リンカーンの国から
(41)第1回ディベート: オタワにて
1858年8月21日
オタワでのディベートの日が近づいていた。州都スプリングフィールド。町の一番大きいチェネリーホテルで、大きな集会があった。ホテルは、政治家たちであふれている。集まった群衆の多くが、ホテルの中に入れず、通りや歩道にあふれていた。もちろん、リンカーンも、共和党の同志に囲まれて、ホテルにいた。でもリンカーンはやつれ、疲れ果てていた。友人たちは、心配していたのである。ほんとにリンカーンは、民主党の大物政治家と互角に戦えるのだろうか、と。 その頃、人々は、町でも村でも、夕方になると、家やら小さな学校に集まって、政治談議をしていた。ものすごい熱狂があたりに満ち、21日を今か今かと待っていた。21日の前夜から21日の早朝にかけて、遠方の町や村落から、代表者がオタワに到着しはじめた。シカゴからは、車両17台をつないだ列車が到着した。人々は、旗を振りながら、船や荷馬車、バギーに乗って、歩いてオタワにやってきた。
21日の朝焼けは、見事に真っ赤に輝いていた。熱い一日が始まろうとしていた。
州中部への入り口となる人口17500人の町、オタワ。イリノイ川沿いにあるこじんまりとした町である。リンカーンとダグラスの最初のディベートの場所はすぐにわかった。町の中心にあるワシントン公園である。公園には道から数本の小道が作られているが、どの小道から入っても、行き着く先は同じところに通じている。公園の中心である。そこに、リンカーンとダグラス像が立つ噴水がある。
1858年8月21日土曜日午後1時、ここに12000人近い群衆が押し寄せた。公園の一角に、木製の舞台が作られ、色鮮やかなリボンや旗で飾られている。少年たちは木の上によじのぼり、舞台を見ようとした。群衆は興奮していた。ラジオもテレビも、もちろんコンピュータもない時代である。まるでお祭り騒ぎだった。軍隊が行進し、祝砲を打ち鳴らした。通りではブラスバンドが演奏し、店は商売に忙しかった。多くの馬車が通りを行きかい、土埃が巻き起こった。旗や吹流しで飾られたフロートには、若い女の子がたくさん乗り、町の中を行列した。家から20マイルより遠くへ行ったことのなかった少年には、その騒動が、まるでローマ帝国軍の行進のように思えたとか。
予定から1時間遅れた午後2時数分すぎ、ついに群集の興奮が大きく波打った。リンカーンとダグラスが現れたのである。二人は壇上に上がる。人々が想像したこともなかった奇妙な取り合わせだった。リンカーンは背が高く、やせているのに対し、ダグラスは背が低く、がっしりとしている。リンカーンのそばに来ると、ダグラスはまるで白雪姫に仕える7人の小人の1人に見えた。リンカーンが着ている長い上着もズボンも体にあっておらず、だぶだぶで、だらりと体からたれさがっているように見えた。そのくせ、気取るかのようにシルクハットを、それもくしゃくしゃになったのをかぶっていたから、リンカーン反対派はくすくす笑っていたらしい。それに比べてダグラスのほうは、銀のボタンがついたかっこいい青の上下のスーツに、よく磨かれた黒い靴といういでたちである。お〜〜い、メアリさん、出掛けに旦那の身支度の用意をしてあげなかったの。
どう見てもダグラスは、三期目の上院議員の席を狙う、全米に知られた民主党の大物政治家である。背が低かろうと、その力強い演説は群集を魅了した。ダグラスは挑戦が大好きで、決してあとにひくことはなかった。その点リンカーンは、イリノイの外ではまったく知られていない小物も小物である。リンカーンが勝つなんて考えた人はまずいなかったろう。ただリンカーンは、明瞭かつ論理的に議論ができる卓越した演説者だった。ダグラスに勝つには、ディベートのあらゆる技術を用いなければならない。負けず嫌いのリンカーンさん、やってやるぞ、と心の中でものすごい闘志を燃やしていたに違いない。一方、ダグラスのほうもリンカーンの力を認識していた。挑戦を受けて立つのが大好きなダグラスさん、かかってこい、と下腹部に力を入れて待ち受けていたに違いない。
選挙を3ケ月後に控えて、ディベートを申し込んだのはリンカーンのほうである。50のディベートを提案した。選挙に勝ちさえすればいい、と考えていたダグラス、ディベートを50回もやって、リンカーンに注目が集まるようなことはしたくなかったので、いったんは提案を拒否した。ところが、共和党の新聞が、ダグラスは臆病者だと非難すると、考えを変えて、50回の代わりに7回のディベートなら受けると返答、しかもディベートを行う町の選択もダグラスがすることになった。自分の支持者が多い町なり村を選んだんだろうなあ。。
ディベート合戦は全米の注目を浴び、新聞記者たちは「国をあげての戦いがいよいよイリノイで始まろうとしている」と書いた。
午後2時半、まずダグラスが壇上にあがる。新聞記者たちは芯をきれいに削った鉛筆を何本も抱え、ダグラスの言葉を一言も聞き逃すまいと待ち構えていた。1人の持ち時間1時間半。それが終わると、リンカーンが受けて立ち、最後にもう一度ダグラスが30分の演説をして、ディベートを締めくくるという形である。3時間以上のディベートを記録するとなると、用意してあった鉛筆は一体何本だったことか。数日のうちに、二人の演説は全米に知れ渡ることになる。
マイクのない時代である。ダグラスがまず深い息をして、話し始めると、すぐにあたりは静まりかえった。ダグラスの太い声は広場のすみずみにまで響きわたった。ダグラスは舞台の上をところ狭しと歩き回り、群集のあらゆる方向に向かって声をかけた。自分の説を強調したいときは、舞台を力強く踏みつけ、こぶしを空中にふりあげた。時にはリンカーンに向かって、大声で正した、「なんで奴隷制を永久にアメリカ制度として受け入れられないのか。奴隷制を許す州法は、州法によってでしか絶対に廃止できないのだ!!」
人々は、ダグラスに同意するかのようにいっせいにうなづき、拍手した。ダグラスは優雅にお辞儀をして、群集の歓声に応えた。
次に受けて立ったリンカーン。ダグラスとは対照的に、その声はかん高く、金きり声に近かったそうな。演説の大事な部分のときは、低くかがみこんで、それから興奮しながら飛び上がったというから、背の高い人間の動きとしてはかなり無駄が大きいな、と思ったりもしないでもない。でもそれぐらいしなければ、人々に自分を印象づけ、売り込むことができなかったのかも。リンカーンのお辞儀はぎこちなく、ある新聞はジャックナイフをしまうときのようだ、と書いた。唐突な動きだったのだろうなあ。。お辞儀なんぞに慣れていないのである。
スピーチだから黙読より声に出したほうが分かりやすいかも、と思って、ディベート集を声に出して読んでみた。ああ、二人ともレトリシャンである。とりわけリンカーンのほうは。うっとうしいほど、くちゃくちゃとしつこい。当時の聴衆たちはこういう演説を聞いていて理解できたのだろうか。私にはさっぱりである。(悲)
まずダグラスは、リンカーンが、これまで長年民主党と仲良くしてきたホイッグ党をつぶし、民主党を分裂させる共和党の設立に関わったと、リンカーンをえんえんと攻撃している。途中、群集から長い拍手が起きると、ダグラスさん、言うことがいい、My
friends, silence will be more acceptable to me in the discussion of these
questions than applause. I desire to address myself to your judgment, your understanding,
and your consciences, and not to your passions or your enthusiasm. ふ〜〜ん、こういうことを言われると、一般大衆にしてみればやっぱり、頼れる人だなあ、となびいてしまうのだろうか。。それから、リンカーンが奴隷制廃止論者といっしょになって、黒人共和党(the
Black Republican party)を作ったと激しく攻撃している。黒人共和党なんて聞いたことないなあ。 黒人には白人と同じ権利があるとするリンカーンの主張に対し、ダグラスはI
desire to know whether Mr. Lincoln ...I desire him to answer whether he ....I
want to know whether he stands....とたたみかけるように7つの質問を提示、リンカーンに迫った。その口調といい、読んでいても気持ちがいい。やっぱりこれだけ弁が立つということが、名政治家ということなんだろうなあ。
この国の多様性を認め、奴隷制をめぐる州権と住民の自治を認める論理もさすがで、現代の多文化主義とも通じるものを感じて、そうだよな、南部に奴隷制はあってもいいよな、と、読みながらいったんは思ったものの、この国は白人によって作られた白人のための国だ、黒人は劣等な人種だ、しかし劣等だから、奴隷にしておけばいいと私は考えるわけではない、となってくると、だんだん眉をしかめているのが自分でもわかってきてー要は、ほれ、詭弁が始まろうとしているぞ、気をつけろ、という警告を心の中で感じるようになるのである。で、黒人も白人と同じ権利をもつべきだとは考えるが、それは社会の公益を考慮にいれての話だ、となってくると、あんた、何言ってんねん、と腹が立ってきた。(笑) この「社会の公益に反しない限り」で、あらゆる差別は可能になる、という論法である。
一方、防戦のリンカーンのほうは、白人と黒人の身体的特徴の違いが、"たぶん"、まったく同等となっていっしょに住むことを不可能にするだろう、と答えている。さらに、黒人は、リンカーンともダグラスとも平等ではない、その道徳的かつ知的才能において。。だが、黒人は生命、自由、そして幸福の追求する権利においてーその中には労働の対価を受け取る権利も含まれるーどの人とも平等になる、と論じた。なにやら必死で中道派を模索しているようで、どこかに本音を隠してるような気分がどうしても漂ってくる。
リンカーンはダグラスのことをJudgeと呼び、I know the Judge is a great man, while I am only a
small man といいながらも、but I feel that I have got himとすぐに言ってのける自信。まあ、自信とはったりが言えなかったら、政治家なんてなれないよな。。ダグラスが実績のある大物政治家であることを十二分に意識して、いかに彼の言説が大衆の目を曇らせる力をもっているかを説いているかのようなリンカーン。ダグラスは、「Thus
saith the Lord」を言うことで、自分の演説に権威を与えて、真実をごまかしてしまう、とまで言ってのけているから、リンカーンもいい根性をしている。
その上で、連邦最高裁のドレッド・スコット判断に触れて、ダグラスをI cannot shake Judge Douglas's teeth loose
from the Dred Scott decision. Like
some obstinate animal (I mean no disrespect?ふん、このあたりが芸達者だあ) that will hang on
when he has once got his teeth fixed. you may cut off a leg, or you may tear
away an arm, still he will not relax his hold. と、ダグラスを頑固で手に負えない動物にたとえて、獲物に食いついた描写を鮮やかにーさすがあ、フロンティア生活育ちである、よかったね、経験は絶対に無駄にならないのであるー、かつダグラスの論は国を独立戦争時代まで退化させるものだと批判している。お疲れさん、リンカーンさん、気持ちはわかるんだけどね、ちょっと気負いすぎかな。。英語がわからぬまま、まるで自分がリンカーンとダグラスになった気分で声に出して読んだけど、第一ラウンドはダグラスさんの勝ちかなあ。。。
民主党の新聞は、ダグラスは、群衆を見て、電光に打たれたようになっていたが、リンカーンは困ったような感じだった、と書き、共和党の新聞はまったく反対のことを書いた。シカゴタイムスはダグラスびいきだった。群衆の3分の2がダグラスを取り囲み、ホテルの部屋まで送っていった、と書く一方、リンカーンは、だらしなく口をあけ、負けたことは明らかで、これ以上、ダグラスに会う必要はない、とまで書いた。かと思えば、ニューヨークトリビューンは、リンカーンのほうが有利だと書いた。いつの世も、メディアなんて、当てにならない。(笑)
ディベートが終わると、人々は二人の候補者を肩にのせて、オタワの町を歩き回った。まるでお神輿である。数時間後、二人はホテルに戻った。リンカーン、選挙参謀にディベートの出来を聞いたらしい。反応はあんまりよくなかったとか。う〜〜ん、私の感想もあんまり的はずれでなかったのかも。(笑) 参謀たちはもっと攻撃的になれ、とアドバイスをしたらしく、リンカーンは同意。私にしてみれば、攻撃的に、というよりはあんまり飾るな、って感じである。飾りすぎて、重要な論点が見えなくなっているような気がする。翌日、リンカーンは新聞記者に答えて、明らかにほっとした様子で、「ダグラスと私は、きのう初めてここで剣を交わしたわけだけど、火花が散って、まだ自分が生きてるのがうれしい。。」と答えている。改めて、お疲れさま、である。