イリノイこぼれ話
ブロンズビルの一日
まだイリノイに来て間もない頃、車でDan Ryan Expresswayを南に走っていたときです。隣にいた配偶者が、「ふ〜〜ん、ここがブロンズビルか」と感慨深げにつぶやきました。そんな風につぶやかれても。。。私には何のことだかさっぱりわかりませんでした。
あれから8年。そうだったんだあ、と今は思いますが、あんまり「ブロンズビル」が人の口にのぼることはありませんね。なんでかなあ。。ちなみに、私は音楽のことはさっぱりわかりません。指の体操と思って、ピアノを弾いていたぐらいですから。(悲)
イリノイは自由州で、奴隷制を禁じていたーというか、黒人移入を嫌ったからでしょう。まだリンカーンが生きていた時代のシカゴの黒人人口は1000人ほど、人口の1パーセントほどでした。ところが、第一次、第二次大戦と戦争が起きるたびに、南部から職を求めた黒人の大移動が起き、急激に黒人人口が増加していきます。
シカゴの26番通りに、その大移動を記念したモニュメントが立っています。北を向く帽子をかぶった男性の全身は“うろこ”でおおわれています。うろこは靴底をイメージしたもので、人々が南部から歩いてシカゴまでやってきたことを象徴しているそうな。近くに「ブロンズビル」と刻まれたベンチもあって、ここから「ブロンズビル」が始まります。南は67番通りあたりまで、西はDan Ryan Expressway、東はかつてのイリノイセントラル鉄道に囲まれた地区です。1920年代に最盛期を迎えた31番通りと39番通りのあいだは、今は歴史的地区に指定されています。
「シカゴいいとこ、シカゴにおいで」と南部の黒人たちに呼びかけたのが、黒人新聞「シカゴ・ディフェンダー」。当時のレンガ造りの建物がそのまま残されていました。
そして、人々が歩いたり、鉄道に乗ったりして、身体とともに南部のプランテーションから運んできたのがブルース。自分たちの孤独やら怒りやら悲しみを表現した歌が、奴隷解放とともにミシシッピ河を北上、メンフィスやセントルイス、そしてシカゴまでやってきた。メンフィスといえば、ビールストリートにBBキング、エルビス・プレスリー。そのうち、ブルースはジャズに形を変え、デューク・エリントンにカウント・ベーシー、ナット・キング・コール。ルイ・アームストロングもブロンズビルに一時期住んだことがあるそうです。ジャズはさらにスイングからカントリーへ。ビリー・ホリデーにエラ・フィッチェゼラルド、ベニー・グッドマン。ベニー・グッドマンはシカゴの「ハルハウス」出身です。ジョン・コクトレーン、マイルス・デービス、レイ・チャールズにハンク・ウィリアムス、それからロックンロールが生まれ、アレサ・フランクリンやらチャック・ベリー。で、シカゴの「チェス・レコード」。ローリング・ストーンズにとっての「聖地」で、メンバーがシカゴに来たときは「チェス・レコード」詣をしたとか。
う〜〜〜ん、聞いたことのある名前をずらずら並べましたけど、音楽の話は専門家に任せて、私に分かったのは、ブルースってアメリカ音楽のルーツなんだあ、という実に素朴な感想のみ。。
ゴスペルの迫力が目の前に迫ってくるように感じたのが、The First Church of the Deliveranceに入ったときでした。1934年から説教のラジオ放送を開始、ゴスペル音楽発展の中心となった教会です。1個100ワットの電球が一体いくつ使われているのでしょうか。天井には、大きな十字架の形に電球が並び、そこから熱波がさんさんと降りてきます。熱い! 壇の左右には立派なグランドピアノが2台、コーラスは200人。楽しそうだな、と、教会らしからぬ感想。。
ソールフードは、1945年から営業している有名なArmy& Lou’s
で食べました。チキンもポテトもデザートもみんな、味がどおっと濃かったなあ。今日一日、ダイエットは忘れよう。。(笑)
ブロンズビルで半日を過ごして、再びループに戻ってくると、不思議な感覚が身体を圧倒しました。高層建築のはざまで、足早に歩いていく人々に囲まれていると、突然、今まで自分はどこにいたのだろうという疑問が立ち上がってきたのです。ここは、どこ。ブロンズビルは、同じシカゴ市内とはまったく思えない別世界でした。これって何。どうして。。。答えが出ないのは承知です。でも、問わざるを得ない、そして、常に問われるべきでしょう。
ブロンズビルの街角で、戦後の1946年とか47年ごろ、ブロンズビルの近くで日系(本)人家族が住もうとしたら、近所で「住むのを阻止しよう」という回覧板が回ったと聞きました。で、どうなったんですか。うん、大丈夫でしたよ、3世代がいっしょに住んでて、あの人たちの庭があたりで一番きれいでした。。
シカゴって、「マグニフィセント・マイル」だけじゃないですよね。