リンカーンの国から

 

(44)第4回ディベート: チャールストンにて

1858年9月18日

 

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1858年9月18日土曜日、イリノイ中南部の町チャールストンは、人々の興奮で沸きかえっていた。まもなく、リンカーンとダグラスの第4回目のディベートがはじまろうとしていた。

 

チャールストンは、リンカーンにとってはなじみ深い土地である。父親がもっていた農場から一番近い最寄の町だったし、巡回裁判の仕事で何度も訪れていた。が、よく知られた父親との確執から、リンカーンが農場を訪ねることはなかった。その父親も七年前に死亡、自分を育ててくれた義理の母親だけがまだ近くに住んでいた。町の人々の大半をリンカーンは個人的に知っていたが、政治的にはその多くが、リンカーンに反対していた。

 

ディベートを見ようと、各地から12000人以上の人々が会場となったカウンティフェアーフィールドに集まってきた。中には、数日前からワゴンでやってきて、夜になると草むらでキャンプしていた人々もいた。現代の人気歌手のコンサートかサッカーの試合ののりである。娯楽がなかった時代、これ以上の「見世物」はなかったんだろうなあ。

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過去三回のディベートを通じて、人々はもう、ダグラスと互角で戦えるリンカーンの能力を疑う者はいなくなっていた。ダグラスこと、"リトルジャイアント"とその参謀たちも、単に攻撃するだけでなく、攻撃を受けねばならないことも了解していた。最初は、気負って攻撃に出ていたダグラスも、注意深く自分の力を使うようにせねばならなかった。へたに質問すれば、逆襲されて、今度は自分が窮地に追い込まれるからである。

 

Text Box:  第4回目のディベートは、リンカーンの演説で始まった。立ち上がり、帽子を取って、ゆっくりと時間をとって、瞑想しているような感じで、聴衆の前にたち、人々を見回しながら、まるで人々の様子をさぐってでもいるかのようにして、それからおじぎをして、話しはじめた。前回のジョーンズボロで、ダグラスに人種平等発言を突っ込まれ、明らかにいらだっていたリンカーン。最初から、率直に要点に切り込んだ。自分は、黒人の有権者や陪審員はいやだし、黒人に選挙に出る資格を与えるのも、白人と結婚するのにも賛成はしない、とはっきりと言った。さらには、白人と黒人の身体的特徴の違いによって、両者が社会的・政治的平等のもと、いっしょに住むことは許されないだろうとまで言ってのけた。が、リンカーンがレトリシャンなのは、白人が黒人より優れているからといって、黒人がすべてを拒否されるべきだとは信じない、と、いったん"引く"ことである。そして、自分が黒人女性を奴隷として望まないからといって、私が黒人女性を妻にしたいと思わなければならない、というのは理解できない、と例示している。なるほど、納得である。要するに、個人的な気持ちと社会的制度とは別、という論理の展開である。頭がいいなあ。で、リンカーンがText Box:  付け加えるに、黒人女性にかまうな(let her alone)、と。なるほど、なるほど。

 

 それからリンカーンは少しずつ、興奮していった。声は甲高く、体が大きく揺れはじめた。

壇上には、弁護士仲間のワードヒルや、その横には、1847年にリンカーンといっしょに連邦議員だったフィックリンが座っていた。話の流れで、リンカーンは、やおらフィックリンの後ろに回ると、フィックリンの首の後ろからコートのエリをつかんで、まるで子猫のように椅子からつりあげながら、言ったとか、「みなさん、ここにいるフィックリンが、ダグラスの言ったことが嘘だと知っています。」 

 リンカーンは、フィックリンが歯を鳴らし始めるまで、彼の身体をゆさぶったとか。ほんとだろうか。まあ、娯楽のなかった時代にこういうパフォーマンスを見せてもらえるのなら、人は熱狂するだろうなあ。(笑) フィックリン自身は、政治的には対立しても、リンカーンには暖かい友情をもっていたらしい。

 

Text Box:   一方、応戦したダグラスは防戦一方となった。 リンカーンは人種的偽善者だと批難したのだが、表現が面白い。リンカーンは、北部ではまっ黒(jet-black)なのに、中部では混血の中間色であるムラットー、南部まで来ると、ほとんど白だ、場所によって信条を変えているではないか、今は奴隷制反対の南部に迎合しているだけで、どうせ北部なら、また別の形の"平等"を主張するのだろうと喝破。でもなあ、そんなこと言われてもなあ、選挙民に合わせての玉虫色が政治家の信条じゃないの。まあ、ダグラスさんも知ってて言ってるに違いない。

 ダグラスは続ける。リンカーンがあくまでも、独立宣言でも神の法でも、黒人と白人は平等だというなら、黒人に市民権を与え、法の下に平等にしたらいいじゃないか、私は、率直に自分の考えを述べよう、黒人は、アメリカ憲法下では、市民ではないし、なれないし、なるべきではない、この国は白人の国、白人のための国だ、黒人には自分たちの政府を作る力はないのだから、白人と平等には決してなれない、黒人は劣等なのである、アメリカ国家は当初から自由州と奴隷州にわかれてこれまでやってきたし、これからもやっていける、と。

 おお、ここまで本音を言ってしまうと、勝ち目はなかったかなあ、と後世の人間としては思う。現代だって、これと同じようなことを考えている輩はいっぱいいるとは思うけれど、少なくとも口に出しては言えないまでに、この国は理想を追って、ここまで成長を続けてきた。

 

 ダグラスのあと、もう一度壇上に立ったリンカーン。ダグラスの批判を受けて、再び口にした。黒人が市民権を得るのには賛成しない、と。だが、各州は、それぞれの州憲法にもとづいて、黒人を市民にするかどうかを決める力を持っていると考える、と付け加えた。このあたり、またうまく"自己責任"から逃げてるなあ。ダグラスが、新領土には、住民自治の投票で奴隷制導入を決めたらいいと主張したのとまったく同じ理屈である。ああ、政治家たちめ。続けてリンカーン、昨年のドレッド・スコット判決は、州にその決定権がない、とした、が、もし、イリノイ州がその決定権をもっているというのなら、私は、黒人を市民にすることには反対する、と。あのお、リンカーンさん、あなた、ドレッド・スコット判決には反対したんじゃなかったの。とにもかくにも、言葉の綾を繰って、どこまで自分の発言に含みをもたせるか、言質をとられないか、議論はそれだけに尽きるって感じである。あああ。

 

それでも、演説記録を読んでいて、胸を打たれたのは、リンカーンの演説の最後の部分だった。古いウイッグ党員のリンカーンが、古い民主党員のトランブルと組んで、分離派を作り出し、国政を混乱に落としいれているというダグラスの攻撃に対して、答えたのである。 

 「しかし、我々はこの問題(奴隷制)で、一度だって平和になったことがあるのか。一体何年苦しんできて、これからも苦しみ続けねばならないのか。これまでだって、ずっと苦しんできた。なんとか妥協案を見出しても、いつも4、5年で終わり、またこの問題と戦わねばならない。」

 ミズーリ妥協法をほごにしようとするダグラスの傲慢を、心情的に聴衆に訴えかけることで、徹底的に追い詰めることになったのである。

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リンカーンの論理の展開は圧倒的で、ダグラスの言いぬけ、ごまかしは誰の目にも明らかになった。 自分の負けに気づき、短気を起こしたダグラスは一種のパニックに陥って、じっと座っていることができなかった。たちあがって、群衆のあいだを走りまわっていたという。ああ、みっともない。そのうち、壇上に急いでかけ上がったり下りたりしはじめ、リンカーンの後ろで、手に時計をもって立ったりした。明らかにリンカーンの演説の時間切れが待てなくなっていた。ダグラスは非常に動揺し、まるで怒ったライオンのたてがみのような長い白髪まじりの髪を風にたなびかせ、リンカーンを止めようと必死になっていたのは誰の目にも明らかだった。

 一方、リンカーンのほうは、その弁の流暢さによって聴衆をしっかりとつかんでいた。やっとリンカーンの時間が切れると、ダグラスはすぐに時計を高く掲げて、座れ、リンカーン、座れ、時間切れだと叫んだ。リンカーンは、ダグラスのほうを向いて、静かに言った、「やめますよ、やめます。時間が終わったことはようくわかっています。」 

 人がほんとに勝つときは、静かな時である。

 

 ディベートが終わると、人々は大きな拍手を送って、散っていった。リンカーンとダグラスは並んで壇を下りた。ダグラス夫人はフィックリン夫人といっしょだった。ラベンダー色のシルクドレスを着て、きれいなボンネットをかぶった美しいダグラス夫人は、フィックリンの馬車で町に戻っていった。

 ディベートのあと、リンカーンは、ダグラスの若い新妻が、ダグラスのあとにくっついて、どこにでも顔を出すことを揶揄して、自分の支援者やら親戚に言ったとか。「私の妻が、私が酔っ払わないようにと、場所から場所へとついてまわる必要がないと考えていることは有難いことだ。自分をほめてやりたいよ」 

 どこでも、誰でも、考えることは同じらしい。(笑)