リンカーンの国から
(43) 第2回ディベート: フリーポートにて
1858年8月27日
イリノイ北部、ロックフォードの西22マイルに人口2万7千人の小さな町、フリーポートがある。フリーポートに最初の入植者がやってきたのは1827年ごろ。ペンシルバニアからのドイツ系の人々である。1835年ごろ家族とやってきたのが、ケンタッキー生まれのウイリアム・ベイカーである。小さなぺカトニカ川のそばで雑貨屋とバーを営みながら、渡し船をしたり、旅人たちのために、食事や寝るところまで無料で提供した。入植者誘致でもあった。フリーポートの名は、旅人たちの世話に追われるベイカー夫人のぐちから決まったらしい。"無料の港"―ベイカーさんはもしかして、新しい町を自分で作って、一旗あげてやろう、俺が初代市長になるんだ、みたいな大きな夢を抱いていたのかも知れない。男の見果てぬ夢に付き合わされる奥さんは、いつの時代もぶつぶつ。。(笑) やっぱり"無料"がよかったのだろうか、1837年の村の人口は1420人、シカゴと駅馬車でつながって、町は急速に発展した。町となったのは1850年のことで、1853年にはドイツ語の新聞まで発行されるようになっていた。
このフリーポートの名を全米に知らしめたのが、1858年8月27日に行われた、リンカーンとダグラスの第二回デイベートである。現在、デイベートが行われた広場は、「ディベート広場」と名づけられ、記念の二人の像が立っている。
夏の終わりの8月27日、じめじめとしたうっとうしい、夏にしては肌寒い日だった。それでも、全米から15000人もの人が、人口4000人ほどの小さな町に押しかけた。 この時のディベートは、7回のうちで一番有名なものとなる。のちに歴史家たちが、1860年の大統領選でダグラスがリンカーンに負けた敗因がここにあるというほど、歴史的な意味を持つディベートとなった。
前回のディベートで、ダグラスは、リンカーンを強硬な奴隷制絶対反対論者にしたてようとして、7つの質問事項をやつぎばやに繰り出した。この質問にいかに答え、ダグラスにいかに切り返すか、その戦略を練るために、リンカーンは、フリーポートに来る前に、近隣のディクソンの町で友人たちに会っている。リンカーンが質問しても、ダグラスはうまくはぐらかすだろうから、かまうな、とアドバイスする友人たちに、リンカーンは言い返す。「いや、あの男は、質問されればすぐに答えようとするだろう、その答え方によっては、追い詰めることができる。」 大変、大変。。でも、こういう勝つ戦略を練るのが好きなんだろうなあ、政治家になりたい人は。
リンカーンと数人の農夫たちのグループは、二頭の馬にひかれたオープンワゴンに乗って、広場に入ってきた。 ダグラスは金持ちのプランテーションの所有主で、普通の人の気持ちはわからない、を、群衆に印象づけようと、リンカーンがもくろんだのである。 ダグラスは、大砲の音やら大きなトーチライトのパレードで迎えられた、というか、自分で手配したのだろう、歩いて登場した。そして、リンカーンの目論見にはあからさまに不快感をあらわにしたという。
広場に集まった人々は、それぞれプラカードを掲げて、大きな声で叫んでいた。「All Men Are Created Equal」というリンカーン派もいれば、「Abe
the Giant Killer」,「Douglas and Popular Sovereignty」と、ダグラス派も負けてはいなかった。
前回の第1回目はダグラスが演説を始めたので、今回はリンカーンが始める番である。リンカーンに与えられた時間は1時間、次に受けて立つダグラスが1時間半、最後にリンカーンが30分でディベートを締めくくるという手順である。ダグラスは、力強く朗々とした声で、どちらかといえば早口の、熱をこめた語り口である。ジェスチャーも印象的で、どこから見ても、長年の経験に裏打ちされた演説者だった。外見だけで判断する限り、リンカーンには勝ち目はなかった。リンカーンは痩せて、ひょろ長く、ぶざまな姿で、しわのよった印象の弱い顔で、要するにブ男だった。体を不器用に上下左右に動かし、声はしばしば金きり声に近くなった。が、その不器用さゆえに、正直で、信頼に足る人間という印象を人々に与えたという。ダグラスの演説には、リンカーンのような、人の同情を誘い、人間性の本能部分に訴えかけるものはなかった。
「Ladies and Gentlemen 」でスピーチを始めたリンカーン、まず前回にダグラスがたたみかけるように提示した7つの質問、「I
desire to know whether Mr. Lincoln ..」「.I desire him to answer whether he ...」「.I
want to know whether he stands....」を、そのままおうむ返しに紹介しながら、歯切れよく答えていく。質問は「シカゴタイムス」にも掲載され、広く世間の人々に知られていた。
「質問1」 とリンカーンが切り出した、「1854年のスピーチの時のように、逃亡奴隷法を無条件で無効、廃止するつもりなのか。答え、かねてから、そして今もそんなことに賛成はしていない。質問2 1854年のスピーチのように、さらなる奴隷州を北部に加入させることに反対するのか、答え、そんなことを誓ったこともないし、誓うつもりもない、質問3 憲法を住民が自分たちで決めた州を、新しい州として北部に加入させることに反対するのか、答え、そんなことを誓うつもりはない、質問4 首都ワシントンで奴隷制を廃止するつもりなのか、答え、今、そんなことを誓うつもりはない、質問5 州と州のあいだで奴隷取引を禁止するのか、答え、そんなことを誓うつもりはない 質問6 ミズーリ妥協線の南のみならず、北でも準州のすべてで奴隷制を禁止するつもりなのか、答え、私は、impliedly,
if not expressly, 連邦議会が全米の準州で奴隷制を禁止する権利と義務を持っていると信じていることを誓う、質問7 奴隷制が最初から禁止されていなかったら、新しい領土を獲得することに反対するのか。答え、私が、領土の獲得に反対しようがしまいが、また獲得が我々のあいだで奴隷制の問題を新たに引き起こそうが引き起こすまいが、私は一般的には、領土を獲得するまっとうな方法には反対しない。」
レトリシャンである。絶対にノーとはっきり言わないのである。ノーと言い切ってしまうと逃げ場がなくなって、追い詰められてしまう可能性があるからだろう。すべて、I
do not now, nor ever did, stand..., I do not stand pledged で含みをもたせている。 ただ一つ、真っ向から肯定したのは、議会がもつ権利と義務を自分は信じている、だけである。要するに、自分が拠って立てる一番強力なものだけは守って、あとのごちゃごちゃしたものは全部切り捨てる、といった感じだ。それでも、impliedly,
if not expressly, とまだ含みを残しているから、やっぱり、頭いいなあ。1854年といえば、住民投票で奴隷制の導入を決めるというカンサスーネブラスカ法が成立したときで、怒ったリンカーンが政界に復帰、法案に反対表明をして、イリノイ下院議員に再選されたものの、連邦上院議員を狙って辞退した年である。積年の論争があらわになり、白日のもとにさらされたということだろう。
ダグラスの質問に手際よく答えたあと、リンカーンは攻勢に出た。ダグラスに尋ねたのである。準州は、州に昇格する前に、法にのっとった方法で、奴隷制を排除できるのか、そのあとで、もし最高裁が州権には奴隷制を禁止する力がないと判断を下せば、どうするのか。裁判所の決定に従わねばならないのか否か、と。要するに、州の住民主権を謳い、住民が州に奴隷制を導入するか否かを決めるのだ、と主張したダグラスに、住民の意思ー州権と連邦最高裁判所の力とどちらが大きいのかと迫ったのである。リンカーンの頭の中にはもちろん、州憲法制定の住民投票をめぐって内戦状態にあったカンサスの状況があった。ダグラスは、北部州は奴隷制禁止とするミズーリ妥協法案は憲法違反であり、議会は連邦の土地で奴隷制を廃止する権限をもたないとしたドレッド・スコット判決を支持する立場をとり、南部の奴隷制賛成派を味方につけていた。最高裁の判決に従えば、州に昇格する前に奴隷制は禁止できない。ダグラスは司法の判断には絶対に従うべきだと主張していた。その主張と、同じく彼が主張する住民主権は矛盾するのではないか、というのがリンカーンの論点である。
挑戦されたダグラス。立ち上がって答えようとすると、群衆は彼に向かってはやしたてはじめる。ダグラスはしばらく静かに立っていたが、やがて我慢ができなくなると、群衆に向かって「この奴隷廃止論者たちめ」と叫ぶ。群衆がますます大声ではやしたると、怒りから身体を震わせたダグラスは、「お前たちのような暴徒を前に見たことがある、無視するぞ」と大声で怒鳴り返す。と、すぐに、ダグラスめがけて、半分食べかけのメロンの皮が飛んでき、ダグラスの肩にあたったとか。むずかしい政治論議がすべての人々に理解できたとは思えないが、なにしろ人々が熱意に燃え、社会に活力があった時代なのだ。
リンカーンの挑戦を受けて立ったダグラス、いろいろ妨害にあいながらも非常に重大な発言をした。その後、「フリーポート・ドクトリン」として知られるようになる発言だが、のちにダグラスの命取りとなった。
ディベート集を読んでいると、そんな重大な発言が、スピーチをはじめてまもなくに飛び出している。ダグラスさん、ちゃんと熟考して言ったのかなあ。。頭の回転が早過ぎて、口が先に出てしまったのではないの。 It matters not what way the Supreme Court may hereafter decide as
to the abstract question whether slavery may or may not go into a Territory
under the Constitution, the people have the lawful means to introduce it or
exclude it as they please, for the reason that slavery cannot exist a day or an
hour anywhere, unless it is supported by local police regulations. Those police regulations can only be
established by the local legislature, and if the people are opposed to slavery,
they will elect representatives to that body who will by unfriendly legislation
effectually prevent the introduction of it into their midst.
(曰く、「憲法やら最高裁やら、そんなむずかしい話じゃないんだよ。要は、現実に奴隷制を維持するには、地元の警察と法律が必要だ。奴隷制に反対なら、地元の選挙で、奴隷制反対の議員を選んで、法律を作ればいいだけだよ」 地元の警察かあ。かなりの詭弁だね。。
リンカーンに指摘された矛盾を、裁判所の決定に直接挑戦することなく乗り切り、住民主権をあくまでも貫こうとするダグラス曰く、ミズーリ妥協法案は憲法違反とするドレッド・スコット判決の一部は傍論であり、拘束力はないと反論、そして準州の住民が州に昇格する前に、住民投票で奴隷制を禁止することは可能である、もし住民が奴隷制を望まないのなら、奴隷制を合法とする法律の成立を拒否する敵対的法律を制定すればいい、なぜなら奴隷制には、準州の法律にもとづいた警察の取締りが必要になるだろうから、と言ったのである。この修正版住民主権論が「フリーポート・ドクトリン」と知られるようになり、波紋を呼び始めた。
ダグラスさん、読みすぎ、玉虫色すぎて失敗したんじゃないの。奴隷制の維持には、地元の法律に警察の取締りとは、苦肉の策ですねえ。ダグラスさん、いったいどっちの味方なの、とリンカーンが追及する。一人の人間がどうやったら奴隷制に反対と賛成の両方になれるのですか、と。おお、弁のたつダグラスさん、たちすぎて絶対絶命だあ。。リンカーンのわなに見事にひっかかったのである。さらにリンカーンは、ダグラスがドレッド・スコット判決前にはこの問題は司法が取り扱うべきものだと主張していたのに、いったん判決が下ると準州議会が司法の判断を無視できると言うのはおかしい、とさらに噛み付いた。(阿川尚之 「憲法で読むアメリカ史」253ページ)
ダグラス自身は、民主党北部派である。これまでうまくいっていた民主党とホイッグ党の関係を、ネブラスカ法成立とともに共和党をたちあげたリンカーンが壊してしまった、国政を混乱に陥れたと、スピーチの後半ではリンカーンを思いっきり批判している。が、「フリーポート・ドクトリン」発言によって、民主党は明確に北部と南部に分裂しはじめた。北部のダグラス支持者たちは、奴隷制が準州に無理やり導入されることはない、と考え、南部ではドレッド・スコット判決を支持する人々が激怒した。 民主党の指導者としては、ダグラスは、どちらのグループに対しても敵対するわけにもいかず、行き場を失ってしまったのである。
ダグラスのスピーチで面白く感じられたのは、以前にもフリーポートで演説したときのことを次のように語っている場面だ。「あの時もこうやって話していると、すごく立派な馬車がやってきて、人々を遠巻きにして止まった。見ると、美しい若い女性がボックスシートに座り、馬車の中ではフレッド・ダグラスと彼女の母親が居心地よさそうに座っていた。そして馬車の持ち主が御者をしていた。そういう光景をこの君たちの町で見たのである。(「だから何なのさ」という野次) 私が言いたいのは、君たち、ブラックリパブリカンは、黒人は君たちの妻や娘たちと社会的に平等で、君たちの妻といっしょに馬車に乗り、そして君たちが御者になるということだ。確かに君たちにはそうする権利がある。今、聞いたのだが、フレッド・ダグラスの親戚が、これまた金持ちの黒人が、このあたりを旅行して、黒人のチャンピオンであるリンカーンのために応援演説をしているらしい。(それに何の文句があるんだよ、という野次) 言いたいのは、黒人が自分たちと平等で、社会的にも政治的にも法的にも同等だと考える人はそういう意見に同意する権利があるし、リンカーンに投票したらいい、ということだ」
すべて嫌味なのだろうな。たとえリンカーン支持でも、人々が持っていたに違いない黒人差別意識を明らかに煽っている。ブラック(黒)リパブリカンをブラウン(茶)と呼べるか、といった野次も飛んでいる。当時のリンカーンには、フレッド・ダグラスやオーウェン・ラブジョイなど、奴隷制廃止論者が参謀としてついていたらしい。
どうやらディベート第2戦はリンカーンの勝ちだったようである。リンカーンの演説が終わると、興奮した若い農夫が二人、リンカーンを肩にかついで、歩きはじめた。大きな人間が必死で農夫たちの頭にしがみつき、リンカーンの足は二本、二人の肩からだらりとたれさがり、しかもリンカーンがはいていたズボンはまくしあげられて、もう少しでひざのところで下着までみえそうになるという、なんともみっともない格好だった。ふ〜〜ん、昔の下着は長かったんだあ。。(笑) 次回のディベートで、ダグラスはこのリンカーンの格好をだしにしている。
町のスティーブンソン郡歴史博物館には、このデイベートの日に、ホテルで取材を受けたリンカーンが座った椅子や1860年に作られたリンカーンの顔と手型が置いてあった。 そして地下に下りると、そこにはアンダーグラウンド・レイルロードの”駅”が残されていた。
博物館は、進歩派弁護士、オスカー・テイラーのかつての邸宅だった。ディベートの前年の1857年に建てられたもので、記録には残っていないが、奴隷制廃止論者だったテイラーは、逃亡黒人をこの隠れ部屋にかくまい、安全なところに逃がしていたらしい。フリーポートには、1853年に東のシカゴからユニオン鉄道が、南からはイリノイセントラル鉄道が、そして1859年には北のミルウオーキーからミシシッピ鉄道が通っていたから、逃亡を助けるには好都合だったろう。
壁の一部をくりぬいたドアを通って、細長いれんが造りの隠れ部屋に入ってみる。突然、以前サウスダコタで、人種差別のために地下に作られたチャイナタウンに入ったときの感覚がふっとよみがえった。人の目に触れないよう、地下に押し込められねばならない人間の存在。。階上の邸内では、奴隷制廃止を目指す熱気あふれる議論がたたかわされていたに違いない。そして政治家たちは、たくみに言葉を繰って議論し、法律を作り、民を誘導する。政治家の、時にはエゴと自己称賛にあふれた言葉は記録に残るが、地下に押し込められて、必死で生きた人々の声が残ることはない。どこかが、何かがおかしい、と思う。