リンカーンの国から

 

(37)バタービア

 

 

 

イリノイ北部、シカゴの西、フォックス川のほとりの瀟洒な町バタービア。その町の閑静な高級住宅街の中に、かつての医療施設「ベルビュー・プレース」があった。精神を病んだメアリ・リンカーンが収容されていた病院である。病院といっても立派な邸宅の観ありで、今はベルサイユ宮殿のようにコの字形の造りに部屋が並び、前庭を共有する、感じのいいアパートになっている。多数の鳥のさえずりが聞こえてくる気持ちのいい場所だ。上級階級の女性しか収容しない私立の医療施設だった。第一印象は、やっぱり元大統領夫人が入院するだけのことはあるなあ、である。

 

Text Box:   当時は正面の建物だけで、回りを16エーカーもの庭が囲み、患者たちが散歩したりする憩い場となっていた。院長は、インディアナやアイオワの州立精神病院の医療監督官を務めたリチャード・パターソン医師である。 息子も医者で、ここで仕事をした。家族経営の、たぶん家族的雰囲気のある病院だったに違いない。

 

 1875年5月20日、プライベート車両を連結した列車がバタービア駅につき、メアリ・リンカーンが降り立った。すぐに馬車で「ベルビュー・プレース」へ。メアリの病室は、建物の2階、北東に面した部屋だった。入院していたのは、この日から9月11日までの4ケ月間である。

 

 病院には20人から30人ほどの患者が入院していた。3階が一番重症の患者、1階が軽症患者だったから、2階に部屋を与えられたメアリは、判断がむずかしい様子見の患者だったのだろうか。費用は一日10ドルから20ドル。メアリはたぶん一日10ドルを払っていたという。隣の部屋には、付き添いが寝泊まりしていた。付き添いは、夜、メアリの部屋にかける鍵を預かった。

 

 入院中、メアリにはかなりの自由が与えられていた。日中は、部屋に鍵がかけられることはなく、メアリは手紙を書いたり、外出したり、人と話をしたり、院長一家と食事したりと、実際には普通と変わらぬ生活を送っていた。馬と馬車はいつでも彼女が使えるようになっていたし、ほかの患者とは格段の扱いで、まるでパターソン家の客のようにして扱われた。それでも、メアリの真下の部屋にパターソン一家が住んでいたというから、上から聞こえてくるメアリの足音から、メアリの様子でもうかがっていたのではあるまいか。

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 メアリの日常生活は、ほとんどがこの病院内と、たまに手紙を出しにいく郵便局を中心に回っていた。バタビアの町には何の興味も示さず、町の人間でメアリと接触したのは服屋ぐらいだったとか。

 

 メアリはもともと気難しかった。感情の起伏が激しく、ヒステリーを起こす性格で、悪妻の代表のように言われてきた。面白がって世界史上の悪妻番付をつけると、東の横綱がソクラテスの妻、西の横綱がリンカーンの妻だそうな。(猿谷要 「アメリカを揺り動かしたレディたち」83ページ) なぜ入院まですることになったのか。

 

 夫が暗殺されてから10年たった1875年のはじめ、メアリはフロリダで1人で住んでいた。3月12日、シカゴで弁護士をしている、唯一生き残った長男のロバートが病気だからと、突然、シカゴの医者に電報を打ち、数時間後、メアリはシカゴ行きの列車に乗っていた。シカゴに着いたものの、もちろんロバートは元気だし、嫁、つまり息子の妻とはうまくいかず、ホテル住まいをすることになる。要は、シカゴまでの列車の中で毒入りのコーヒーを飲まされそうになったといった妄言を口にするわ、大金を身につけてショッピングに出かけて、衝動買いをしたりと、挙動不審だったのである。

 

 困った息子のロバート、最初はホテルの女性を監視役に、それから探偵を雇ったりしたが、まだ31歳の駆け出しの弁護士だったロバート自身が経済的にそれほど豊かではなかった。加えて妻の飲酒、別居、子供の誕生、母親の虚言奇行に浪費癖と、問題をいっぱい抱えていた。困り果てたのだろう。自分が管理責任者となっている母親の財産と借金地獄から母親を救うために、シカゴの裁判所で母親が精神異常で無能力者であると申し立てることを思いついた。当時メアリは56歳。イリノイ法では、本人の許可なくして病院に入れるには陪審員の評決が必要だった。弁護士だったロバートは法を知り尽くしていたに違いない。

Text Box:   1875年5月19日、裁判が始まった。ロバート側の証人は17人。みんなメアリのエキセントリックな言動を証言した。3時間後、メアリは正気ではない、との評決が下り、翌20日、バタビアにやってきたというわけである。

 

 病院記録が残っている。確かに、メアリの言うことは支離滅裂な部分が多く、約束はよく変更したらしい。

 今とほとんど同じ、当時でもシカゴから列車で90分ほどのところにあったバタビアには、息子のロバートも毎週訪ねてきた。時には娘のメアリも連れてきた。病院記録によると、メアリは孫や息子が来ると、一見幸せそうにしたが、実際は、いかにしてこの病院を出ようかと画策していたらしい。シカゴの友人やジャーナリストにまでコンタクトをとって、もうメアリは精神異常者ではない、という証言や新聞記事を出させて、ようやく退院したのが1875年9月11日のことである。シカゴの裁判所は翌1876年6月15日にメアリは正常という正式な文書を残している。

 

 退院すると、メアリは息子とともに、姉エリザベス夫婦が住んでいた州都のスプリングフィールドに移り、姉夫婦と同居することになった。その後の9ケ月のあいだに、ロバートは15枚の小切手を切って、4599ドル28セントを姉夫婦に送っている。どうやらメアリは、買い物依存症的症状も呈していたようで、ロバートにしてみれば、母親は贅沢できる身分じゃないのに、伯母は監督不十分だと、ロバートとメアリの姉、エリザベスとの関係も悪くなったらしい。ああ、家族とはいつの世もどこでも同じだあ。。

 

Text Box:   メアリの病気については、今も学者や医者が議論している。慢性の頭痛や不眠症のために薬を飲んでいたメアリ。精神面だけではなく、あきらかに身体的健康を損ね、それも婦人科の病いを抱えていたようで、温泉に行って療養したりしていたらしい。人格障害だったという学者もいれば、メアリが言ったり書き残した症状から判断して、1869年ぐらいからどうやら脊髄聾ー脊髄梅毒をわずらっていたらしいという定説も生まれつつあるそうな。最後の十年は苦痛がひどく、それが狂気と間違われたのでは、と。梅毒って性病のように私は聞いてたけどなあ。1869年といえば、夫が暗殺されて4年後だよ。メアリさん、恋をしたのだろうか。