「イリノイ探訪」
セダービル
私も年をとったものだとつくづく思う。墓地が好きなのである。あの人けのない、静まりかえった空間で、一人ぼおっと時間の流れを感じていると、奇妙に幸せな感覚が身体の内にたちのぼってくる。そこに眠る人の一生を勝手に想像し、今いる自分を思い、そしていつか自分もこんな風に、石一個でしか自分の所在を示すことができなくなるのだと思うと、日常の雑念はどこかに消え、自分が透明に澄みきっていく。あの透明さがたまらなくいとおしくなるのである。
イリノイに来る前に住んでいたサウスダコタでは、大正5年(1916年)に、わずか21歳の若さで、急性結核に倒れた日本女性、高橋瑞穂さんの墓を訪ねた。日本の女子教育に燃え、アメリカに留学してわずか10ヶ月後に、彼女は亡くなっている。80年以上も前、過疎州サウスダコタの荒涼とした田舎の土になった彼女の無念さと寂しさ、勇気に、私は力づけられたものだ。亡くなる前に彼女が書いた手紙を読んだが、「日本食が食べたい、お母さんに会いたい」と切々と綴られていた。 彼女の生き様がまぶしかった。
私が、イリノイ州北西部にあるセダービルに向かったのも、そんな偉大な女性に会って勇気を分けてもらいたかったからだ。女性の名前はジェーン・アダムス。1860年にセダービルに生まれ、1935年に亡くなるまで社会改革に身を投じた女性である。1889年にシカゴのスラム街に、貧困者・移民の救済センター「ハルハウス」を設立、子供や女性の地位向上・労働条件の改善、女性の参政権獲得運動に乗りだし、1931年には、全米女性初のノーベル平和賞を受賞している。
バイオグラフイーに目を走らせながら、「やっぱりな」と思ったのは、第一次大戦に反対した彼女がつねに、社会主義者、無政府主義者、コミュニストと世間から非難を受け続けていた、というくだりを読んだときである。何か新しい事を主張、始めようとすると、反対する人が必ず現れるのは人間社会の常である。人を偉大にするのは、反対論や非難に屈せず、説得する度量をもって貫けるだけの信念をもっている、その信念の力だろう。ジェーン・アダムスにリーダーシップの資質が生来備わっていたのは間違いないだろうが、一体何が彼女をそこまで社会改革に駆りたてたのだろうか。
その秘密を墓地で見つけたように思った。墓地は、人口750人の小さな村のはずれにあった。鳥の声があふれ、木々のあいだから陽光が降りそそぐ墓地の一番奥深まったところに、アダムス家の立派な墓塔がひときわ高くそびえていた。
ジェーンの父親は、リンカーン大統領と個人的なつきあいがあった事業家で、南北戦争では将校、州の上院議員を16年つとめた名士である。ジェーンは、9人兄弟の8番目に生まれたが、実母を2歳の時に亡くしている。立派な墓塔には、ジェーンが生まれる前に生後2ヶ月で亡くなった兄、ジェーンが6歳の時に16歳でなくなった姉の名が刻まれていた。子供心にはっきりと理解することはなかったろうが、それでも死の悲しみが身近にあった家庭の日常で、子を産み育てるだけに追われる女の生き方にうんざりはしていなかっただろうか。
しかも、彼女自身が背骨が曲がる障害をもち、自分自身を「醜くて、内股の貧弱な子」と称していたという。抑圧される寂しさ、哀しみが身に刻みこまれていたのだと思った。どんなに裕福でも満たされない心の傷ー。「ひがみ」と軽蔑されがちな心の傷を乗り越えるために、ただ自分の気を強くするのではなく、抑圧される社会的弱者の視点に立って社会を変える道を選ぶジェーンの大きな度量と才能ーそれでも父親は、ジェーンが人並みに結婚して、家庭をもつことを期待していたというから、思わず笑ってしまった。
ジェーンが1915年に書いた、「どうして女性が選挙権をもたねばならないか」という文章を読んだ。女の仕事が子供を産み育て、家庭を守ることとされる時代(それは現代も変わらない)、子供や家庭を守るためにこそ、女性は家の外の広い世界に目を向け、直接的に社会に女性の視点を訴え、子供たちがおかれている社会環境に責任をもたねばならないと力強く説いている。女性が当然の権利として参政権をもつ現代でも、子供たちの危機的状況を考えると、ジェーンの言葉はより一層真摯に響く。
ただ一つ、時代の流れを感じたのは、ジェーンが男女間の役割分担、仕事の分業を主張していることだ。女性が社会に関心をもつのは、決して男の領域に踏み込み、男から仕事をとりあげようとするのではない、生物本来の、そして歴史的にも女の仕事とされてきた分野があまりにもこれまで行政や法整備において無視されてきたから、女性が直接選挙に参加することで、女性の意見を社会に反映させねばならない、というものだ。
アメリカ女性に参政権が与えられたのは1920年8月のことである。以後、男女間の役割分担が個人の選択となり、性で職業の選択が差別できなくなるほどまで女性が力をもつようになった現代を、ジェーン・アダムスは墓の下でどう思っていることだろうか。
墓塔の横にある墓石には、「ハルハウスと、平和と自由を求める女性国際連盟のジェーン・アダムス」と彫ってあった。つつましやかな、小さな墓石だった。その墓石を守るかのように、19世紀半ばからそこにあったであろう、苔むした墓がいくつも並んでいた。父、母と彫られただけのものもあった。
うらやましいなあ、と思った。戻っていく故郷があって、家族とともにそこに眠るのは。私のアメリカ人の配偶者に「墓」はない。私は一体どこの土になるというのだろうか。ふと、サウスダコタに一人眠る高橋さんのことを思い浮かべた。
セダービルの村を出て、再び運転席からとうもろこし畑の上に広がる大きく丸い空を見上げた。空は、箱庭好きの「縮み志向」とまで呼ばれる日本人の身にはなかなか受け入れがたい大きさである。でももしこの空の大きさが、小さな村で育ったジェーン・アダムスの夢の大きさ、心の大きさと呼応しあうものならばー。もう墓なんかどうでもいいか。遠くアメリカまで来てしまったんだもの。あきらめにも似た、一人ごちる言葉が思わず私の口からもれた。