703年に、ジェスイットの宣教師、ピエール・ガブリエル・マーレ神父によって作られ、フランス人のトレーダーたちやそのインデイアン妻が住んでいた。1714年に宣教師が教会を建て、1718年までには村の境界線ができて、小麦粉の製粉機が4つもあった。村で作った小麦粉がミシシッピ川を使って州外に運び出されるようになると、人口が増え始めた。やがて村を外敵から守る必要も出てきたのだろう。1730年代と1751年に石砦を作ろうとしたが、コストがかかりすぎるとフランス人はいったんあきらめた。

 

 しかし、1756年に英国とのフレンチインデイアン戦争が始まると、英国の攻撃を恐れたカスカスキアの住民たちは、フランス政府に砦を作ることを要請、再び土と木で砦を作ろうとしたのが1759年である。が、これも一度も完成されることはなく、未完成の砦はミシシッピ川を臨む高台に立っていた。この地が英国軍の支配下にはいった1763年の条約締結後、カスカスキアの人たちは、英国の手に渡るよりは、と1766年に砦を燃やしてしまった。その直後、この地を訪れた英国の将校が発見したのは、2つの荒廃した建物と壊れた砲台と腐った木材だけだったという。現在も、カスカスキア砦の跡として史跡となっている。

 

 英国軍は、カスカスキアに別のゲージ砦を作り、ユニオンジャックはためく基地とした。そのゲージ砦とカスカスキアを"攻撃"、英国から"解放"したのがカスカスキアの独立戦争であり、1778年7月4日のことである。解放軍を指揮していたのは、ヴァージニアの知事、パトリック・ヘンリーから秘密の指令を受けていたジョージ・クラーク将軍だった。カスカスキア占領は、デトロイトにある英国の西部本部占領のための第一ステップだった。オハイオ川を渡ってきたクラーク将軍と彼の部下たち、ケンタッキーの約175人の騎兵中隊"ロングナイブス"は、戦闘状態に入ることなく、カスカスキアを"独立"に導いた。

 

 それもそのはず、英国軍の兵隊たちは、独立戦争を戦うためにすでに東部へ行ってしまっていた。カスカスキアには、英国の利益を代表するものとして、フランス人のロッシュ・ブラッブが一人残されていただけだった。英国人にはいつも不満を抱いていた多くのフランス人たちは、アメリカ側の主張に同情していたので、クラーク将軍がやってきて、ここがバージニア連邦の一部だと宣言、フランス政府はアメリカの独立を支持していると告げると、人々は喜んでそのニュースを受け入れ、「リバテイ・ベル・オブ・ザ・ウエスト」を打ち鳴らしたというわけである。

 

 以後、イリノイはヴァージニアの領土となり、西部進出の足がかりとなった。独立戦争後の1783年のパリ条約で、イリノイは正式にアメリカの領土となる。英国の古い砦は、地元の略奪者ジョン・ドッジと一味の盗賊たちの本拠地になったときもあった。無政府状態になっていたカスカスキア領土をバージニアは1787年に放棄。同時に、ジェファーソン大統領のもと、オハイオ、ミシガンといった州とともにノースウエスト・テリトリーに組みこまれた。アメリカ陸軍は1803年ごろに砦を改造、1807年まで兵隊が駐屯していた。最後に使われたのは1812年の英米戦争で、英国の味方となったインデイアンたちの襲撃を恐れた地元の人間たちのシェルターとなっていた。1809年にイリノイ・テリトリーが出来ると、カスカスキアが中心地に選ばれ、イリノイが独立州となった1818年には、2年後にバンダリアに移るまで、カスカスキアが最初の州都となった。

 

 今はもう、ミシシッピに浮かぶ小さな島と存在しない砦の跡にその名を残すだけとなったカスカスキア。洪水と侵食で、フレンチ・カスカスキアはもちろんのこと、1901年までにイリノイ最初の州の建物はミシシッピに沈み、1916年までにオールド・カスカスキアの建物は全部なくなったという。

 

それでも、広大な畑の風景に、ぽっかり浮かんだフランス語の標識を見たときに身震いしながら思った、この土地にかつて生きた人間の誇りが生きていると。人間の誇りだけは決して川に沈むことはないのだと。