「イリノイ探訪」

オレゴン

 

  身体に沁みこんだ記憶ーつまり経験は、その人を深く切り取り、人生という限られた時間に不可逆性を刻印してしまうものだと改めて感じたのは、デカブから西へ35マイル、人口2800人の村オレゴンに向けて、車を走らせた時だった。たまらなくインデイアンに会いたかったのである。

 

 シカゴ郊外に住む友人には、たとえば片道70マイルといえば、途方もなく遠距離ということになるらしい。私のサウスダコタ生活では、白人の町ラピッドシテイから全米最貧のインデイアン居留地、パインリッジまで120マイル、インデイアンの友達に会って日帰りすれば、一日300マイル、400マイルの運転はざらだった。

 

 大風が吹き荒れる午後だった。行き交う車もない畑のあいだの一本道を走りながら私は、空が鳴るたびに、人間世界からは隔絶したふきっさらしのプレーリーの丘陵をインデイアン世界をめざして車をすっとばした、あのサウスダコタの時間にワープしていた。大風に車が浮きあがるたびに、私はプレーリーの記憶を嗅いでいた。

 

 まもなく、オレゴンの村に車は入った。ミシシッピ川から分かれたロックリバーが蛇行している。お目当てのインデイアンは、そのロックリバーを見下ろしていた。シカゴのホッケーチームの名でもある「ブラックホーク」と呼ばれているコンクリート像である。

 

 ブラックホークは、1767年、ミシシッピとロックリバーが合流する、オレゴンから少し南のあたりで生まれた。フォックスとサーク族のリーダーで、インデイアン名はマ・カ・タエ・ミッシュ・キア・キア。1812年の米英戦争では、英国側について戦った人物である。

 

 アメリカは領土拡張の欲望をむきだしにし、インデイアンの各部族とうさんくさい条約を結び、その条約がどちらともなく破られるたびに戦いが繰り返されてきた。ブラックホークも、そんなうさんくさい条約の一つ(1804年の条約)を破ったとかで、1832年、軍においつめられ、ブラックホーク戦争と呼ばれる戦いが始まった。すでに食料は尽きていたブラックホークたちは、ロックリバーを北上、ウイスコンシンまで逃げ延びたが、やがて官憲の手に引き渡された。そのインデイアン討伐軍に、のちに大統領となるエブラハム・リンカーンがいた。それを知ったとき私は、イリノイが「ランド・オブ・リンカーン」と呼ばれるゆえんかなと思ったものだ。

 

ロックリバーを見下ろす丘の上に、48フィートものブラックホーク像を作ったのは、イリノイ・エルムウッド生まれの建築家、ロラド・タフト(1860−1936)である。シカゴのアートインステイチュートやシカゴ大学で教鞭をとり、展覧会でも数々の賞をとった建築家である。

 

 

 彼は、1898年ごろから、他の芸術家仲間たちといっしょに、友人に提供されたオレゴンの夏の別荘で、「イーグル・ネスト・アート・コロニー」を始めた。英雄像制作に興味をもちはじめていたタフトは、コロニーの近くにインデイアン像を作ることを決めたが、たまたまその地が、かつてブラックホークが好んだという伝承が伝わっていたために、像は自然にブラックホークと呼ばれるようになったという。完成したのは、1911年7月1日のことである。

 

川に臨む崖っぶちで、冷たい風にふきさらされながら、私はブラックホークの顔を下からのぞきこんだ。ブラックホークがどんな顔をしていたかなんて、ほんとは誰も知らないのにー懐疑的な気持ちがふっと湧いた。その瞬間、サウスダコタで山をダイナマイトでふきとばしながら、過去50年にわたって、そして今なお建設中の巨大なラコタ族のリーダー、クレージーホース像を思いだした。インデイアンを尊敬する気持ちからと白人たちは言う。インデイアンたちは、山を爆破するのは決してインデイアン文化を尊重しているとは言えないと抗議する。州はとにかく観光資源になるから、と論争に目をつぶる。

 

なぜ白人はインデイアン像を作るのか。アメリカの歴史に対するかすかな良心を表現するためなのだろうか。地元の人が呼ぶところのブラックホーク像とサウスダコタのクレージーホースとの共通点は、ただ一つ彼らの目だと私は思った。遠くを見ている。クレージーホースの目は、たとえサウスダコタで生まれ育っても居留地には決して足を運ぼうとはしない地元の白人たちの気持ちを象徴するかのように、足元のパインリッジ居留地の苛酷な生活には目もくれず、州を越えてはるかネブラスカのかなたを見つめていた。そしてブラックホークの目はー。イリノイにインデイアン居留地が一つもないことが私にはたまらなく寂しい。