◆身体差別 スポ魂ドラマの限界 (朝日新聞2008年10月30日付「視点ワイド」)
最近、日本で「ウォーキン・バタフライ」という背の高い若い女性を主人公にしたテレビドラマが放映された。深夜番組で視聴率は定かではないが、私たち「トールクラブひまわりの会」(会員15人)にとって画期的な出来事だった。
会は、私が05年に出した「大きい女の存在証明」(彩流社)という本に感想を寄せてくださった身長170a以上の女性たちと立ち上げ、意見交換を目的としている。会で得た共通認識は、「デカイ」と言われて、女性たちが長年心を傷めてきたことに、世間の大半の人は気づいていない、である。ドラマは、私たちの日常の一こまである身体差別を、正面から取り上げた。
ガリバーとあだ名される主人公。彼女に投げつけられるセクハラまがいの言葉や主人公のせりふから、綿密な取材がなされたことは明白で、好感がもてた。しかし、背の高い女性への理解が深まるかといえば、非常に疑問である。というのもドラマは、「見返してやる」「勝つ」を前面に出すスポ魂≠貫いているからである。
主人公の、モデルになるという夢の実現、「居場所」探し、「私らしさ」を求めてひたすら頑張れというメッセージ。そこからは、他者の痛みへの共感や、誰もが生きやすい社会をめざす外向きの視点やエネルギーは完全に排除されている。
「居場所」とは、ありのままの自分がそのまま受け入れられているという安心感がもてる場所のことである。社会とは、それを構成する私たちすべての居場所でなければならない。人に会うたびに、「相変わらず大きいね」「身長何センチ」式の絶えまない身体への言及は、私たちをたまらなく不安にさせる。
私が暮らすアメリカでも、男は女より背が高く、というイメージがあり、背の高い女性たちは悩む。「トールクラブ」は、隣国カナダを含め65以上もあり、男女会員は4千人を超える。最初のクラブが結成されたのは70年前。会員同士悩みや経験を打ち明け、親交を深め、全米のクラブ代表が参加するコンテスト「ミス・トール・インターナショナル」を開いたりして自分たちへの社会的理解を深める活動をしている。確かに人種差別など根深い問題を抱えているが、面と向かっての身体への言及は侮辱とする意識は高い。
街で、見知らぬ人に「デカイなあ」と声をかけられる日本の社会環境。人に揶揄されても絶対に逃れられない自分の身体。それらとともに、たった一度の人生にどう向き合うか。私は「劣等感につぶされるのも勝つのも、自分次第」と、自己向上をはかる個人的な努力を否定するものではまったくない。
しかし、人は社会的存在でもある。なぜ、背の高い女性は劣等感を持たされるのか。なぜ、心で泣いているのに、自虐で笑いをとり、悩んでいないふりをしなければならないのか。
「自分が勝つ」という内向きのエネルギーは、閉塞的な社会を生き延びる処世術に過ぎず、悩みの再生産は止められない。
会は、次世代の背の高い少女たちに、私たちが通った同じ悩みを背負わせることのない社会をめざしている。
身長のみならず、体形・外見への言及・暴言は、誰しもが経験していよう。が、それらが差別心、人格無視の表れであることも多い。言われ続けるトラウマは、その人の一生を縛ってしまう。誰もがありのままの自分に安心できる優しい開かれた社会の誕生を心から望んでいる。