「人間と言葉」
ボーダーレスを生きる子供たちのために
第12回毎日21世紀賞」(毎日新聞社主催)
(応募作品608編の中から最終選考に残った15作品の一つ)
1 はじめに
言葉ー話し言葉であれ書き言葉であれ、言葉は人間社会に欠かせない。言葉を使って人間は社会を形成し、生活を営んできた。そうして、古今東西数千年もの人間の営みが、言葉によって歴史として記録に残され、それらは更に、人間の遺産として未来の世代に伝えられていく。このように、時間的・空間的距離を越えて、人間同士の意思伝達、即ちコミュニケーションを可能にするのが言葉である。
しかし言葉は、単にそのような道具的機能を持つだけではない。言葉の本当の力は、人間社会との緊密な相互依存関係の中で発揮される。つまり人間が、言葉を作り使うのと同時に、言葉が人間を作っていくということだ。
言葉と社会の相互依存関係というと、まず思い浮かぶのが、人々が生きている文化や社会、時代が言葉を作る一面だろう。「言葉は世相」という表現や、「わび・さび」といった、日本語にあって外国語にはない言葉が象徴するように、言葉には使われている時代や文化、社会特有の人々の意識と感覚が反映される。と同時に、言葉は日々変化している社会や時代、そしてそこに生きる人々の意識とともに変っていく。
しかし、21世紀を生きる人間と言葉の関係を考える本稿で、私が主題としたいのは、むしろ逆に、言葉が人間の意識に働きかけ、意識を規定し、更には社会の発展をも阻む障害にすらなる力をもっているという事実である。
身近な一例として、慣用表現をあげてみたい。慣用表現とは、普通人々が何の抵抗もなく使うものだ。むしろ「言い得て妙」といった感じを持つことのほうが多いに違いない。
しかし、たとえば「色の白きは七難かくす」というのはどうだろうか。この言葉がどのような時代に生まれ、その当時どんな深い意味を持っていたかは別として、この言葉が今日まで、女性美の条件の一つを男性、女性を問わず、社会に押し付けてはこなかっただろうか。慣用として皆に受け入れられてきたという歴史的事実が、言葉に社会的力を与え、力を持つゆえに何の疑問もなく繰り返し使われる。その循環が、人々の意識の中に、意識しない「意識」として、「色の白い女性は好ましい」という基準を社会通念として内面化させてはこなかっただろうか。無意識のうちに内面化された一定の基準こそ、性差別をはじめとするさまざまな差別意識につながっていく。そうして、言葉によって内面化された一定の基準は、無意識という強大な力を得て、人間とその社会を規定してしまう。
言語が思考や認識を決定するというサピア・ウオ−フ仮説は、確かに異論の多い学説ではある。しかし、「はじめに言葉ありき」という聖書の言葉もある。女性、外国人、混血児、障害者など、いわゆる社会の少数派とされる人々が無視されたり、差別される社会的土壌はどのようにして生まれてくるのか。純真無垢で何も知らずに生まれてくる人間の意識が、人間観が、世界観がどのようにして「色眼鏡をかける」ようになるのかを考えるとき、言葉のもつ恐ろしい力を思いしらされずにはいられない。
巨大なマスメディアは、コンピュータを駆使して、世界的情報ネットワークから膨大な情報を常に吐き出している。現代の私たちは、瞬時に通りすぎていく情報が運ぶ言葉の氾濫の中で生活している。情報という名の言葉に追われる現代生活には、一つ一つの言葉やその社会的意味を吟味している時間はない。そこには、一つの言葉が人間の心にしみ入るゆとりさえ生まれない。人間が言葉を大切にする心のゆとりを失うことで、更に言葉に繰られていく。 膨大な情報を握るマスメディアが、受け手に流す情報(言葉)をほんの少しコントロールするだけで、受け手である人間の洗脳はいつも簡単にできあがってしまうからだ。情報(言葉)なくして生活できない現代社会だからこそ、一度立ち止まって、私たちが使う言葉をじっくりと見つめ直すべきだろう。
無意識のうちに内面化され、私たちや社会をがんじがらめにしてきた言葉はなかったか。社会の強者が自分たちの論理で、社会的弱者の心の痛みを黙殺してしまう言葉はなかっただろうか。
すでに欧州共同体では、主要言語間の自動翻訳機が実用の段階に入っていると言われている。(1)21世紀が、国境だけではなく時差や言葉の壁をも超えるボーダーレスの時代であることは明らかである。時間と空間、コミュニケーションの手段の違いも乗り越えた人間社会とは一体どんなものなのか。ボーダーレスの世界では、何が人をつなぎ、人は何を求めて生きていくのだろうか。
私は、ボーダーレスの世界を生きる最大の鍵は、普遍性を求めようとする感受性にあると考えている。今後、国境を超えた人々の往来がより一層激しくなるにつれ、人は世界中の人間や文化、社会の多様性を身をもって経験するだろう。そして、自分がこの社会で生きていくためには、いやがおうでもさまざまな他者をありのままに受け入れざるを得ないことを知るだろう。自分が生かされるためには、他者をも生かさなければならないからである。感受性とは、世界の多様な現実をありのままに受け入れられる柔軟で寛容な心を指す。
多様な人間、文化、社会がボーダーのない空間に平和共存していくためには、一つの求心力がその空間に与えられねばならないだろう。求心力とはつまり、生活背景の違いを超えて、人の心に訴え、人々をつないでいく力をもっているものだ。私はそれを、多様性の中にも共通して流れる普遍的な価値観だと考えている。普遍的な価値こそ人々をつなぎ、相互理解と平和共存を可能にする人間の連帯を生んでいくのだ。多様な世界で、多様な人々との連帯を求めるのは、実に忍耐を要する仕事である。しかし、だからこそ、忍耐強く、寛容で柔軟な、感受性豊かな心が必要とされるのだ。
それでは、何が人々の心の中に感受性を育てていくのかと考えた時、私は再び言葉の力を思いおこさずにはいられない。
先に論じた言葉の暴力的ともいえる力、即ち言葉が持つ、無意識のうちにある一定の基準を植えつけていく力を考えると、感受性、いいかえれば「色眼鏡」なしに世界をありのままに認識し、受け入れられる柔軟性とは、言葉の無意識の暴力を、あえて意識して打ち壊していくことによって、人々の心の中に育っていくものではないだろうか。
言葉は他者を傷つけ、その人間性を奪う力をもっている。世界の多様な現実の中で、異なる背景を持った他者とともに、人間らしく生きていくためには、まず既成の言語観から自らを解き放つことが、これからの時代に求められているとはいえないだろうか。自分たちの言語生活を見直し、本当に意味のある、即ち国境を超えられる普遍的な価値に裏付けされた言葉を大事に生み育てていくゆとりが、21世紀を生きる感受性を育てていくのだ。
今日まで、世界の歴史を大きく転回させ、人間を鼓舞し、人々に勇気と力を与えてきたのは、「民主主義」や「自由」「博愛」といった言葉だった。21世紀のボーダーレス世界に向かう現代の私たちに、果たして「自由」や「民主主義」に比肩する新しい言葉、世界の求心力となる普遍的な価値が見出しうるのだろうか。
未来を生きる人間を作るのは教育である。教育こそ未来社会の礎といっていい。子供たちは母語を覚え、学校教育を受ける中で自然に、その学習言語や文化、社会に内在しているさまざまな差別意識、ある特定の人間観、世界観を自分の内に取りこんでいく。それゆえ、教育という社会システムにおいて働いている言葉の力に疑問を抱いたり、学習のあり方を見なおすことは、子供たちの人間形成とともに、子供たちが生きる未来社会の姿に測り知れない影響を及ぼすに違いない。21世紀のボーダーレスの世界を生きる感受性は、まず教育現場から育てていかねばならないのではないだろうか。
本稿では、言葉の問題を教育の場からとらえ、国際社会を生きる子供たちの感受性育成という視点から、教育の多様化について述べてみたいと思う。これからの学校教育に必要なのは、世界の多様性を積極的にとらえようとする姿勢である。それは、教科書の記述にあらわれる視点や、教師が子供たちに示す人間観や世界観に見ることができる。教科書や教師の問題は、言葉と人間のあいだに存在する無意識の力関係をおのずと浮き彫りにするものである。
2 言葉と教育
(1) 教科書の多様化−歴史・国語教育ー言葉の感受性
教育における言葉の力の怖さは、教科書問題に代表されるといっていい。1982年、「侵略」か「進出」かに端を発した、日本の歴史教科書の記述をめぐる教科書問題は、アジア近隣諸国との大きな外交問題にまで発展した。教科書問題とは、子供たちが毎日何も知らずに使い、勉強する教科書の中の言葉が、いかに人間の意識を操作しているかを如実に物語るものだ。言いかえれば、国が学校教育を通じて一人の人間に「日本人」というアイデンティティを付与していく過程で、言葉が国にとって望ましい日本人像を作っていくということだ。
ところが、1982年の教科書問題は、国が考える「望ましい日本人像」が、決して国際的に通用するものではなかったことを露呈した。日本の歴史教育は、国際社会に生きる人間を育成するどころか、むしろそれを拒むものですらあったのだ。教科書が無意識のうちに子供たちに植え付けてきたのは、日本人から見た一方的、かつ観念的関係だった。相手国の視点を踏まえた客観性に欠ける観念的な関係からは、国際社会を生きる感受性は育ちにくい。
歴史を、言語の暴力である一方的観念から解放し、相互理解にもとづいた国際的視野から再構築するためには、歴史の中で語られる言葉に、自国中心主義を乗り越えた普遍性が付与されねばならない。その意味で、現在、ドイツの教科書研究(2)にならって、日本でも、韓国の歴史家の協力を得て、双方に納得のいく教科書を作る研究(3)や、アメリカとの間にも第2次大戦の教え方について共同研究が始まった(4)ことは、教育界における言葉への新しい挑戦と言えよう。
少なくともニ国間において、言葉に共通の認識や意味を与えようとする試みは、一つ一つの言葉にそれぞれの国の人々の生の声や気持ちが反映されていくことを意味している。そのような言葉によって語られる歴史が、子供たちに他国の人々の視点や痛みを教えていくのであり、そこから子供たちの感受性と他者への理解が育っていくのだ。「遠い将来においては、日本・韓国・中国の青少年が共通の歴史教科書で学ぶ日の来ることを夢見ている」(5)という高崎宗司氏の夢こそ、国際的なコンテクストでとらえた言葉の理想的なあり方を示しているのではないだろうか。
しかし、教科書問題とは決して対外関係の枠組みだけでとらえられるものではない。それは国内問題でもあるのだ。男女差別撤廃をはじめとして、在日外国人やアイヌや琉球などの異文化障害者の問題など、国内のさまざまな「見えざる者」がありのままに認められ、尊重される新しい社会へのビジョンが、教科書とその中の言葉に求められている。
日本語が不自由なまま学校教育を受けている外国人児童のために、算数・理科の専用教科書が作成されることになった(6)のは、日本で外国人子弟の教育権が確立される第1歩として、大変望ましいことである。しかし、外国人子弟の教育権とは、決して彼らに日本人化を強制するものであってはならない。それは、彼らが自分たちの民族的・文化的アイデンティティを失うことなく、誇りをもって自分たちのことを日本人に語りながら、教育が受けられる権利でなければならない。
そのような自由で開放的な教育環境を生み出していくには、学校関係者の開かれた姿勢は当然のことながら、システムの一環として、一般教科書にも彼らに歩み寄る姿勢が求められている。その意味で、在日韓国人の歌人の短歌が高校の国語教科書に採用されたり(7)、中国残留日本女性と中国人男性のあいだに生まれた女性の自叙伝が副読本として使用(8)されたりすることは、非常に意義深く、今後も当然推進されるべき傾向である。
移民の国アメリカでも、教科書は大きな教育問題で、常に論議を呼びながら、試行錯誤の試みと運動が続けられてきた。これまで使われてきた教科書は、ヨーロッパ系アメリカ人の視点で書かれてきたと、多くの少数民族グループは、これまで無視されてきた自分たちの歴史ーたとえば、日系アメリカ人の強制収容所の経験ーを教科書に正しく盛りこみ、かつゆがめられてきた自分たちについての記述を改めようと、忍耐強い運動を続けているのだ。
その中の一つ、アメリカインディアンたちは、教科書のゆがめられた記述(言葉)が、いかに子供たちの心を傷つけるかについて、次のように報告発表している(9)
1 問題点
(1) 不可視性ー(例)インディアンはもう存在しない
(2) ステレオタイプー(例)インディアンは争い好きで、怠け者
(3) 視点の片よりとバランスのなさー白人の一方的視点。挿絵は歴史的なものだけで、インディアンの現代生活は描かない。
(4) 非現実性
(5) 断片化と孤立ー記述があってもわずか2行
(6) 言語的先入観ー(例)コロンブスが「発見した」
2 子供たちへの影響
(1) 自分たちや自分たちの子供の将来に希望が持てなくなる。
(2) 個ごの人間がユニークで価値ある存在なのだという認識が持てずに、アイデンティティを失う。
(3) 自分たちの言語や文化の重要性を否定、白人のようになりたがる。
(4) 自己証明のために、完全主義に陥る
子供たちは4歳ですでに、アメリカ社会の人種差別を内面化させ、学校では教科書の中に出てくる自分の姿がいやになって、学校へ行かなくなるという。もちろん教師になりたいとも思わない。そのため、教育界にインディアンの声が反映されず、教科書も教育も変らぬまま、という悪循環が繰り返されることになる。
教科書とその中の言葉がいかに子供たちの自尊心を傷つけ、将来を奪っていくか、私たちは改めて言葉の重大な責任を自らに課し、教科書の言葉を問いつづけなければならないだろう。
日本でも、差別から学校教育が受けられず、将来を奪われた例がある。高識字率社会の中でほとんど知られることのない非識字者たちである。被差別部落出身者や在日韓国・朝鮮人たちの中には、「学ぼうとしても学べなかった。登校してもさまざまな嫌がらせをされ、勉強どころではなかった」(10)人がいる。
長年、「単一民族社会の神話」を信じてきた私たちには、教科書とその中の言葉を国内問題として捉える差し迫った必要性は感じられないかも知れない。しかし、現在の日本に30万人はいるという非識字者(11)の現実が、私たちのそのような感覚がいかに無責任で、虚構であるかを物語っている。その上、今後ますます国際的人的交流が盛んになって、日本に定住する外国人の数も増えることが予想されているのだ。今私たちは、教科書を単に外圧からだけではなく、内圧によっても多様な人間とその生き様を認めるものに変えていかなければならない時代の入り口に立っている。
言葉は、知識や技術獲得から自尊心育成まで、人間形成の教育の根幹をなし、かつ可能にするものだ。子供たちに、言葉を単に受身に受け取るのではなく、批判できる目を育て、言葉を通して自他ともに人間らしさを磨いていく力を教えるのが、本当の人間教育と言えるのではないだろうか。
(2) 教師の多様化 英語教育ー自他への寛容
子供たちに多様な現実世界への感受性を育てるのは、教科書の言葉の力もさることながら、教壇に立つ教師の口から発せられる生身の言葉の力も無視できない。なぜなら教師は、直接子供たちに、自らの言葉で自分自身の人間観・世界観を教えることができるからだ。教師が多様であればあるほど、当然教室に持ちこまれる人間や世界への視点は多彩になる。ましてや、教師が自分を語る言葉そのものが多彩であればどうだろう。私はこの問題を日本の英語教育について考えてみたいと思う。
日本の英語教育は、長年の文法翻訳中心主義のための実用的コミュニケーション能力の養成には欠けてきた。そのため、国際化時代には不適当と従来から批判され続けている。1992年秋、公立小学校で始まった英語の実験教育では、「授業内容は中学校の授業を先取りした文法や文型の学習ではなく、子供たちに外国人との生の接触を通じて自然に欧米の文化や生活に親しませるため、会話や聞き取りに重点」(12)が置かれるのも、長年の批判にこたえようとするものに違いない。
しかし、ここで私たちが問題にすべきことは、英語が今だに「欧米の文化や生活」を指していることだ。明治以降の英語教育は、日本人の「脱亜入欧」メンタリティによって支えられてきた。日本人は英語教育を通じて、英語世界、即ち欧米列強の白人中心の世界観を内面化させてきたのだ。そこから生まれたのが、日本人の「名誉白人」意識であり、他の有色人種への差別意識である。この意識は、19世紀の帝国主義的人間観・世界観とも呼ぶべきものだが、問題は、20世紀も終わりを迎えた今日でも、19世紀同様の人間観・世界観に疑問を抱かず、英語教育を通して、日本人に教えられようとしているふしが見受けられることだ。
小学校からの「国際化時代に対応する生活英語としての英語教育」が、英米白人教師のもとで、日常生活レベルの会話力を養成するといった単なる技術習得教育だけに終わるなら、それは言葉が人間に及ぼす本質的な力を無視し、外国語教育の本来の目的から逸脱するものと言えるだろう。
1987年にユネスコが発表したリンガバックス・キエフ宣言は、外国語と外国文学の教育が、国際理解と世界平和に貢献できることを謳っている。外国語教育が可能にする国際理解と世界平和とは何か。それは、言葉の学習を通して、他者への優越感や劣等感w払拭し、お互いの共感と連帯を求めようとする人間の意識そのものに他ならない。英語教育の目的は、「読み書き話す」という、言葉が道具的機能を果たすための技能習得ではなく、あくまでも英語を通して、子供たちにより広い多様な世界を見せ、異なる他者への理解を深めるものでなければならないのだ。そうして今、「英語」という言語そのものが、その多様な世界の現実を背負っている。それが今日、英語は国際語であるという言われる本当の意味である。
現在、英語が国の公用語として採用され、日常生活で英語を母語同様に話す人口は、アジア・アフリカの旧英国植民地を中心に、英語を母語とする人口をはるかに超えている。(13) 英語はもはや、欧米第一世界だけを意味するものではない。英語はすでに、飢えや人口、開発と環境など、地球規模の問題に苦しむ世界とそこに生きる人々を映し出すものなのだ。日本という「北」に住む子供たちが英語を学ぶのは、そのような世界の南北問題の現実に直接に触れ、理解を深めるため世界から人間が、直接子供たちに向かって語る言葉以上に強力なものがあるだろうか。
これからの日本の英語教育に必要なのは、英語を公用語として学んだアジアやアフリカ諸国の人々をも英語教師として迎え、教師の多様化をはかることだろう。彼らが話す言葉ー英語を通して、彼らの国情や、白人世界のものではない彼ら自身の人間観や世界観を学ぼうとする姿勢が求められているのだ。その視野の広さが日本の英語教育に見出される時にはじめて、日本人は白人中心の英語観や人間観、そして世界観から本当に脱することができるのではないだろうか。
英語を公用語として学んだ人々の言葉を「新しい英語」と称し、シンガポール英語を日本の英語教育に導入することを論じたヒグチ・アキヒコ氏は、読解には彼らの国の英語教材を用い、聴解には新しい英語を導入、会話には「日本人の英語」を奨励、そして「書く」ことだけ、米英語のレトリックを学ぶようにと述べている(14) 聴解教材に新しい英語を導入することについては、かれらの英語が時に母語の強い干渉を受けているため、英語教育関係者のあいだでは、「標準英語を教えるのが教育だ」といった意見が聞かれることも多い。
しかし、国際社会の現実では、「標準」英語より「非標準」英語を聞く機会のほうが多いのだ。しかも、「標準」といった一定の基準を英語に与え、言葉を判別しようとする意識、言いかえれば英語の多様性への寛容の無さは、翻って、自分たちの言葉、すなわち「日本人の英語」に対して自分たちがもっている劣等感と差別、偏見につながっていることを、私たちは自覚するべきだろう。それがまさしく「脱亜入欧」のメンタリティなのである。
言葉はアイデンティティである。他者の人格を認めるとは、その人間が話す言葉を認めることである。それは時に、他者への感受性という以上に、むしろ他者への寛容を私たちに要求する。私たちが「日本人の英語」を駆使し、世界中の人々とそれぞれの英語でお互いを理解しあうには、双方に相当な努力と忍耐が必要だ。しかし、その努力と忍耐こそ、他者をありのままに認めようとする寛容さであり、同時に自らの英語を通して、日本人である自分を客観的に国際社会に位置付けようとする自己確立の過程でもある。
「日本人の英語」は、私たちが国際社会で築くアイデンティティと深く結びついている。今後、小学校からの英語教育で、英米人の英語だけが導入されるのならば、子供たちの人格や第一言語形成期にあたるだけに、一体子供たちはどんなアイデンティティを育てていくのだろうか。
アメリカでは、ヨーロッパ系のアクセントは、アメリカ人の耳に都会的に洗練されて響くため許容されるが、フィリピンや中国、日本などのアジア系のアクセントは許容し難いという研究報告がある(15) 言葉のアクセントは人間を判断する材料で、アクセントへの許容度は、人種差別的態度と関係があると考えられている。「新しい英語」の話者に対して、同様の意識が日本の英語教育界に見られないと言いきれるものだろうか。
言葉をめぐって生まれる他者への不寛容かつ差別的な態度は、日本国内でも地方方言話者に対して見られることだ。それほどまで言葉と人間、とりわけ言葉と個人の尊重の問題は深く複雑に関わりあっている。日本人にとって英語教育とは、アメリカの現実を超えられる言葉と人間へのビジョンを持ったものでなければならないだろう。そのビジョンが、世界の大国としての日本が国際社会に貢献できる人間社会の課題の一つといえるのかもしれない。
文部省が1987年から実施している「語学指導等を行う外国青年招致事業(略称JETプログラム)」の効果の一つは、子供たちが外国人をこわがらなくなったことだという報告がある(16) 同プログラムに参加したフィリピン系アメリカ女性は、「日本人は私のアイデンティティが理解できなかったので、英語を教えるというよりも、どうして日本人のように見えても、スペイン語の名前を持ち、アメリカ人であることが可能なのかを教えた」と語っている(17)
教師も生徒も知識を獲得する以上に、人間同士の触れ合いを重ねながら、異文化に触れ、互いの抵抗をなくし、距離を縮めていくー教師の多様化、ひいては英語の多様化によって、英語教育は日本人の本当の「国際化」に貢献するものとなるだろう。
3 終わりに
日本人と日本語ー普遍性を求めて
以上、言葉が人間の意識を規定する力を持つという観点から、学校教育における言葉の問題を考え、子供たちに言葉を通じて他者への感受性を育てることを論じてきたが、最後に日本語という言葉を通して見えてくる、私たち日本人のあり方について考えてみたいと思う。
現在、国内外を問わず、日本語を外国語として学ぶ外国人の数は数百万人にものぼると言われている。アメリカ国内でも、大学入試の外国語試験に、今年から日本語が採用され、日本語学習者が一段と増加することが予想されている。
今後より一層、日本語が日本人だけのものではなくなりつつある事実は、一体私たちに何を問うているのだろうか。私はその答えの一つとして、日本語という言語がもつメッセージについて考えてみたいと思う。
メッセージとはつまり、ある言語が世界に向かって発信できる普遍的な価値観のことである。海外の日本語学習者に日本語の魅力を尋ねると、よく「就職に有利」といった実用本位の答えが返ってくる。しかし、メッセージとなりうるのは、経済力といった国力に依存せずとも、言葉自体がもつ魅力、人々を動かしうる文化価値であろう。
英語教育は、「自由と平等」の国アメリカへの憧れや、「個人の独立と尊厳」といった人間性の理想を英語に内在させながら、世界中で押し進められてきた。これに対して、日本語はどうだろう。果たして、「自由と平等」や「民主主義」のような、世界の人々に訴え鼓舞していく力をもつメッセージ、普遍的な価値を日本語はもっているだろうか。
長年、日本語や日本文化は「排他的」で、他国の人間には理解できない「特異な」ものであることが、まるで日本文化の真髄であるかのように論じられてきた。しかし、日本語がもはや日本人だけのものではなくなった今日、私たちが認識しなければならないのは、「特異な」日本文化の中から、普遍的な価値を抽出し、それを日本語に託して世界に広めていくことが、私たちの責務になったということだ。
たとえば、日本語の敬語は日本社会を離れて、世界というコンテクストの中では、どのような意味と役割を持つのだろうか。日本社会のヒエラルキーから生まれた言葉を、国際社会でも通用させるためには、どんな普遍的な意味をまさぐればいいのだろうか。
国際社会での日本語の姿は、日本人のそれでもある。日本語に、万人に通用する感覚、価値を求めることは、私たち日本人がどこまで国際社会に通用し、貢献できるかが問われていると言っていいだろう。今後私たちは、言葉への感性を磨き、日本語の世界を見つめ、日本語にメッセージをこめて、世界に送り出していかなければならない。
そのためには、これまで述べてきような教育現場だけでなく、日常生活のあらゆる場面で私たちは、自分たちの言葉への感性をとぎすまさねばならない。アメリカではしばしば、商品名や長年使われてきた地名にまで問題提起が行われる。最近では、テキサスで通りの名前が大きな論議を呼んだ(18) 初期の日本人移民の歴史を物語る「ジャップロード」と「ジャップレーン」をめぐって、「ジャップ」は差別的だからと名前の変更を要求するグループと、差別ではなく歴史だと保存を主張するグループとが議論を重ねているのだ。たった一つの言葉をめぐって、相反する思い、意識が一人の人間のうちにも交錯するのが、言葉と人間の関係だろう。
言葉の力を見つめ、自分が人間や社会に対して持っている感受性や視野を問い続けてはじめて、言葉と人間は新しい関係が見出せるかもしれない。そしてそれは、未来社会とその子供たちにとって、最大の試金石となるのではないだろうか。
文献
(1) 朝日新聞 1992年2月21日付
(2) 永井清彦 「ドイツー歴史教科書改善のための国際研究」『歴史教科書と国際理解 』(岩波ブックレット)37−43ページ
(3) 藤沢法映 「日韓合同歴史教科書研究会ー何をめざすのか」『歴史教科書と国際理解 』(岩波ブックレット)37−51ページ
(4) 朝日新聞 1991年10月2日付
(5) 高崎宗司 「歴史の見直しと歴史教科書」『歴史教科書と国際理解 』(岩波ブックレット)8ページ
(6) 朝日新聞 1992年12月29日付
(7) 日米時事新聞 1992年12月15日付 (東京新聞より転載)
(8) 日米時事新聞 1993年3月4日付 (朝日新聞より転載)
(9) 1993年2月17日ー19日 「サウスダコタ・バイリンガル・バイカルチュラル教育連盟会議」において
(10) 読売新聞社編 「識字」(明石書店) 179ページ
(11) 日米時事新聞 1992年5月13日付
(12) 日米時事新聞 1992年10月7日付
(13) 小林素文 「複合民族社会と言語問題」 (大修館書店) 108ページ
(14) ヒグチ・アキコ 「Recognition of New English in the Education
System-Focusing on Singaporean English」
JALT Journal Volume 14, No. 2, Nov. 1992 p.159-171
(15) サンフランシスコ・イクザミナー紙 1991年5月26日付
(16) Anthony Cominos 「Managing Chnage in Foreign
Language Education: Interview with
Minoru Wada 」 The Language Teacher Vol. XVI No. 11, Nov 1992, p.3
(17) 北米毎日新聞 1992年8月4日付
(18) 北米毎日新聞 1992年11月25日付