「イリノイ探訪」
フリーポート
中学二年の歴史の時間のことだった。私は、学校という世界とあまり縁がなく、恩師といった存在も、私の人生を決定するような心に響く言葉も持たない。ところが、あの中学の歴史の教師が発した一言だけは、なぜか不思議なことに、私の脳裏から離れることがなかった。
アメリカの南北戦争を学んでいるときに、教師が言ったのである、「歴史に善意なし。覚えておきなさい。」と。 奴隷制を廃止したリンカーンをただ賞賛するのではなく、その裏を読み取れ、といったメッセージだったと思う。
あの午後の日から30年以上がたった。今、私自身が、「ランド・オブ・リンカーン」というニックネームをもつ所に住んでいる。イリノイに移ってきてからずっと、そのうち「リンカーン」には挑戦しなければならないんだろうなあ、という思いが頭の隅でくすぶっていた。夏の初め、思いきって、ロックフォードの西22マイル、人口2万7千人の小さな町、フリーポートまで出かけたのは、いよいよ、「歴史に善意なし」の真意を少しずつ自分で確かめたいと、覚悟ができたからだろう。
フリーポートの最初の入植者は、1835年の終わりに家族とやってきた、ケンタッキー生まれのウイリアム・ベイカーである。川のそばで、雑貨屋とバーを営みながら、入植者誘致のため、川を渡る船や食事、寝るところまで無料で提供したという。フリーポートの名は、旅人たちの世話に追われるベイカー夫人のぐちから決まったという。1837年の村の人口は1420人、町となったのは1850年のことである。
このフリーポートの名を全米に知らしめたのが、1858年8月27日の、アブラハム・リンカーンと民主党上院議員ステファン・ダグラスのデイベートである。現在、デイベートが行われた広場には、記念の二人の像が立っている。そのデイベートのほんの一部を、「ザ リンカーン イニグマ」(ガーバー・ボリット編 オックスフォード出版局)という本の中で知った。(3ページ)
「あなたは、この美しい州を自由黒人のコロニーにしたいのか。」(群集がノーノーと叫ぶ)「黒人が自由になったら、(群集がネバーと叫ぶ)、我々のプレーリーをおおいつくしてしまうだろう。みんなは、黒人に市民権を与えたいか。それならリンカーン氏についていくがいい。しかし、私は、この国は白人のための国だと信じている。(グッドの叫び) リンカーン氏は、独立宣言を持ち出して、すべての人間は平等だという。黒人とリンカーン氏は兄弟だそうだ。(大きな笑い)私は黒人を自分と同じとは考えない。」
このダグラスの人種論に、リンカーンは、「黒人女性を奴隷にしたくないからといって、妻にしたいわけではない」と逃げ、別に黒人に市民権を与えようというわけではない、自分たちの労働の結果を自分たちのものにする権利を与えるだけだ、と切り返した。
リンカーン自身は、白人と黒人との混血に反対、人種の分離が奴隷制廃止論の根拠の一つだったという。(ロナルド・タカキ著「アイアン・ケイジス」オックスフォード出版局 115ページ) そのうえ、人種問題をうまく人権問題にすりかえて、アメリカの外に”植民地”を作り、黒人たちが人間らしい生活が送れるようにと政府が費用を負担して、”植民地”に自由黒人を送り出すことも考えていたという。
1858年のデイベートの結果は、リンカーンの負けだったが、その二年後の1860年にリンカーンは大統領に就任している。「ふうん、人種問題に人権問題、それに経済問題か。リンカーンさんは、ものすごいレトリックの使い手だったんだろうな。」
像の前にあるベンチに腰をおろして、私は143年前の群集の様子を想像した。その想像の熱気の中を、「歴史に善意なし」という言葉がはらはらと漂っていく。町のステファンソン郡歴史博物館には、このデイベートの日に、ホテルで取材を受けたリンカーンが座った椅子や1860年に作られた顔と手型、また私が以前墓を訪ねたジェーン・アダムスのノーベル賞のメダルなどが飾られていた。
リンカーンへの評価が結構”臭く”なる可能性がある一方で、私が感動したのが、この博物館の地下室を見たときだった。博物館は、1857年に建てられたイタリアルネッサンス様式の、進歩派弁護士、オスカー・テイラーの邸宅である。が、奴隷制廃止論者だったテイラーは、地下室に、「アンダーグラウンドレイルロード」と呼ばれる隠れ部屋をつくっていた。記録には残っていないが、どうやらテイラーは、逃亡黒人をこの隠れ部屋にかくまい、安全なところに逃がしていたらしいという。
1804年に始まったアンダーグラウンドレイルロードのネットワークは北部州14州に広がり、無事に逃げた黒人は3000人から10万人とも言われている。イリノイでも1818年に始まり、1835年ぐらいから本格化した。1848年には、イリノイの新憲法で、自由黒人の州への移入は禁止されていたから、町の名士だったテイラー氏も、危険を覚悟で助けていたらしい。フリーポートには、1853年にシカゴからユニオン鉄道、南部からイリノイセントラル鉄道、そして1859年にはミルウオーキーからミシシッピ鉄道も通っていたから、逃亡を助けるには好都合だったのかもしれない。
壁の一部をくりぬいたドアを通って、細長いれんが造りの隠れ部屋に入ってみた。以前サウスダコタで、人種差別のため、地下に作られたチャイナタウンに入ったときのことを思いだした。なぜ、何も悪いことをしていない人間が、地下に押し込められねばならないのか。
州の上院議員だった、ジェーン・アダムスの父親もまた奴隷制廃止論者で、リンカーンと親しかった。ジェーンもよくこのテイラー家に客として呼ばれていたとか。邸内には、奴隷制廃止を目指して熱気あふれる議論がたたかわされたに違いない。地下室の隠れ部屋は、人間の狂気、理不尽さの見本であると同時に、真実を求める人間の心の強靭さの象徴でもある。
ボリットの本によると、リンカーンは若い時から、とにかく何か意義あることをして自分の名を歴史に残したいという強烈な欲望をもっていたらしい。まるで「歴史に善意なし」を地でいくようで、それなら別に奴隷解放でなくてもよかったんじゃないの、という疑問もふとわいた。加えて、リンカーンは同性愛者的性向もあったそうな。(ボリット、xvページ)
「歴史に善意なし」はともかくも、「リンカーンさん」と呼びたくなるような、人間的なリンカーンは好きである。