リンカーンの国から

 

(46) 第5回ディベート: ゲールスバーグにて

1858年10月7日

 

 

Text Box:  ゲールスバーグ。東部ニューヨークの牧師ジョージ・ゲールが、単純労働者のためのカレッジを作りたいと、教会関係者25人とやってきて1836年に作った、イリノイ州西部にある町である。鉄道線路が縦横に町の中を走り、その上を、カリフォルニアに向かう列車やらテキサスに向かう列車、そして石炭を載せた黒々とした貨物列車が通過する鉄道交通の要となっている。詩人カール・サンドバーグを生んだ労働者階級の町である。現在の人口は約3万3千人。町を作った翌1837年には、州はノックスカレッジの設立を認めた。カレッジは奴隷を逃亡させるアンダーグラウンドレールロードの"駅"となる。共和党の牙城のような土地柄で、ノックスカレッジはリンカーンの支持母体のようなものである。

 

1860年の大統領選を戦っていたリンカーンは、遊説中に、ノックスカレッジから人生最初で最後の"学校の書類"を受け取った。カレッジが、カレッジ史上ーといっても23年ぽっちだなあ〔笑)−初めての名誉博士号を授与したのである。カレッジの理事たちは、"名誉博士"となったリンカーンに、「これでもうあなたは"学者"でもあるわけですから、そのつもりで振舞いに気をつけてください」と手紙に書いたそうな。当時の人にとっても、それもリベラルで知られるノックスカレッジの関係者にとっても、やはりリンカーンの出自は眉をしかめるものだったのだろうか。

 

Text Box:  リンカーンが"博士"となる二年前のノックスカレッジで、第5回のディベートが行われた。1858年10月7日木曜日、非常に風が強く、寒い日だった。前日は大雨だったし、その夜は突然強風が吹き荒れたというのに、各地から15000人から20000人の人々がキャンパスに集まってきた。7回のディベートシリーズで一番聴衆が集まり、ディベートの最高潮を迎えていた。 旗やバナーがひきさかれ、吹っ飛んでいくような北西の強風が吹く中、人々はコートのボタンをしっかりしめあげ、コートを忘れた人は骨まで凍みる風の冷たさに身震いし、じっとはしていられず、立ったり座ったりしながら3時間の舌戦を聞いた。"Knox College goes for Lincoln" "Abe Lincoln, the Champion of Freedom"という旗がひるがえる中、ディベートの口火を切ったのは、居心地の悪さは感じながらも、敵陣にいるからこそ奮いたつものがあったに違いないダグラスである。

 

ダグラスは、静寂をお願いしたい、で話を始めた。そして、リンカーン攻撃を始めたが、論点は、すでにこれまでのディベートで語られてきたのとほぼ同じである。 まず、リンカーンと共和党が州の北部では、ラブジョイやらギャリソンみたいに奴隷制廃止論者のような物言いをし、南部へ行けば、師匠のヘンリー・クレーのような古いホイッグの体質を見せるのは、リンカーン自身の言葉 "a house divided against itself which cannot stand"に反している、次に、リンカーンが言うところの人種的平等に反対し、独立宣言を書いたジェファーソンだって奴隷をもっていた、そのときに彼が、奴隷たちの平等を考え、神の法を自分が犯していると毎日考えていたとでもいうのか、独立宣言が書かれたとき、13州は全部奴隷州だったのであり、書いた誰一人だって、奴隷を解放しなかったし、平等には扱わなかった、この国は白人を基礎に作られたのであり、憲法下では黒人は市民じゃないし、市民になれないし、市民になれるべきではないと考えると白人優位説を固執、その一方で、黒人が奴隷でなければならないと考えるわけではないと一応譲歩もして、たとえ劣等人種である黒人が、憲法が保障するすべての権利、特典、特権をもっているとしても、その履行は社会の安全を侵さない限りでなければならず、またそれは州が自分たちで決めることだと州権を主張、そしてリンカーンがドレッド・スコット判決を批判することを受けて、最高裁の判決は絶対に尊重されねばならない、最高裁に挑戦するリンカーンは間違っている、と演説したのだった。

 

Text Box:  一方、受けて立ったリンカーンは、最初は防衛に出ていたが、最後のほうでは調子をあげて、最高の論戦を張った。奴隷制の道徳的な部分を強調しはじめたのである。you will see at once that this is perfectly logical, if you do not admit that slavery is wrong.  If you do admit it is wrong, Judge Douglas cannot logically say he don't care whether a wrong is voted up or down. つまり、ダグラスが奴隷制を間違っているものと考えないのなら、それでもいいけれど、間違っていると思うのなら、悪である奴隷制を州権に任せ、州の選挙で肯定されようが否定されようが気にしないというのはおかしい、と反論した。「私は、 奴隷制は道徳的、社会的、政治的な悪魔と考える、ダグラスは奴隷制を全米に広げようとしている、ダグラスは第2回のフリーポートでのディベートで、最初に奴隷制を禁止しなかったら、新しい領土の獲得に反対するのか、と私に尋ねたが、私は新領土の獲得に反対するわけではない、が、今度は私がダグラスに尋ねよう、あなたは奴隷制の問題がいかに私たちの生活に影響を及ぼすかを考えることなく、ただ新領土を獲得することだけに賛成するのか。奴隷制は非常に重要な問題であり、我々が絶対に考えねばならないことだ。」

 

以後、共和党は、奴隷制を間違っているものと見なし、その路線を維持したが、民主党は、奴隷制が正しいとも間違っているとも明確にはしようとはしなかった。やっぱりこのあたりが、歴史を長い目で見たときの勝負の分かれ目だったのかも知れない。憲法解釈論争では、リンカーンは、憲法のどこにも、奴隷を所有主の財産とするという記述はないと反論したが、リーガルマインドを持ち合わせず、憲法を読んだことのない私には、二人の議論がさっぱり分からず。(悲)それにしてもまあ、ど素人の頭には、ディベート集の言葉はしょせん、「文句言い」たちの揚げ足とり合戦としか思えない。(笑) 

 

ディベートが行われた場所は、サウス通りとチェリー通りの角で、ほぼ1858年当時のままで今日も残されている。ディベートの最後の頃になって、あまりにも寒くなってきたのだろう、冷たい西風を避けるために、演壇がキャンパスの建物の東側に移された。が、もともと建物の位置を考慮して演壇を作ったわけではないので、演壇が建物のドアを邪魔してしまった。リンカーンやダグラス、そして支持者たちが演壇から降りるときは、建物の窓から出なければならなかったという。リンカーンは、これでやっと私も"カレッジを出た"と言ったそうだ。この窓はドアの左側で、のちに「リンカーンの窓」として知られるようになり、今は、学長のオフィスになっている。