リンカーンの国から
(35)ケンタッキー州ノッブクリークーリンカーンの幼少時代
さすがにこれだけ丸木小屋ばかり見ると、飽き飽きして疲れてしまった。祖父母の丸木小屋、リンカーンの生まれた丸木小屋、リンカーンの少年時代の丸木小屋、どこが違うねん。。。う〜〜んと、祖父母の丸木小屋には窓がドアの両側にありました。要するに小屋が大きかったのです。。。リンカーンが生まれた丸木小屋の窓はドアの左側でした、で、幼少時代の丸木小屋の窓はドアの右側にあります。。。ホジェンビル村の短いメインストリートでも歩けば、リンカーンの丸木小屋をおみやげにして店先に並べている店がある。うん、これは生まれた小屋だあ、あ、これは少年時代の小屋だあ。。。こんなこと知って、何の得になるねん。。でも、これでリンカーンの丸木小屋クイズショーにでも出れば、完全正解で優勝だあ。。。
リンカーンが生まれた場所を記念する白亜の建物から10マイルほど北東に行くと、リンカーンが1811年から16年まで過ごした丸木小屋がある。ノッブクリーク農場である。林に囲まれ、近くにせせらぎが流れ、誰1人いない、静かで落ち着いたきれいな場所だった。せせらぎの水に手を浸す。思ったより冷たかった。ああ、気持ちいいなあ。。昔の人はいいところに住んでたんだね。。そう、週末にピクニックに来るだけならば。。。
1811年、リンカーン一家がここに引っ越してきたとき、リンカーンはまだ2つだった。リンカーンが覚えている人生の記憶は、この農場での生活が最初のものとなった。かぼちゃやとうもろこしの種をまく父親の姿、小川での魚釣り、ベリーを集めた丘での時間。。。リンカーンも一生懸命かぼちゃの種をまいたのに、小川が氾濫して、種が全部流されてしまったとか。その小川で遊んでいて、おぼれて、死にかけたこともあるという。今も残っているこのせせらぎだろうか。
リンカーン自身が水を運んだり、たきぎを集めてきたり、畑で働いたりと、いよいよ親を手伝う生活が始まったのも、このノッブクリークである。そして、ときどき、家の仕事がないときは、姉のサラといっしょに、家から2マイルほど歩いて学校へ行った。学校といっても、近くで酒場をやってる近所の人の息子、カレブ・ヘーゼルが開いていた、もちろん丸太小屋である。アルファベットや読み書きを大声で斉唱するだけという"寺子屋"だが、全部あわせても3ケ月通ったかどうかもわからず、リンカーンにこの学校の記憶はないという。
面白いのは、このへーゼルが奴隷解放論者だったことだ。リンカーン一家も、奴隷制反対を主張するリトル・マウント・セパレート・バプティスト教会に属していた。1811年当時、ノッブクリークのあるハーディン郡の奴隷の数は1000人ぐらいの一方で、16歳以上の白人の男は1600人ぐらいだった。単純労働者だったトーマスは、無賃金労働者ー奴隷と競争して、仕事を探さねばならなかったのである。奴隷制に反対したのは当然だったろう。小さかったリンカーンも、親や学校の先生の話を聞いて、なんらかの影響を受けたかも知れない。
そして何よりも、丸木小屋の前の道は、ケンタッキー州ルイビルとテネシー州ナッシュビルをつなぐ、当時の主要な道だった。毎日、リンカーンは小屋の前を通る荷馬車の列やら、奴隷市場に売られていく奴隷たちの姿を見て育ったに違いない。ノッブクリークは、リンカーンにとって「新しい世界」を見せてくれた場所であり、リンカーンを創った場所なのである。
母親のナンシーは、このノッブクリークで、3人目の子供を生んだ。父親の名前をとって、トーマスと名づけられたが、数日後に死亡、小屋の反対側の丘の上に埋められたという。
リンカーンが人生最初の喜怒哀楽を経験したノッブクリークだが、売買した農場の権利問題がごたつき、失望したトーマスは再び引越しを決意する。1816年の終わり、一家は、小屋の前の道を北上、ルイビルの町を通過してケンタッキーを離れ、オハイオ川を渡って、インディアナに入った。リンカーン、7歳の時である。