イリノイこぼれ話
LOVEの檻
このごろよく思うのです。LOVEが巷に氾濫しすぎだ、と。これも私が年をとった証拠でしょうか(笑)
LOVEの日本語訳は一応「愛」ですよね。でも、大学で日本語を教えてらっしゃる方から聞いたことがあります、「愛」って日本語じゃない、と。そうなんだあ。で、世俗にまみれた私は考えるのです、「愛」って、神様とのコミュニケーションに使われる言葉ですよね、神様の愛って。じゃ、なあんで、神様(へ)の気持ちを表す崇高な言葉を、人は、垢なり埃なりにまみれた世間の人間関係に使いたがるのかなあ、と。ドラマの主人公たちのように、「“愛”してるよ」−人はそう言いたがり、聞きたがる。でも、神との対話で使われる言葉を日常生活で使ったら、それって犯罪行為、つまりストーカーの気持ちじゃないのかなあ(笑)人は、それだけの覚悟をして、その言葉を使うのでしょうか。
少なくとも思晩秋期の私には、言葉では言い尽くせないはずの、他人には聞こえない、ましてや絶対に目に見えることはないLOVEが、「愛」という見える、聞こえる文字となって世間を飛び交い、勝手な世俗的幻想をまき散らしてしまったがために、案外人は、寂しい思いをしてるんじゃないの、という思いがあります。
それを全身が身震いするかのように感じたのが、このガラス張りのおうちを訪ねたときでした。シカゴの南西、フォックス川沿いの小さな村、プレーノにあるFarnsworth Houseです。
ナチスから逃れて、シカゴにやってきたドイツの著名な建築家、Ludwig Mies van der Roheが、1945年から6年がかりで、シカゴで医者として成功していた独身女性、Dr. Edith Farnsworthのために建てた週末用の別荘です。
広大な敷地に芽吹いた新緑の木々のあいだ、フォックス川の流れのほとりに、そのおうちはひそやかに建っていました。中に入ってびっくり。家の中に仕切りはありません。大きな一つの空間を、最小限度のモダンな家具で仕切ってあるだけ。そして、床から高い天井まで、建物の壁がすべて大きなガラス。
日々の煩雑な営みから解き放たれた広い空間が、ガラスの向こう側と一体感でつながると、心は、もっともっと自由に、と貪欲に外に向かって解き放たれ、自らの姿は、四方を取り囲むみずみずしい自然の中に消えていくようです。ああ、この開放感と安堵感は何物にも代え難し、と思うことしばし。。と、ふとなにげなく襲ってきた窒息感で目がさめました。
家の中で外気に触れられるのは、ベッドがおいてある一角のガラス壁の片隅に作られた小さな窓二つだけです。ガラスの向こうの“あなた”に思わず一体感はもってしまったけれど、近づきたい、とどんなに手をのばしても、見えない壁―ガラスがそこに厳然とある。ああ、そばにいるようで、でも絶対に近づけない。ねえ、これって、これがLOVEじゃないの。
当時59歳だった建築家ミーズバンダローと40代だったエディスさんは、一時ロマンスが噂されたとか。でも最後は建築費用のことでおおもめにもめて、結局二人は憎悪とともにけんか別れになったとか。
ミーズバンダローは、ガラスの家で独身女性が隠したいプライバシーなんて、どうせ寝巻き姿ぐらいだろ、なんて考えていたというではありませんか。おお、なんというセクシスト。。一方、キャリアウーマンのエディスさんのほうは、カップル社会では独身は肩身が狭い、と、週末は一人のわが身をもてあましていたそうな。そんなストレスやシカゴの喧騒を逃れて、いやあらしいセクシストがかけがえもなくLOVEしたはずのこの「家」で、1人静かな週末を過ごしたエディスさん。もしかしたらセクシストが「家」に吹き込んだLOVEを胸いっぱい吸い込んで、彼女はLOVEと“「愛」の夢”のはざまでさまよう鬱々とした思いをガラスの壁に描いたかも知れない。
LOVEの檻―どんなに望んでも決して触れることのできないガラスの檻。ああ、なんと残酷な家でしょうか。でも、限りなく透明なまでに美しい。エディスさんはそんな美しくも残酷な檻を20年いつくしんだ。
私ですか。LOVEより団子ですね。(笑)