リンカーンの国から

 

(59)1865年4月14日、それから再びイリノイへ

 

 

その日の朝、リンカーンは、みんなに自分は幸せだと話していた。やっと長かった戦争が終わったのである。アメリカの未来は無限だ、とも語っていた。午後は珍しくメアリと二人で、馬車に乗って、銀ブラならぬ、ワシブラをした。(笑)二人っきりになれることなど、滅多になかったのである。のちにメアリは、リンカーンがこんなに幸せそうなのは見たことがなかった、と語っている。夫は妻に、「ぼくたちは、これからはもっと幸せにならなくちゃ、戦争と大事なウィリーを失って、ずっとみじめだったんだから。」と優しく声をかけたらしい。ペンシルバニア通りを東に走る馬車の中で、メアリは、これからのことを夢見て、うきうきと一人で言葉を繰っていたが、リンカーンのほうは黙って、町の様子を眺めていたとか。どこの夫婦も、長くなるとそんなもんである。(笑)その一方、ワシントンのナショナルホテルでは、俳優のジョン・ウィルクス・ブースが、その夜、リンカーンと国務長官のウィリアム・スウォードを殺すつもりで、準備万端整えていた。

 

Text Box:  その夜、リンカーンとメアリは、馬車に乗って、"Our American Cousin"という芝居を見に、フォード劇場に出かけた。1850年代から人気のある英国コメディである。到着が20分ほど遅れたので、劇はすでに始まっていた。フォード劇場はリンカーンのお気に入りの劇場で、いつも同じ席に座った。舞台上手の二階席である。この夜、二人は、グラント将軍と妻ジュリアを招待したのだが、グラント夫婦は、ニュージャージーにいる子供たちに会いに行くからと断ってきた。ジュリアは、メアリが公の場で嫉妬心からヒスを起こすのを見て、以後メアリといっしょに行動するのを拒むようになっていたらしい。劇場にとっては、この夜の目玉は実はリンカーンではなく、リー将軍を無条件降伏させたグラント将軍だったというから、劇場はがっかりしたに違いない。

 

Text Box:  リンカーンとメアリがいつもの貴賓席に入ると、観客は立ち上がって拍手した。満場の挨拶に応じると、リンカーンは、大きなクッションのついたロッキングチェアーに腰を下ろした。妻メアリもそばに腰を下ろした。花柄のドレスを着て、ご機嫌で、幸せそうによく夫の顔を覗き込んでた。10時ごろ、二人は仲良く手をつないでいた。メアリが聞いたそうな、「こんな私たちを見ると、人はどう思うかしらね。」リンカーン答えて曰く、「なんとも思わないだろ」。長年連れ添った夫婦は、どこも同じである。(笑)

 

Text Box:  Text Box:  それからまもなくの10時13分ごろ、劇は第3幕にはいっていた。舞台で俳優が、Don't know the manners of good society? eh? と言っていた。観客たちの笑いさざめく声にまぎれて、ジョン・ブースがひそやかに貴賓席に入る。リンカーンはボディガードが嫌いで、つけていなかった。誰もブースに気がつかない。ブースは、左手にナイフを持ち、右手でゆっくりとポケットからピストルを取り出し、リンカーンの頭に突きつけて発砲した。発砲後、そのままブースは12フィート下の舞台に飛び降り、しゃがんだ格好からすぐにたちあがって、ナイフを高くふりかざし、観客に向かって、バージニア州のモットー「Sic Semper Tyrannis」(Thus Always to Tyrants)と叫んだ。それから、骨を折った左足をひきずりながら、舞台から走り去った。自分が何度も舞台に立った劇場のこと、逃げ道は"勝手知ったる他人の。。。」だったに違いない。観客たちは一瞬、二階からのブースの飛び降りは劇の一部だと思ったそうな。それから、二階席から、きゃあ、と悲鳴が。。その時のフォード劇場の大混乱はたぶん、「何が何だかわからなかった」だったろう。

 

Text Box:  Text Box:  倒れたリンカーンは、道を隔てた、劇場の向かいにある建物「ピータースンハウス」という下宿屋に運ばれた。建物の入り口が2階になっている、歩道より高い家である。血を流している、それも6フィート4インチの大男、しかも大統領をこんなせせこましいところで運ぶのは大変だったろうな、とその夜の騒乱を想像しながら、私は下宿屋の急な階段を上った。中に入ると、すぐ細長い廊下になっている。 廊下の突き当たりが、リンカーンが死んだ部屋だ。 部屋の中には入れない。 入り口右手隅に、ものものしくガラスで囲んだベッドが置かれているが、リンカーンが死んだベッドではない。本物のベッドは、シカゴの博物館に展示されている。大きなリンカーン、小さなベッドにおさまりきらず、足元の立て板をとりのぞき、斜めに寝かされていたらしい。銃弾は、左耳の後ろあたりの頭部に残ったままになっていた。5分か10分おきぐらいに、脈をはかっていた医者の見立ては、56歳のリンカーンが運動選手のような胸板と腕をもち、頑強な筋肉質の体躯でなかったら、撃たれてすぐに絶命していただろう、である。

 

結局、集まった医者たちは一晩中なすすべもなく、リンカーンの脈がだんだん弱り、翌日午前5時半、傷口からの出血も止まり、胸がかすかに音をたて、筋肉が弛緩、身体が動きを止めて、「ああ、これで終わりか」と時計をのぞきこんだと思いきや、6時50分、リンカーンは再びまた小さく息を吸いこみ、それからじっと静寂の中で待つこと半時間、やっと午前7時22分、最後の息をひきとった。一度も意識を回復することはなかった。最後を看取ったのは、長男のロバートを含めて10人ほど。ベッドのそばに立っていたロバートは声をあげて泣いた。妻メアリは、あまりにも取り乱しているので、別室に取り残されていた。

 

その日、すぐに電信で、全米に悲報が伝えられた。従来と違い、全米が一斉に同じニュースを受け取ったのは、リンカーンの暗殺がはじめてだった。1862年には、電信が太平洋岸に達していたおかげである。同じく海底電線のおかげで、ニュースは全世界にも伝わった。南北戦争の報道をリードしていたのはロイター通信社だが、暗殺はロイターのスクープとなった。ニューヨークにいた通信員がぎりぎりの時間まで取材し、すでに出港していたイギリス行きの汽船をランチで港外までおいかけ、原稿入りの樽を下甲板にほうりあげた。この汽船がアイルランドに入ると、すでに海底電線でアイルランドからロンドンまでがつながっていた時代、ニュースはヨーロッパ各国に伝えられた。

 

ワシントンでは、閣僚たちがこれまでになかった盛大な葬儀の準備にとりかかった。"Temple of Death"という名の高さ11フィートもの大きな台を、ホワイトハウスのイーストルームに作り、台の上に棺をおいて公開した。もちろん半旗が掲げられ、学校や仕事は休みとなった。4月20日の葬儀には、約600人がホワイトハウスに集まった。メアリはショックのあまり、葬儀には参列していない。

 

Text Box:  午後早く葬儀が終わると、葬列はペンシルバニア通りを行き、議事堂まで棺を運んだ。6週間ほど前に、第二回目の就任演説をしたばかりの場所である。リンカーンの最後の姿をちらっとでも見ようと、数千人が新しい議事堂のロタンダに集まってき、1マイル以上の列を作り、静かにじっと何時間も待った。棺の前で多くの人が泣き、棺にキスをしてその場を去っていった。

 

4月21日金曜日午前8時、9両編成の特別葬儀列車に載せられた棺は、ワシントン駅を出発した。車両には、黒いリボンが二段に飾られていた。時刻表はきっちりと組まれ、1分の遅れも許されなかった。(ほんとう??笑)棺は、the United States という名前がつけられた後方の車両の一つで、家族はその後ろの車両に乗っていた。リンカーンの遺体のそばには、火葬された息子ウィリアムの棺もあった。イリノイ州スプリングフィールドまで、7つの州を通過、3000万人が見送る1700マイルの列車の旅に、長男ロバートやメアリ、3男タッドを含めた300人が付き添った。

 

Text Box:  同日 北のボルチモアに停車。その夜、北西のペンシルベニアのハリスバーグに。翌22日、フィラデルフィア到着、遺体はインデペンデンスホールへ。30万人が、リンカーンに別れを告げた。4月24日 朝早くフィラデルフィアを出発、北へ、朝10時にニューヨークに到着、市役所に運ばれた。市役所前では、何時間もの人々が列を作って、棺の到着を待った。ニューヨークでの葬儀の写真が一枚だけ残されている。妻メアリが拒否して、写真撮影は禁じられ、大層してとったすべてのネガも写真も全部廃棄処分となったのだが、一枚だけ偶然に残った写真がある。棺をあけて、リンカーンの顔が見える写真である。4月25日 約10万人が、市役所から駅まで歩いて、棺を見送り、午後4時15分、列車はニューヨークを出て、10時55分にイーストアルバニーに到着。遺体は州議事堂に。

 

Text Box:  4月26日 バージニアの農家の納屋で、ついにブース射殺される。10万ドルをかけられて追われた男の最後の言葉は、useless,uselessだったとか。「母親に、自分は国のためにしたと伝えてくれ」とも。かなりのマザコンだったに違いない。母親のためにヒーローになりたかったのか。それも自分が演じてきたシェークスピア劇に出てくるような不滅の英雄に。。。彼にとってリンカーンは、ブルータスを必要とするシーザーだった。圧制者に罰を。。リンカーンを殺したら、みんなに感謝されると思ったのに、殺されたとなると、これまでリンカーンを批判していた新聞は一斉にリンカーンを祭り上げはじめた。ブースのいたバージニアでは、戦争は、リー将軍が降伏文書に署名した4月9日に終わったのであって、暗殺を認めることはなかった。

Text Box:  自分は追われる身となり、後ろから撃ったのは卑怯だとまで言われるようになった。なんでやねん。俺は国のためを思ってしたんだぞ。。。ブースの絶望の嘆きが聞こえてきそうである。当時、いい家庭の女性と婚約までしていたブース。俳優で巡業が多いし、彼女が奴隷制反対論者だったために、結婚はむずかしかったそうだが、それにしてもなんでそんな女性と婚約するか。。単なるお金ほしさか、それとも。。。理想に燃える若く、ときにはどす黒くもなる巨大なエネルギーの行方は誰にも分からない。。

 

Text Box:  4月27日 リンカーンの葬儀列車はバッファロー到着。28日 南のオハイオ州クリーブランド到着。29日 オハイオ州コロンバス到着。30日 西へ、インディアナ州インディアナポリス到着。それから北へ、ミシガン州ミシガンシティから西へ。5月1日 シカゴ到着。5月3日 南へ、ようやく午前9時、イリノイ州州都スプリングフィールド到着して、州議事堂へ。人々は、議事堂の外で、長い列を作って、棺の到着を待っていた。イリノイで選挙戦に出ていたときよりも、死んだ大統領として戻ってきたときのほうが、多くの人が「リンカーン」を見に来たとか。どこか虚しいな。。5月4日、スプリングフィールドのオークリッジ墓地に埋葬。葬列の最後は、黒人牧師のヘンリー・ブラウンが手綱をとる、リンカーンのお気に入りの馬「オールドボブ」だった。

 

義母のサラ・ブッシュは、暗殺のニュースに、彼が殺されるのはわかっていた、それを待っていたようなものだったと語っている。暗殺のショックも一段落したと思われる5月23日から24日、国のモラルをかきたてようと、戦勝パレードがワシントンで行われた。7月7日午後一時、暗殺に関わった4人(男3人に女一人)が絞首刑となった。女が絞首刑になった初めてのケースである。

 

12月6日 1月31日に議会を通過した憲法修正第13条が公布され、ついに奴隷制が廃止された。