リンカーンの国から

 

(29)ドレッド・スコット判決

 

 

Text Box:  イリノイに来て間もないころ、ミズーリ州セントルイスに旅した。シカゴから車で約5時間ほどのところである。近い。そのセントルイスのダウンタウンのど真ん中に、観光名所の一つ、旧州議事堂がある。裁判所も兼ねていた。別にとりたてて変わったところでもなく、退屈しのぎにぶらぶら歩き回っていたら、配偶者がぼそっとつぶやいた。その時漂った言葉の重みが今だに脳裏から離れない。「そうかあ、ここかあ。。」そんなに感慨深げに言われても、何がそんなに大事なのか。。。あの時、私はただ怪訝に思って首を傾げていた。あれから8年、今、私もつぶやこう、「ああ、そうかあ、あそこだったんだあ。。」

 ホールの壁には、よく見かけるアフリカ系男性の絵がかかっていた。その時の私は、ふん、っText Box:  て感じだった。ドレッド・スコットである。

 ドレッド・スコット、1795年あたり、バージニア生まれ。ピーター・ブローの所有物、つまり奴隷として生まれた。1830年、スコットとブロー一家はセントルイスに移ったが、経済的にいきづまり、1833年、ブローはスコットを陸軍の医者だったジョン・エマーソンに売る。以後スコットは、駐屯地がよく変わるエマーソンと行動をともにするようになる。自由州のイリノイやウイスコンシン・テリトリーの駐屯地に長く滞在、のちに、自分が自由の身であることを主張する法的根拠としたが、当時のスコットは、自由を主張しようとはしなかった。たぶん、自分の権利を知らなかったか、それとも報復を恐れたのだろう。

 2年後、エマーソンは南部に"転勤"になった。最初はセントルイス、1837年にはルイジアナへ。そのあいだ、エマーソンはスコットたちを第3者に貸し出した。が、それは、北部自由州では違法行為だった。奴隷制が認められていなかったからである。

 そのうち、スコットはハリエット・ロビンソンと結婚(奴隷の結婚は南部では許されていなかった)、エマーソンはイレーヌ・サンフォードと結婚、そしてミネソタにいたスコット夫婦を呼び寄せた。二人は長旅ののち、ミシシッピ河を下って主人のエマーソンに合流する。なにやら日本の武士世界のようで、「家臣の忠誠」とはこういうことか、と驚きである。逃げたらいいのに。。。と、戦後の「自由と平等尊重」教育を受けた人間はつぶやく。この旅行中に、スコットに最初の子供、イライザ・スコットが生まれている。

 二組の夫婦は1842年にミズーリに戻ってきたが、翌1843年にエマーソンが40歳で死亡、未亡人の弟、ニューヨークに住むジョン・サンフォードがエマーソンの財産管理人となり、未亡人がスコットを別の軍のキャプテンに貸し出してからもめはじめた。

Text Box:   もうこれまでのご主人さまがいなくなったのだから、と、スコットは自分と妻の自由を求めたのだろう。最初は、セントルイスに住む未亡人から300ドルで自由を買い取ろうとしたが、拒否される。そこで、1846年4月、裁判所に訴え出た。彼の主張は、奴隷制が違法だった自由州や自由準州にいたのだから、法的にはすでに自由なのであり、以後奴隷に逆戻りさせられることはないというものだった。つまり、奴隷が自由州にいるときの「自由」について問題提起したのである。

 裁判は、1847年6月にセントルイスの州裁判所で始まり、一番最初の所有主、ブローファミリーがスコットの裁判費用を負担した。しかしスコットは技術論で負けた。つまり、自分と妻が、未亡人の所有だったということが証明できなかったのである。ということは、ブローがエマーソンにスコットを売ったときの書類がなかったということだろうか。所有者が分からなくては自由は与えられないというわけである。それでも判事は、書類がなくても伝聞が証拠として認められるようになったことを理由に、次の裁判を認めた。

 翌1848年、ミズーリ州最高裁は裁判を差し戻したので、1850年、巡回裁判所の陪審員たちは「一度自由州に連れてこられて、自由になったのなら、そのままずっと自由」というミズーリ州の判例のもと、スコットと妻ハリエットは自由と判断した。ところが2年後、未亡人側が控訴する。すると、ミズーリの州最高裁は下級審を覆し、スコットは奴隷のままだとした。これでは判例の一貫性に欠けるとして、スコットと弁護士たちはミズーリを管轄する連邦巡回裁判所に訴えをもちこむ。

 とりあえずは、サンフォードの虐待と不当拘禁を理由に、弁償金9000ドル要求と出た。あくまでも自由を手にいれるための戦略である。サンフォード側は金銭目当てでこの訴えを受けてたった。最初の裁判時から、スコットたちは外に貸し出されていることになっていて、その"賃金"の合計が勝者に与えられることになっていたのである。ああ、人間の欲望とは。。。自由になりたいという人間の自然な気持ちへの共感など、欲望の前では簡単に凌駕される。。スコットは、最初のオーナー、ピーター・ブローの家族、ジョン・ブローや、ピーター・ブローの義理の弟で、奴隷制廃止論者のチャールズ・ラボーに借り出されていることにして、連邦裁で戦っていた。

Text Box:   連邦裁はまず、この案件を聞く権限があるかどうかを決定しなければならなかった。スコットは自分はミズーリの市民であるといい、被告はニューヨークの市民だから、違った州の市民がお互いを訴えることを許可する権限を連邦裁が持っているかどうかが問われたのである。ところがサンドフォードは、スコットは黒人だから、ミズーリの市民ではない、連邦裁は権限を持たないと主張、が、裁判官はスコットの主張を支持、裁判が始まった。

 1854年5月、連邦巡回裁判所の裁判官は陪審員たちに、ミズーリ法でスコットの立場を決めるように命令、その結果、ミズーリ州最高裁がすでにスコットは奴隷と決定しているし、イリノイにいたときに自分たちは自由だと主張しようとはしなかったという理由で、サンドフォードに軍配が上がる。

 そこでスコットたちは、1854年12月、連邦最高裁に控訴。もうこうなってくると、泥沼化した戦争と同じで、メンツと意地の張り合いである。連邦巡回裁判所のウェルズ裁判官が、スコットは自由に値しないと陪審員を"洗脳"したのは間違っているという訴えである。次の裁判が始まる1年ほどのあいだに、国の知性が総動員されたに違いない。連邦巡回裁判所はこの裁判を聞く権限があるのかどうか、あるなら、これまでの判断は間違いなのか、などなど、リーガルマインドとは縁のないど素人の頭には、難癖をつける理由はきりがない、ぐらいにしか思えないプロセスである。

 1856年2月11日から、19世紀には珍しく、普通は1、2日のところを4日間にわたる弁論が始まった。弁論のポイントは、黒人はアメリカ市民になれるのか否か、連邦政府は準州で奴隷制を違法とできるのか否か、ミズーリ妥協は合憲かどうか、といった点が争われた。1856年12月には、この裁判は全米に知られるようになり、憲法弁護士、ジョージ・カーチス(最高裁判事ベンジャミン・カーチスの兄弟)が弁論に加わり、スコット側についた。

 そして、ついに1857年3月6日、主裁判官のロジャー・テイニーは次のような判断を下した。カーチス以外の7人の判事全員が同意した判決である。

 

1 アメリカ憲法によると、自由であろうと奴隷であろうと、アフリカ黒人の血をひくものはアメリカ市民ではないーよって、原告は裁判を起こす能力をもっていない。

2 1787年の法では、ノースウエストテリトリーの黒人に、自由もしくは市民権を授与することはできなかった。

3 自由の土地を作りだした1820年のミズーリ妥協法は憲法違反である。妥協法がルイジアナ購入で手にいれた北部地域で奴隷制を禁止し、黒人に自由や市民権を与える権限をもつとするなら、それは議会を超える力をもっていることになるからである。議会は、連邦の土地で奴隷制を廃止する権限をもたない。

 

 つまり、北部が自由州とされることは、奴隷問題には何の意味もない、と言ってのけたのである。そりゃ、北部は怒るでしょ。。。連邦裁は、奴隷が北部州に足を踏み入れたら自由なのかどうかについては明言しようとはしなかった。黒人は市民じゃない、だからもともと裁判はできないー1846年から始まって、なんと11年もかかった裁判で、こんな判決が出るのなら、今までの時間とエネルギーと人生は何だったのよ。。。関係者の怒りがいかほどだったかーそのくらいは、ド素人でも想像できるというものである。

 反対意見としては、1 スコットがミズーリ州民でないからスコットの案件を聞く権限を連邦裁はもたないというのなら、どうして訴えを単に棄却しないのか、判断を下す必要はない、ミズーリ妥協を云々する判決の残りは不必要なものであり、裁判所の権限をこえる無効なものだ 2 黒人が市民になれないという主張には、憲法上の裏付けがあるのか、といったものが出されている。こうなると、すべて法解釈の技術論に終始し、ドレッド・スコットさんの人生なんて吹っ飛んでしまっている。だから裁判は嫌いである。歴史家たちは、この判決が南北戦争を導いた有力な要素の一つと考える。当然だろう。

 判決は、奴隷制が現状維持されるのなら我慢しようとしていた北部の人間にショックを与えた。このままなら、北部で奴隷所有主と奴隷たちが闊歩するようになるのではないか。南部の"slave power"を政治的に恐れる共和党はさらに強く結束、躍進し、民主党は分裂した。

 ミズーリ妥協の無効を模索していた民主党南部サイドは判決を歓迎したが、スティーブン・ダグラスのような民主党北部サイドはむずかしい立場に追い込まれた。住民自治を旗頭にして、1854年のカンサスーネブラスカ法を支持していたからである。たとえ連邦議会が新しい領土への奴隷制の拡大を禁じられなくとも、住民自治で禁止できるとしたのがミソだったのである。ところが、このドレッド・スコット判決は、その可能性を絶ってしまった。

 多くの北部の奴隷制反対論者が、判決を効力あるものとして認めることを拒否する法的論議を展開すると、民主党は、共和党を無法な反逆者だと批難した。連邦最高裁の決定を国の法として受け入れようとはしないことで、国の分裂を煽っているとしたのである。一方、南部過激派は、奴隷を所有し、どこにでもつれていきたいところに連れていく権利を制限するものは憲法違反であるとし、民主党や国を分裂させることになんの躊躇もなくなっていた。 

 そして当のスコットさんたち。判決のあと、未亡人の財産として、未亡人のもとに戻ったが、1857年に再婚した未亡人、再婚相手が奴隷制に反対だったそうで、なんとスコットをブロー家に戻しているのである。へえ、過去10年以上、金銭欲は丸出しにしたくせに、再婚相手の「愛」とやらは失いがたく、お金より大事というわけだろうか。スコットの最初のオーナー、ピーター・ブローの息子たちが、1857年5月26日、スコットの自由を買って、解放した。そして、やっと自由になれたスコットさんだが、翌1858年9月17日、結核で死亡、人生を賭けたセントルイスに埋められた。ところが、なぜだか妻のハリエットは、ミズーリ州ヒルスデールに埋められている。ヒルスデールは娘リジーが住む町だった。人生最後は平凡で心穏やかな時間を過ごしたかったのではあるまいか。

 リンカーンは、スコットが自由になったあとの1857年6月26日、スプリングフィールドの下院で、ドレッド・スコット判決反対表明をした。