イリノイこぼれ話

ハルハウス


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シカゴ大学の図書館で、ジェーン・アダムスさん自筆の手紙を見ました。1911年12月15日付です。ハルハウスのレターヘッドがついています。シカゴで文芸誌を創刊、へミングウエーも投稿する雑誌に育てあげたハリエット・モンローさん宛です。

「モンローさん、同封の詩を読んでいただけないでしょうか。私たちが知っているイタリア人の少年が書いたものです。彼は速記の仕事をしていたのですが、結核にかかって仕事ができなくなり、一日の大半を本を読んだり、詩を書いたりして過ごしています。同封の詩には、すごい才能が顔をのぞかせているように私には思えるのです。正直なところをお聞かせください。活字にしていただけたら有難いです。」

原稿の売り込みでは決してありません。クリスマスも間近に迫り、アダムスさんが、病気の少年を少しでも励ましたい、びっくりさせ喜ばせたいと、少年に内緒でモンローさんに手紙を書いたのでは、と私は思っています。どんな詩だったのか、モンローさんの雑誌で無事に紹介されたのかどうか私に知るすべはありませんが。

ハルハウスは、1889年7月、裕福な家庭で生まれ育ったジェーン・アダムスが始めた移民救済センターです。19世紀から20世紀へという世紀の変わり目、シカゴが猛烈な勢いで大都市に成長し、大企業家たちがほくほく顔で巨万の富を手に入れた繁栄の時代の陰で、大量の移民たちがスラム街にあふれ、どんな仕事でもありつけたら大万歳と、汚物やごみにまみれた非人間的な生活を強いられていました。子供たちはもちろん学校に行けず、一日中通りで新聞を売ったりして、親の生活を助けました。そんな極貧にあえぐ人々とともに生きようと考えたのがアダムスです。今も、イリノイ大学シカゴ校のキャンパスのはずれ、ホールステッド街に面してひっそりと建っている一軒の家があります。1935年に亡くなるまでアダムスが40年以上住んだオリジナルのハルハウスです。

困窮生活に潤いを与え、人間らしさを取り戻そうーハルハウスは移民たちのために「エスニックナイト」を催すことからはじめ、職業訓練に英語クラス、演劇・スポーツクラブ、図書館と活動を広げ、1907年ごろには13の建物を持つまでに成長していたとか。「キング・オブ・スイング」ーベニー・グッドマンもハルハウスの”音楽教室”出身です。アダムスが心を砕いたイタリア人の少年も、ハルハウスで時間を過ごすうちに、きっと結核の苦しみを忘れて、将来の夢を描いたに違いありません。
 

一方、ハリエット・モンローは、シカゴトリビューン紙でアート批評を担当した人物です。図書館には、モンローが書いた記事へのフランク・ロイド・ライトからの感謝の手紙も残っていました。女性にまだ選挙権も与えられていなかった時代に、社会と深く関わって生きることを選んだ女性たち二人、当然旧知の仲だったに違いありません。
 

 闘う女たちー1910年代にシカゴにいた日本人がアダムスの参政権を求める街頭演説を目撃しています。「その態度、そのゼスチュア、男性も遥かに及ばない。彼女は女権拡張の神様だ」 
 

 アダムスは、1931年に全米女性初のノーベル平和賞を受賞しました。ノーベル賞を受賞した途端、何やら私生活が一変した日本人受賞者もいたような記憶がありますが、アダムスさんはどんな人だったのだろうと思い、ハルハウスに入ってみました。当時使われていた家具がそのまま残されているとのことでしたが、何一つ派手なものはなく、普通の質実剛健を絵に描いたようなおうちでした。そう、ジェーン・アダムスの心が家財などに表れるはずがない。超多忙でも、無名の病気の一移民少年のために書いた短い手紙こそが、彼女のすべてを物語っているー。
 

 いつだったか、新聞で見かけて書き留めておいた言葉があります。「小さきは小さきままに 折れたるは折れたるままに コスモスの花咲く」 
 身の回りのほんの些細な、時には無駄とも思えることにも心を通わせる優しさ、強さから、偉業への知恵と勇気が生まれてくるーアダムスの手紙を見て、あらためて納得しました。