「企業と人ーお互いの善意を信じ、そしてすべての発展を望んで」
現代は情報化時代と呼ばれる時代である。近年の急激な科学技術の進歩により、我々の生活は、個人が想像もできないほど複雑多様で、かつ流動的なものとなっている。現代社会の持つ複雑さ、多様性を一つ一つ分析し、解明していくことなど不可能に近いであろう。同時に、日常生活にある我々が、いかに情報、ニュースなるものに生活を支配されているかということを日々感じ、考えていくことなども無理というものであろう。毎日、テレビ・ラジオ・新聞などを通して、瞬時のうちに日本国内はおろか、世界のすみずみまでの情報を我々は受け取ることができる。科学技術のすばらしい進歩の成果であるが、ふと生活の中で、一瞬我々が歩みをとめた時、ただ手放しで「すばらしい」時代と言えるであろうか。更に現代は、人間疎外の時代でもある。その人間疎外の問題に、ある意味で、この「情報の氾濫」ということが大きくからんでいると言えよう。
人間疎外を生み出す情報化時代の欠陥は、情報が多すぎて、かつ一方的であるということである。情報を流す者は機械的に、「早ければ早いほどいい」というわけで、ただやみくもに流すし、受け取る我々は、ただテレビやラジオのスイッチをひねったり、新聞雑誌を開いたり、郵便物の封を切ったりするだけである。毎日、「このあいだまで、あんなことを言って、テレビも新聞もぎゃあぎゃあ騒いでいたのに、もう何も言わなくなった。今度はこれがえさらしい。しかし、またすぐ消えてしまうだろう」の連続である。「人の噂も75日」という諺があるが、現代ならさしずめ「世間の噂もまあ一週間」ということになろう。
情報を流すほうは、主な部分がコンピュータに支配されて、人間はその操作を誤らぬようにするだけであろうから、気楽なものであろう。が、受け取る側の我々としては、頭をコンピュータ並みに働かせねばならない。最初はそのつもりで意気込んでいても、その情報の早さと多様性に疲れ果て、あきらめてしまう。同時に情報のほうも、蓄積されることなく、流れるままにされて、いつのまにやら消されてしまう。我々の大半の生活は、それで済んでしまう。思考することもなく、「さあ、そういえば、そんなことも聞いたことがあるなあ」ぐらいである。この「流す」方と「受け取る」側の人間の気持ちのなさ、双方の無関心さが、人間疎外の大きな原因となっているのだ。
しかし考えてみると、我々の生活がそんな風に流れているとは、なんと残念なことであろうか。我々の思考が、日々与えられる情報に追いつけず、その中から真なるもの、本質を見極めるゆとりがないとは、なんと残念なことであろうか。情報を受け取り、それを見抜くことなく、流れるままに生活を送るのをやめて、何かある一つのことに糸口を見出し、その糸口から多くの情報をよりわけるようにしていくと、だんだんと真実を探れるようになり、同時に、自らが考えもつかなかったほど、我々自身や生活が非常に多くの、さまざまな要素で構成されているということがわかってくる。ここで初めて、情報化社会と人間とのあいだに、道が通じるようになるわけだ。
言うまでもなく、あらゆるものは関わり合いをもって動いている。ある時、私は「世論と外交」というテーマで、作文する機会を得た。正直言って、そう毎日考えこんでいる問題とは言えまい。しかし、このテーマを前にして、私にはすぐ「世論と外交との関わり合い」というものが浮かんだ。世論とは一般的な大衆の意見であり、外交とは、いかなる外交政策をとるかによって、国家の考えを明らかにする、その手段である。国民個人を総体してまとめられた世論と、国家の意思を表示する外交とがいかなる関わり合いを持つか。
昔の日本が、鎖国を行なっても存続できた時代とは違って、今や一国が孤立して、国家として成立する時代ではなくなった。政治的にも経済的にも、一国は他の多数の国家との関わり合いの中で存在している。外交とはその中で、国としての考え、意志を調整していく場である。そして、その国としての考え、意志を構成する要素の一つが世論なのである。外交を支持する世論の力は大きい。逆に、国の態度はそのまま、最も直接的には経済的に国民生活に最大の影響を及ぼすことになる。
しかし、世論通りに外交の場が動くわけがない。国と国との思惑が衝突する場である。世論通りに、政府も外交政策を決定するわけにもいかない。そこで、そこに必要となってくるのが、それこそ「正しい情報」を通じての、国同士の深い相互理解なのである。真の情報化社会なら、それが可能だ。「世論と外交とかかけ離れたものにならぬためんは、我々は日々、我々の生活が世界の中で動いているのだ、ということを意識し、互いの国民勘定を害することのないよう、お互いに対する認識を深めていくようにせねばならない。それこそ国民外交なのである。そして、我々の手で為された国民外交を通じて、わが国のみならず、世界の真の繁栄が約束されるのである。」 これが、私の作文のモチーフであった。
このように、日本国民として、多くの正しい情報から見出された糸により、他国への理解を深め、国家間のコミュニケーションを考えていこうとする態度は、当然、こごの人間として、個人と社会との関わり合いを考える場合も通用するであろう。
我々は個々であると同時に、日本という社会の中に組み込まれて生活している社会的動物である。そして、我々が最もそうある時は、我々が職を持ち、社会の中で一つの機能として動き始めるときである。社会は無数の機能をもって活動しているが、その大きな一つを担っているのが企業と言えよう。そして人は、その企業内で一つの小さな機能となって、それを動かし、企業は社会を動かしていく。こういう流れの中で、いかにしたら我々は個人は、そして企業は、社会の真の富を得ることができるのだろうか。それには、すでに述べた通り、世界の繁栄のために、我々がさまざまな情報から真実を嗅ぎ取るだけの力をもち、そこから地球上のあらゆる国々に対する理解、コミュニケーションをはかろうとする努力が必要なのと同じように、社会の中の人間と企業との間の深いコミュニケーションが必要となってくるのである。それは、やがて社会の繁栄を生み出していく。
この情報化時代と呼ばれた複雑きわまる社会の中で、企業と人間を考える場合、同じ企業に対して、2種類の人間が考えられる。一つは企業に組み込まれた人間であり、もうひとつは企業外の人間である。しかし、この両者は密接なつながりがあって、結局は一つの同じ人間だということがわかる。とかく、個々の人間が企業の中で押しつぶされ、それが現代の一つの社会問題である、と言われる。人間疎外の一つの現象である。確かにそうであろう。大企業では、人は、日本社会の歴史が培ってきた縦の関係に縛られ、企業のためのみに働く一つの歯車にすぎない、とよく言われる。その日本企業の特異な体質が、あの東南アジアでの日本人、日本企業に対する不評、批判に謙著に現れているといえよう。なぜ、あのような不評・批判を招いたのか。すでにたびたび指摘されているように、企業の活動があまりにもえげつなく、現地側との対話がなかったためである。すなわち、日本から送りこまれた駐在員たちと現地人たちという、人間同士の溝があまりにも深かったためと言える。相手国の風俗・習慣の違いなど考慮に入れることなく、ただただ日本的やり方で押しかけていった。情報化社会などと言われながら、肝心なところでこの様である。しかし、これからはそのような態度はもう許されない。
目まぐるしく変る世界情勢において、国際政治と国際経済は大きくからみあっている。東南アジアのみならず、世界中に日本製品が輸出され、世界各地に日本企業が進出していくようになった今、そして石油戦略に始まって、政治的にいわゆる「非同盟諸国」に代表される新興諸国が、大きく世界経済に影響を及ぼすようになった今、企業は重大な転換点に立たされているといえよう。一国のみの経済繁栄はもう成立しない。世界的視野で経済繁栄を達成していかねばならない。更に言えば、世界的視野で追求していかねば、一国の繁栄は得られないのである。日本経済は、もうかつてのように、高度成長を為すことはあるまい。企業は、これからの世界経済全体の安定成長の中で、いかなる活動を続けていかねばならないのか。
たとえば、東南アジアにおいては、インドシナ半島の情勢変化により、アメリカの影響力が遠のきはじめた今、このアメリカに代わって、大きな影響力を与えることができるのは日本であるといえよう。しかし、これまでのように、圧倒的な経済力だけをもって、日本企業の為に、日本の為に、と押しかけるわけにはいかない。ある意味で、経済力よりも政治力を獲得していかねばならない段階に来ているのである。そのためには、国民感情を獲得していかねばならない。日本企業側と現地企業側、その中の日本人と現地人という人間同志の相互理解を深めるよう、情報を交換しあい、協調精神でもって共に繁栄を分かち合う姿勢が必要となってくる。そこから、経済力よりも政治力と、新しい日本の道も開けてくるのではないか。そういう面で、先兵である企業の役割は非常に重要である。それだからこそ企業は、日本人、現地人を問わず、人間を大切にしていかねばならない。
何も東南アジアに限ったことではない。資本が流れていく他の多くの開発途上国では、民族意識が高揚し、政治的独立のみならず、経済的独立をも達成しようとしている。そのような情勢下で、土地も資源も乏しい、貿易立国であるわが国の企業や人の活動は、もちろん国の国際協力などの外交政策にも大きく左右されるであろうが、それ以上に、企業とか政府とかを超えて、相手国の経済建設に「参加」していく構え、それだけの人間同志の相互理解、コミュニケーションを要求しているのである。企業と人とのコミュニケーションは、まず海外活動において、情報だけが頼りであるがゆえに、重大な役割を果たすのである。
国内にあっても、企業の人間に対する責任追求はなされなければならない。まず、これまで述べてきたような海外活動での欠陥を少しでも埋めて、人間疎外の現象を生み出さぬために、企業内の縦の人間構成をより良い方向に是正するよう、企業とその中の人間とのあいだのコミュニケーションに努めていかねばならないだろう。又、公害問題や土地問題に対しては、これまでのような無責任な態度で当たることはできない。さまざまな情報活動、運動を通じて、かつてないほど我々の住民意識は高められ、我々は団結しつつある。社会の中で、企業とその中の人間、そして我々、企業外の人間ともどもの発展を願うためには、これからは、企業と我々のあいだの緊密な連絡が必要になってくるであろう。
このように、企業の新しい姿勢が問われているこれからは、企業と人とのコミュニケーションが、国内・外を問わず、いかに重要であるかということを私はこれまで述べてきた。この企業と人とのあいだのコミュニケーションをはかり、相互理解を促進する大きな役割を担っているのが広告なのである。
あらゆる方面からさまざまな批判を受け、これからもその試練に耐えていかねばならないであろう企業であるが、互いの善意を信じて、我々個人と企業、更に社会の発展を目指すとき、我々が最も身近に企業と接するのは広告を通じてである。新聞、雑誌、書籍、各種パンフレット、ビラとあらゆるところに、企業の商品広告はあふれている。そして、大学4年に在学中の私にとって、今最も関心があるのは求人広告である。商品広告も求人広告も情報の一種として、我々の生活の中に深く浸透している。
それでは、我々消費者は、いかなる気持ちで広告を見るのか。一言で言って、商品広告にも求人広告にも、我々は我々の夢を託すのだと言えよう。これからの自己の人生の時間を満たしてくれる何かを与えてくれるものとして、広告を眺めるのである。すなわち、広告とは、ある時にはわずらわしいものであるのと同時に、我々の生活に潤いを与えてくれるものと言える。それだけに企業は、その広告を通じて、我々が社会で営んでいる経済生活に、測り知れない影響を及ぼしているのだ。
広告が社会の中で重要な意味を持っているだけに、先にも述べた通り、我々が氾濫する広告(情報)から真なるものを選びとっていくことができるか、その能力を問われているのだと言えよう。もし、我々が広告にだまされたとか、振り回されたとか言うならば、それは我々の非となるのではなかろうか。
確かに、企業は最大利潤を求めて行動する。当然のことであろう。また消費者は、欲求を満たしてくれる最大満足を求めて行動する。これも当然のことである。しかし、企業も消費者もはっきりと、時代が転換したのだということを自覚せねばならない。企業は、これまでの高度成長時代のように、がむしゃらに、批判をもものともせず、利潤追求行動をすることは不可能であるし、消費者側にとっても、「使い捨て時代」などというぜいたくな時代はとうに過ぎてしまったのだ。これだけの経済情勢の変化は、おのずから企業の広告にも影響を及ぼすはずである。もしこのような情勢下で、誇大広告なるものが氾濫し、我々がそれに振り回されるとなると、これこそ人間不在時代の象徴であり、我々の愚かさを露見するものである。もし企業に、人に対する真の誠意があるならば、誇大広告など作れるはずもないし、また、情報を受け取る側の我々も、動いている社会の中での自分たちの位置を認識し、情報をより分ける力があるならば、誇大広告などすぐ見破れるはずだからである。
広告は、我々をある方向に駆り立てていく力がある。社会でのその力は無限とも言えよう。企業と人とがお互いを信じあって、社会を形成していくあんら、そのあいだにあって、広告もまた社会を形成していく力がある。それだけに、広告は我々の社会への願いを反映したものでなければならない。それは同時に、企業の社会への願いをこめたものでもあるわけである。
広告は、これまでのような企業の利潤追求目的によって作られるのではなく、我々とともに我々の目指す社会を考えた、我々に訴えかける、そして我々とともに生きて成長していく、それだけの信頼感、力にあふれたものでなくてはならない。そこに、企業の誠意が表れるというものであろう。そして我々は、その誠意あふれる真の広告を、自らの手で選びとり、生活に役立たせ、企業とともに社会の富を築いていかねばならないのである。このことは、国内のみならず、海外においても同様であろう。日本製品の広告が世界各地に、とりわけ日本と親密な関係にある米国や開発途上国などにあふれていることは言わずと知れたこと。それらの広告が、これからの日本企業の姿勢を大きく打ち出して、人間を大事にした誠意あふれるものであり、それがそのまま現地の人たちとの交流に役立ち、これまでの汚名を返上するものであること、また、相手国の経済建設に真の意味で大きく寄与していく日本人、日本企業を映し出すものであることが望まれる。そうすることによって、相手国の、さらには世界の繁栄の道を歩みはじめるのであり、それはとりもなおさず、日本の繁栄に他ならないのである。
我々が情報・広告を見抜き、選びとっていく能力があるかどうか。例をあげてみよう。今の商品広告・宣伝には、外国の有名な映画俳優やデザイナーの名が急によく使われ出した。我々は、消費者として、このことに対してもっと問題意識を持ってもいいのではないだろうか。そのような広告宣伝には、もちろん多額の費用がかかっている。これらの広告・宣伝費は結局のところ、商品の価格に上積みされるのである。我々は、そのことを考慮して、これらの広告・宣伝を受け入れるであろうか。企業がどうして外国の有名男女俳優に多額のお金を払ってまで、商品の宣伝・広告を作るのかわからぬわけでもない。日本人は「外国」に弱いのである。明治以来、ただ一心に「西洋文明」を最高のものと考えて、取り入れてきたという歴史的風土が、そのまま日本人の心にまで移り、今日のように、多くの人々が気軽に海外に出かけられるような時代になっても、それでもなお多くの日本人の中に、特に女性の心の中には「外国」に対する「甘い、夢のような憧れ」が残っている。よって、商品を外国の男女俳優とともに宣伝するというやり方は、一般的日本人の心の片隅を突いており、商品のイメージアップにおおいに役立っているといえよう。「敵もさるもの」の感のする広告・宣伝方法である。
しかし我々としては、その俳優たちの使用料が多かれ少なかれ価格にはね返っていると知ると、ニコニコと彼らの顔を見ていられるものだろうか。とかく、我々消費者の経済問題に対する批判に対して、「物価抑制一本やりの批判しかできない」という批判を逆に受ける。物価抑制に対してのみならず、我々に総合的バランスのとれた良識が求められている今、広い視野で我々の経済生活をながめた時、日常生活の案外こんなところに、我々消費者の弱点がさらけだされているのではないか。売るためのみに作られた、華美に流れた広告、宣伝は虚しい。過度の宣伝・広告費用は、更によい商品を作るための費用に回せばいい。本当によい商品の、作った企業の心のこもった広告は、華美でなくともそれだけで我々に伝わるものである。企業もそして我々もお互いを信じあって、本物を作りだし、見出していかねばならない。
企業広告とて然りである。就職活動を眼前に控えた私にとって、新聞の求人広告や各種の企業情報のパンフレットを見ずに、一日を過ごすことはない。実に多くの、驚くほどの企業がある。その数多くの求人広告や企業情報の中から、私は一体どの企業を選べばよいのか。どの企業に自分のこれから先の時間を託せばよいのか。謳い文句、呼びこみ文句はさまざまである。その中から、さあどうやって自分にもっとも適した業種、企業を選んでいけばよいのか。
そのためには、まず自分を客観化し、自分が結局最終的に何を望んでいるか、ということをはっきり自覚して、胆に銘じねばならぬ。そうして、多くの企業情報にある各企業を凝視したらいい、そうすれば、おのずから自分に適した業種、自分のやりたい仕事が浮かびあがってくるだろう。そして、あとは決断だけである。人生の中で、大きな意味をもつであろう決断である。なぜならば、自分がどんな仕事をするかによって、人生観、世界観も変わるであろうおし、それ以上に、そこで巡り合った人間たちによって、人間観も変っていくことが考えられるからである。自分をいかに生かしていくか。一度下した決断を、もう一度取り返そうなととはするまい。自分の選んだ道であるから、責任と勇気をもって、振りかえることなく前進していこう。そんな私をどの企業が生かしてくれるだろうか。
私は、企業に強さ、個性を望む。同じように並んだ企業情報にうずもれることなっく、「これだ!」とひきつけてくれる強さ、魅力を、私は企業に求める。
私にとって、自分を生かしてくれる企業が必要であるのと同様に、企業にとってもまた、手に入れた人材をいかに生かしていくか、は常に非常に大きな課題であろうお。「人をいかに生かしていくか」企業はこれまでのように、企業の利益の為のみに、人を動かしていくような姿勢を改め、これからの安定成長時代では、常に企業とともに成長していく、そんな場を人に与える企業であらねばならない。そして我々は、それだけの力をもった企業を、この無数の情報の中から探し、見抜いていかねばならないのだ。
企業は、じょじょであろうとも、常に人間的成長の過程にあろうと努力する者を育てあげねばならない。そのような人間を育て、たとえば海外に送りだすことによって、その人の為に、企業の為に、日本の為に、もちろん相手国やその国の人々のために、更に世界のために、すべての発展に尽くしていくことができるのである。
複雑多様な社会で、相互理解やコミュニケーションはだんだん困難になってきつつある。これからの時代が、それほど活気あふれた、バラ色であるとも思えない。あらゆる面で不透明な時代となろう。そのような中で、企業と人とのコミュニケーションもまた、多くの困難や矛盾を抱えている。しかし、重要なことは信じあうことである。「本物」「真実」を見抜いて、そして信じることである。我々は、それだけの賢明さを、企業はそれだけの誠意を持たねばならない。私は、お互いの善意を信、本当のコミュニケーションを通じて、これからの不安定な時代の中で、社会が更によりよい方向に発展していくことを切に願うのである。