リンカーンの国から

 

(42)アンダーグラウンド・レールロード:オタワ

ジョン・ホサック

 

 

 イリノイのアンダーグラウンド・レールロード路線のひとつに、アルトン線がある。州西部、ミシシッピ川に面したアルトンから、イリノイ川沿いに、アルトン(奴隷解放論者イライジャ・ラブジョイが殺された町)、ジャクソンビル(殺されたラブジョイの友人、エドワード・ビーチャーが教えていたイリノイカレッジのある町)、ラサール、オタワ、シカゴとつなぎ、州西部から北部まで斜めに走る線である。

 

Text Box:   そのひとつ、イリノイ川に面する古い町オタワ。町で有名なアンダーグラウンド・レールロードの"駅"、ジョン・ホサックの家はすぐに見つかった。川沿いの高台にあって、川の流れをいつも見渡せる立派な19世紀の邸宅である。建てられたのは1854年のこと。

 

 真っ白な家の正面は、1階2階ともにポーチとなっていて、グリークリバイバル様式とのことだが、「風とともに去りぬ」の世界の感じがしないでもない。川は、家のすぐ裏手を流れているが、家は急な崖の上である。川沿いに逃げてきた奴隷が、この急な坂を上るのは大変だなあ、いやいや、下りなら簡単だあ、川のそばに隠し小屋でもあったかな、とかいろいろ想像した。この家には現在も人が住み、中を見ることはできない。

 

 1806年、スコットランド生まれのビジネスマン、ジョン・ホサックは、12歳の時にカナダに来た。教育はほとんど受けず、ケベックにあった叔父の菓子屋を手伝い始めた。まもなくセントローレンス川の運河で働く公共工事のコントラクターとなる。1838年にはシカゴにやって来て、イリノイ川のイリノイ・ミシガン運河の建設に関わった。それから、1840年代後半までにはオタワに移ってきていた。オタワでは、木材業と穀物取引業に携わって成功、財を築いた。

 

 ホサックは最初から奴隷制反対論者で、建てた邸宅にはいつも数人から12人ほどの奴隷をかくまっていたという。1850年の連邦逃亡奴隷法と、黒人が州に住むことを禁止するイリノイのブラックコードに違反しながら、この家に奴隷をかくまい、少なくとも13人の奴隷を次の"駅"まで安全に運び、逃がしてやったといわれている。一説には、200人以上の奴隷が助けられたとか。過激派解放論者のウイリアム・ギャリソンや、イリノイの政治家で、家をアンダーグラウンドの駅に提供していたオーウェン・ラブジョイらとも知り合いで、熱心に活動していた。彼の名前が歴史に残ったのは、シカゴで裁判に関わったからである。

 

 1859年9月4日、ミズーリからの逃亡奴隷、ジム・グレイが逮捕された。が、1ケ月後の10月19日には釈放された。というのも、逮捕の根拠となったイリノイ州法−つまり黒人は州に住めないーは憲法違反との判断が下されたものの、裁判官は連邦逃亡奴隷法ーつまり何人も逃亡奴隷をとらえ、所有主に返さねばならないーで、連邦の管轄下に抑留しようとした。ところが、裁判の傍聴に集まっていた解放論者たちは身体を張って、裁判所のドアまで通路をつくり、ホサックは外で待たせていた馬車にグレイを誘導、その行為をとめようとした1人の人間をなぐってしまった。その上、解放論者たちは裁判所のドアに鍵をかけ、追っ手が裁判所から出るのをたとえわずかな時間でも阻止したおかげで、グレイは無事に逃げ延びることができた。ある資料には、グレイはなんとオタワの裁判所から"誘拐"されて、カナダに逃亡したとなっている。

 

 そしてホサックたちは、他のオタワ市民7人とともに、この逃亡幇助が連邦逃亡奴隷法違反ということで、逮捕、起訴されたのだった。 裁判が開かれ、100ドルの罰金と10日間の刑が言い渡された。刑の言い渡しの前に、たぶんホサックに自分の考えを述べる機会が与えられたのだろう。その時のスピーチが残っているのである。

 

 「自分はずっと昔から一生懸命働いてきた移民である。」

 ホサックがそう言うと、検事がすかさず、「外国人ならますますこの国の法律に従うべきだ」と突っ込んだ。その日から150年近く経った今でも、ぐさっと来る言葉である。するとホサックは、スコットランド人の誇りをもって、堂々と答えたという。

 「その通りです。私は外国人です。スコットランドは自由な土地で、奴隷はいませんでした。私はこの国に来て、多大な貢献をしたと思います。この国で子供を11人育てました。生きていくには、社会福祉がとても大切です。私は、悪法に反対し、かつこの国の自由を愛します。だから、今ここに立っているのです。私は奴隷解放に賛成します。祖国の貴族制度から逃れたきたのに、なぜこの国の、祖国の貴族制度より悪い制度をどうやって支持できるでしょうか。」

 

 ホサックの論理は、奴隷制反対と、アメリカ憲法が保証する正義と福祉、自由と、神によって与えられている自由という自然法を根拠にして、3つを組み合わせたものである。スピーチでは、連邦の逃亡奴隷法がアメリカ憲法が保障するものに違反している、自由を剥奪しようとする群衆から一人の人間を助けたからといって自分が罰せられる理由はないと主張した。憲法の保障は奴隷には及ばないとする論に対しては、神の自然法を展開、宗教的観点から、神の命令と聖書の言葉は市民法より大事とし、最後に、「私は、慈悲をこわない。正義を求める。慈悲は神に求めるもので、私が移民してきたこの国の裁判所では正義を私は求めるだけだ。間違っているのは非人間的、悪評高い法律であり、私ではない。」

 おお、すごい。ホサックさん、ほんとに学校に行かなかったのだろうか。自分できっちり勉強したんだろうなあ。すごいなあ。

 

 10日の刑期のあいだ、ホサックはシカゴで多大な人気を得た。シカゴ市長やそのほかの有力者が彼を牢から連れ出し、馬車で市中をドライブしたというから驚きである。ドライブ中は、牢の看守の妻が見張り人になったというが、妻ということになると、日本人の感覚でいくと、"犯罪人"の日本的接待じゃないの。(笑) 一般市民が裁判費用を負担し、ホサックやいっしょに入っていた"犯罪人"たちには食べ物の差し入れがあった。10日後、ホサックが牢から出ると、知事候補にノミネートされたが、ホサックはそのまま1873年までビジネス界にとどまった。のちに失明して、仕事の第一線からしりぞき、亡くなったのは1891年のことである。