リンカーンの国から

 

(47)第6回ディベート:クインシーにて  

1856年10月13日

 

 

 

Text Box:  イリノイ中部クインシー。ミシシッピ河に面した人口四万二千五百人の町である。ディベートがあった7つの町のうち、一番大きな町だ。1830年代に、土地の安さに惹かれて、南部ケンタッキーと東部ニューイングランドから入植者がやってきて、ミシシッピ河を越えて西に向かうパイオニアたちで賑わう街となった。蒸気船がはいってこられる深いミシシッピ河が町の発展に大きく貢献、1853年までには大きな港町となり、1856年には年間3000もの蒸気船がやってきて、外国の品物を荷揚げし、イリノイの農産物を運び出していった。

 

クインシーは、もともとダグラスの地元である。27歳だったダグラスが、1841年にイリノイ最高裁判事と、クインシーに本部があった第五巡回裁判所の判事に任命されて、以後6年間、クインシーに住んでいたのである。1846年、イリノイ州議会がダグラスを連邦上院議員に選んだため、ダグラスはクインシーを離れ、シカゴに移った。というわけで、もともと民主党の地盤だが、ダグラスがクインシーを離れて12年、圧倒的に民主党が強いというわけでもなく、ちょうど州の中部ということで、共和・民主両党がしのぎを削る激戦地となった。

 

Text Box:  ディベートの日までに、雨が16日間も降り続き、道はぬかるんでいた。ダグラスは、ディベート前夜、イリノイセントラル鉄道の一番最後の車両に積まれた大砲の音とともに到着。クインシーの民主党員たちは彼を大歓迎した。たいまつに火をともし、垂れ幕を掲げて、バンドやグリークラブとともに、ダウンタウンで2マイルにも及ぶパレードを行った。ダグラスが支援者から解放されたのは真夜中をすぎてからである。 一方リンカーンはディベート当日の水曜日の朝、マコムからの列車を降り立ち、女性たちの合唱やら大砲の音で迎えられた。ディベートが始まるまで友達のところで少し休むつもりだったが、友人宅での昼食時間まで、共和党員たちとともにパレードに駆り出された。

 

風の強い肌寒い日だった。が、ミシシッピ河を渡れば、すぐに奴隷州のミズーリという土地柄である。ミズーリ州のハンニバルやアイオワから蒸気船に乗って、1万人ほどの人が集まってきた。二人が奴隷制をどう論じるか、興味しんしんだったに違いない。クインシーの人間は基本的に奴隷制を嫌い、時にはアンダーグラウンド・レールロードで奴隷を逃がしてやったりしていた。アンダーグラウンド・レールロードの"駅"を提供していたイールス博士を裁き、有罪にした人間がダグラスである。

 

Text Box:  10月13日午後、アダムス郡裁判所の前、今はこじんまりとした公園になっている町の広場に、大きな松の木で演壇が作られた。壇上にはリンカーンとダグラスの支援者が座っている。演壇の前には数千人が集まり、共和党員も民主党員も仲良く、時折陽気にからかいあいながら、ディベートの開始を待っていた。ところが、演壇の手すりと、数人の女性たちが座っていたベンチが、重みからか壊れるというハプニングが起きる。ディベートの開始は遅れたが、それでも人々は辛抱強く待っていた。 

 

やっとダグラスとリンカーンの二人が登場すると、大歓声の渦。 壇上に立った二人は、激しいコントラストを見せた。リンカーンの背の高い、やせた、不恰好な身体の横で、背が低いダグラスはほとんど小人のように見える。が、四角い肩と広い胸、太い首の上の頭は大きく、身体から力がみなぎっていた。ぴったりと身にあった、輝くリネンの服を着たダグラスが、戦闘態勢にあるのは誰の目にも明らかだったが、よく見ると、顔が少し膨れていた。どうやら旅の途中か、クインシーに着いた昨晩か、お供の人間とかなりの量の酒を飲んだらしい。つまり二日酔いだったのである。まあ、気持ちが分からぬわけでもない。前回の、リンカーンの地盤であるゲールスバーグでのディベートから1週間も経っていないのである。毎週のように、同じ人間と顔をつきあわせ、同じ議論を繰り返して、それも「負けられない」というプレッシャーとともに、相手に揚げ足をとられぬように、でも自分は相手の揚げ足をとりながら、多くの人の前で、1時間半ものあいだしゃべり続けるのは、好きでやってる政治家とはいえ疲れるだろうなあ。(笑)ダグラスの鋭い目のあいだにできたしわは、まっすぐ横に深く刻まれ、顔は異常に暗かった。どうやらダグラスさん、その日はかなり機嫌が悪かったらしい。

 

Text Box:  待ちに待った演説はリンカーンから始まった。声は高く、興奮すると震える。が、論戦にはもうそれほど目新しいことはなくなっていた。議論はもう出尽くしていたのである。リンカーンは、議論の根本に、道徳問題をさらにはっきりと打ち出すようになった。奴隷制は、道徳的、社会的、政治的に間違っており、それが全国に広がっていくのは悪魔の考えである、共和党は絶対反対すると明確に主張、奴隷制を全国的なものにするのがダグラスの策略だと批難したのである。

演説の最後のほうで、リンカーンは次のように言っている、「ダグラスは、奴隷も馬も豚も同じ平等な私有財産という大前提のもと、3つとも全部新しい領土に持っていってもいいというのなら、それは、奴隷と馬と豚のあいだには何の違いもないということになる。が、果たして何の違いもないのだろうか。」 奴隷と馬と豚がまったく同じとは、さすがのダグラスさんとて、なかなか言えなかったのでは。。でも、敵に何を言われても、明言して答えないのが政治家の政治家たるゆえんだろう。(笑) リンカーンの演説は熱がこもり、誠実な気持ちと力が感じられた。たとえダグラスを風刺もしくは毒舌で攻撃するときも、もしそれが他の演説者の言葉であれば、非常に手厳しく、残酷に聞こえたかもしれないが、リンカーンの話しぶりには、聞いているものの耳に、彼が言いたくて言っているのではない、しかたなしに言っているのだ、敵というよりは友達になりたいのだ、と思わせる優しさ、共感があったという。と同時に、議論は非常に明晰で、論理的であり、力強かった。後ろでリンカーンの演説を聞いていたダグラス、ときどき口元にバカにしたような笑みが浮かべていたという。

 

Text Box:  「奴隷制はいつか終わらせねばならない」という言葉で、リンカーンが演説を終えると、ダグラスが続いて立ち上がった。リンカーンとの違いは明白だった。リンカーンが謙虚だったのに対し、ダグラスといえば、際限なきうぬぼれの固まりのようだった。長年、連邦上院で弁舌を鍛えてきたのだから、当然といえば当然だろう。ダグラスは、自分が圧倒的に優位な立場にあるという雰囲気を漂わせて、長い髪を揺さぶり、脅かすような挑戦的態度で、あたかも「誰が私に反抗できるか」と言わんばかりに、話を始めた。太いバリトンの声は荒々しく、時にはなにやら吠えているようだった。口を開いた最初から怒ったような口調で、態度は尊大で、非常に横柄に見えた。

まず、ねちねちとじっくり「リンカーンは、あの時、こういった、この時こういった」とリンカーンを責めながら、まゆをしかめて、荒れ狂ったように頭を振り、にぎりこぶしを作り、足を打ち鳴らす。自分で自分に酔い、自分を追いこんでいるのだろうか。ダグラスには、相手のどんな言葉も攻撃的に聞こえるらしい。たとえそれほど攻撃的ではなくとも、まるでそれが自分への侮辱でもあるかのように引用して、相手を責める。しかし、その言葉は非常によく計算されて並べられ、彼の論点は鋭く強調され、議論は明瞭でまことしやか、流暢な弁舌は、ぼおっとして何も考えていない聴衆の頭には、問題の核心をついているように聞こえた。

「奴隷と馬と豚」を比べたリンカーンに対し、ダグラスは、「1万ドルの価値の奴隷と1万ドルの酒と1万ドルの干物」を持ち出し、行く先々でこれらを売ろうとしたら、違った販売許可が要求されるのは当然だろう、と打ってでた。三者の存在の意味を問うたリンカーンに対し、三者の経済価値で応戦したダグラス。頭いいねえ。。(笑) ダグラスは、プレゼンテーションのあらゆるトリックを使って、こざかしく、それでいて洗練された雰囲気で聴衆を"煽動"、身体をくねらせ、後ろを振り返ったと思えば、ひらりと身をかわしながら、エネルギッシュな毒舌を次から次へと繰り出した。ダグラスのパフォーマンスが気にいった人々は、演説が終わると怒号のような拍手を送った。ダグラスの詭弁が理解できる人間は、ダグラスに深い嫌悪感に感じたが、それでも、次は何を言い出すだろうという好奇心からは逃れられなかったという。

 

Text Box:  ダグラスの論点はあくまでも、連邦政府は州や準州の奴隷問題には干渉しない、準州が州に昇格できる前に州憲法を提出、制定できる、奴隷制を認める州憲法を作るかどうかは、住民次第である、州は他州の政治に首をつっこまない、そうすれば、我々の建国の父たちがしたように、自由州と奴隷州に分かれたまま、この国は永遠に、そして平和に存在することができる、というものである。

 

ダグラスの「永遠に存在できる」を、「待ってました」とばかりに受けて立ったのが、リンカーンである。ダグラスの演説後、リンカーンの30分の締めの演説が始まった。この最後の30分で空気が完全に変わってしまったとか。

 

リンカーンは、奴隷制の道徳性については言及せず、あくまでも、法の遵守の問題として片付けようとするダグラスに、奴隷制は善か悪か、を何とかして言わせたい。彼はダグラスの議論に巧みに鋭く応答した。「ダグラス判事は、建国の父たちが、国を半分奴隷州、半分自由州に"した(made)"というけれど、そうではない。父たちは、そういう状況にあるのを見出しただけだ。彼らは、当時、どのようにして奴隷制を廃止したらいいか分からなかったから、そのままにしたのだ。奴隷貿易を禁じ、まだ存在しない領土への奴隷の持ちこみを制限したとき、彼らはいつか奴隷制がなくなることを考えていたはずだ。もしダグラス判事が、なぜ私が建国の父がしたままに"継続continueできない"のか、と聞くならば、私は判事に尋ねよう、どうして判事とその仲間は、建国の父が考えたように"そのまま残せないlet it remain”のか」と。 

 

Text Box:  国を奴隷州と自由州の半分ずつという状況を”継続”することと、奴隷貿易を禁じてまで、建国の父たちが考えた原理原則を”そのまま残す”の対立である。そして、駄目押しは、リンカーンの次の言葉だったと私は思う、「綿繰り機が発明されたからだ、判事は、建国の父たちが考えた原理原則を廃棄して、綿繰り機を原理原則にしたのだ」

綿繰り機がディベートに出てきたのは、これが最初ではないだろうか。やっぱりね、経済問題が顔を出すと、もう誰もリンカーンには勝てない、とそんな気がする。小さい時に父親に、他人の家に働きに出され、賃金は父親にとりあげられてしまう、という”奴隷”の経験をしたリンカーンが、「黒人にも、自分の手で稼いだパンは他の人に渡すことなく、自分で食べる権利がある、それは自分もダグラスも、そして他のみんなも同様だ」と主張するとき、小さい時に悔しい思いをした体がうずくに違いない。目の前にいる聴衆にそう語りかけながら、頭の中では、父親のことを考えていたかも知れぬ。

 

ダグラスが主張する法の遵守についても、次のように切り返している、「ドレッド・スコット判決が出て、裁判所がスコットを奴隷だと判断しても、スコットの所有主は彼を自由にしたではないか。自由か自由ではないかは、判決とは関係ないんだよ。スコットの所有主が民主党員だったか、奴隷解放論者だったか、自由土地党員だったのか、なんて尋ねはしないけどね。。」

リンカーンがユーモラスに、時には風変わりでもウイットに富んだ表現で何度もうまく切り返し、しかもその言葉がすべて、個人的な損得勘定からはほど遠い、あまりにも純な気持ちから出ているものだから、聞いている人々は、それも反対派の人々も非常に喜び、大笑いした。その様子に、壇上のダグラスの顔は、ますますしかめっつらになって、暗く落ち込んでいった。自己保身のエゴやらプライドやらで、もう疲れきっていたのだろう。「勝つと思うな、思えば負けよ」である。(笑)

 

ダグラスは自己保身のためだけに懸命にパフォーマンスしているのはみえみえだった。長年、連邦上院議員を務めあげた人間にとって、自己保身以外、今更何が望めよう。一方、リンカーンはイリノイでは長老格でも、連邦レベルでは、下院議員を一年務めただけの新人駆け出しである。新進政治家は、自分の問題には興味がなかった。それよりも、広大な思想を、理想をディベートで代弁した。そして人々は、その思想の広大さに飲み込まれていった。 リンカーンは、正直に、党の弱点をすべて認めた。その正直さがむしろ人々に確信を与えた。弱点を素直に認めることで、リンカーンはますます有利になった。 リンカーンは、大衆は"平均値"を正しくみきわめるだけの知性があると知っていた。大衆を赤ん坊扱いにするのではなく、信じていた。 だから、ダグラスのように、自分は何でも知っていると広言しはしなかった。現代でいうところの世論調査がその時代と人心をうまく反映しているといったところだろうか。聴衆はダグラスを賞賛はしたが、尊敬し信じたのはリンカーンのほうだった。

 

無事にディベートが終わると、二人はみんなに拍手され、集会は平和裡に終わった。両派のブラスバンドが再び演奏をはじめたものの、音がぶつかりあって音楽にはならず、不協和音がえんえんと続く中、人々は満足げに帰途に着いた。ああ、面白かった、とわいわい言っていたに違いない。アメリカの選挙運動は面白い。。。それは現代も変わらない。