寄せられた声

 

 

(1)10代、20代を中心にメディアがものを言うので・・・

匿名、40代、主婦、10/15/2005

 

「今の時代、155.5cm以下(出版社の意向だとは思いますが。)だと、特筆するほど小柄・・・なんでしょうかねぇ。156センチの私にとっては疑問です。日本は10代、20代を中心にメディアがものを言うので、そうなのかもしれませんし、どっちでもいいことには違いありませんが(笑)。」

 

 

 

(2)日本の社会構造と日本人の意識は・・・

匿名、40代、主婦、10/18/2005

 

私が一番共感したのは、日本の社会構造と日本人の意識に関する記述です。多佳子さんのこの記述が出版社に認められ活字になって本屋に並ぶと言うのは、私にとっても嬉しいことです。日本での「”普通”であることへの執着」また「”普通”でないものに向ける容赦ない態度」、これは私にとっては奇異なこととしてうつるのですが、親の世代は言うに及ばず、私と同世代の人達でさえ、奇異に思う私の感性を理解してくれる人は多くありません。そもそも「普通」って何?そんな得たいが知れないものに惑わされていること自体、おかしい。出版社を通して活字になったということは、日本もやっと米国社会のような個人差を尊重する社会への入り口に差し掛かっているのかもしれません。

 

 

 

 

(3)長身女性への偏見等の諸問題は相当に根が深く・・・

翔龍、10/24/2005

 

「『大きい女の存在証明『』の事をお教えいただき早速拝読させて頂きました。長身女性大好き男族の一人として、微力ながら輝いていてもらおうと声を掛けてきました。「長身女性の良さが分からないなんて何て不幸な奴だと笑えば良いんだ!」等々。しかし実際は長身女性への偏見等の諸問題は相当に根が深く大きい事を思い知らされました。その事に気付く機会を与えてくれた『大きい女の存在証明』とデイ多佳子様に感謝申し上げます。ありがとうございました。』

 

 

 

 

(4)上質なノンフィクション作品

(甲藤ユリ、ライター、10/26/2005)

 

ご本、とってもよかったです。並々ならぬ意気込みを感じました。主観のみに流されず、客観的な視点もきちんと保ち、上質なノンフィクション作品に仕上がっていると思います。ノンフィクションでも、本人が主人公になるとは、こういうことなのだ、と感じました。いろんな反響があると思いますよ。多佳子さんが強く訴えた分、反論を唱える人も出てくるでしょう。それが、願わくば感情的でないことを祈ります。

 

 

 

 

多佳子から 1

 

「友達の話だと、今の日本では、小柄な女性用に洋服を作ってないそうなんですけど、ほんとなんでしょうか。だいたい160cmからの対応だそうです。。私は既製服がなくて、いつも母親の手作りのものを着てましたけど、小柄な人も手作りされるのでしょうか」

 

 

 

 

(5)私のトラウマは・・・

(匿名、40歳、パート主婦 12/7/2005)

 

多佳子さんの新刊書、読ませて頂きました〜。

まず、多佳子さんてそんなに長身だったっけ…?と思い出してみました。…というか私自身が身長154センチなので、それ以上の人が周りに多くて気にならなかったのかな…?

そうですよね。日本人て言葉に無神経さがあると思います。そういう私もかなり言葉で失敗していますが(一言多いというか)…。

私のトラウマはやはり容姿のことなんですが、小学校時代に家に遊びに来た友人を見て母が「明美ちゃん(友人)は可愛いのにお前は可愛くない」と言った一言です。自分の子供にはこんなこと絶対言わないぞ、と今も思っています。昔の人は何かと卑下するのが美徳と思っていたようで、褒められても「そんなことない」という言葉をよく浴びせられました。

考えたら、人に物をあげる時「つまらない物ですが…」も失礼ですよね。つまらない物をくれるの?と思っちゃいます。

日本語って綺麗な言葉とかも多いけど、使い方によって変わってしまうこともありますよねぇ〜。

私の友人は「気を付けてね」という言葉を嫌がります。”気を付ける”という言葉は何か危険が起こる事を前提として言っているように思えるから…だそうです。

 

 

 

 

(6)涙が止まりませんでした・・・

ヤヨイ、33歳、派遣、12/9/2005)

 

多佳子さんの著書「大きい女の存在証明」を読んで涙が止まりませんでした。私の感じていたことは間違いじゃなかった、と嬉しくなりました。

多佳子さんの一言一句にうなずいてしまいました。

 

私は身長はそんなに高くはない(現代では普通になりつつある165cm)のですが、がっしりしているため「大きい」という表現でくくられます。

同じ体重でも身長が低ければ「ぽっちゃり」と呼ばれるのにちょっとでも背が高いと「大きい」「でかい」等々… 嫌な思いをしたことは数知れず、ダイエットに成功しても今度は過食症にかかり心療内科に行ったりしました。(もちろん周囲には隠してます)

 

時折わかってくれそうな人に自分の悩みを告白しても、引かれたり、自分の考え方に原因があると思われたりするのです。

不当な差別を主張するとけむたがられるため、「そんなこと気にしてないわ」と涼しい顔をし、差別的な社会に反旗を翻す人を見ても

「そんなにめくじら立てなくても。自分の考え方や努力次第よね。周りを攻めるのが間違いよ」なんていわゆる「自分が標準的である」と安心している人たちと同調してて生きていかなければならなのは息苦しいです。

 

嫌われるのが怖いから、周囲の楽しい空気を悪くするのが怖いから、ひたすら耐えてきた日々って何なのか。顔のことはタブーとされてあまり言わないのに、体型のことはあまりにも無頓着にずけずけと言う日本人。男性のみならず女性も!!女の本当の敵は女って本当です。

 

私は臆病者ですが、嫌な目にあった時に「わたしは傷ついて不愉快である」というのをまず言ってみる勇気を持ちたいと思います。もっと沢山の問題意識の無い人が、この本を読んでくれることを願ってやみません。(日本って全然そんなこと気にしてない人があまりにも多いので、ちょっと心配ですが…)でも機会があれば人に勧めますね。

 

 

 

 

多佳子から 2

 

はじめまして。メールありがとうございました。
涙を流しながら読んでくださったとのこと。すごくうれしいです。私も泣きながら書きました。泣きながら書いた女と、泣きながら読んでくださった女とがつながったわけですから、こんなにうれしいことはありません。あの本を書いて、出せて、ほんとによかったと思います。(本を出すことにすら、世間の標準サイズの人は否定的でしたから。。。そんなあほなテーマ、って感じでした)でも、ヤヨイさんと出会えたのですから、人が何と笑おうと、私は正しいことをしたと思います。(笑)

おっしゃってる通りですよね。世間の人は「冷たい」です。今回、この本のことで、いろいろ声をかけてみて分かったんですけど、私たちのメッセージはニ方向で発せねばならないようです。一つは内向き、つまり私やヤヨイさんのように、嫌な思いをしてる人間同士が仲間内でリラックスして、愚痴をこぼしあったり、励ましあったり、「冷たい」世間の人を「罵倒」しあったりして、また明日からの活力を得る場所(これは、今の時代、インターネットの掲示板とかいろいろあるみたいです、ほんとは私が日本にいるのなら、トールクラブみたいなのを作って、大きな女たちがメンバーになって、2ケ月に1度でも会って、わいわい言える機会があったらいいのにな、とか思います。私は176センチほどありますけど、大きな女ばかり5人ばかしいっしょに喫茶店に入っていったら、店員さんはもちろんのこと、周りのお客さんたちがどんな目をして私たちを見るか、十二分に想像できますよね。。「赤信号みんなで渡れば、。。」ですから、小気味よいと思うんですけどね。。。そうやって、私たちの存在を知らしめていく。。。笑) 

 

もう一つは、私たち自身が、「でかいなあ」と言われた時に、外(他人)にメッセージを発信する努力をしなくちゃなりません。「言わないでくれ」と言っても、向こうはこちらの傷ついている気持ちなど全くの???ですから、こちらの態度を攻撃的だとして、気分を害するだけで、まともにとりあってくれない可能性大です。それで、私も考えてるんですけど、(アメリカにいても、平気で言う日本人の男たちがいますからね。。悲) 「でかいなあ」といわれたら、「わかってますよ。何なんでしょうか」とでも、切り返そうかな、とか考えてるところです。実の私も、まだ言い返したことがありません。お腹の中でどんなに腹立てても、じっと我慢してきましたね。でも、もうあの本を出したことで、腹くくりましたから、これからは、「だから何なのさ」の感じで(でも、それを言うとやばいですから)「わかってますよ。わざわざ言ってくれてありがとね。それで?」ぐらいでいこうかな。。。とか。。(笑) 
ヤヨイさん、がんばりましょう。また、イヤなことがあったら、メールください。言えば、気持ちがすきっとしますから。聞きますよ。日本では、悩みを打ち明けることすらできないですもんね。。。つながっていきましょう。

 

 

 

 

(7)こころにのこりました

(まい、29歳、イラスト作家、12/22/2005)

 

多佳子さんのHP、実は中山庸子さんのことを検索していて、たどりついたんです。中山さんあての手紙のなかの

 

>問題の多いアメリカ社会ですが、私がこの国に感謝しているのは、人それぞれの多様性をまっすぐに認めようとする精神が社会にはりめぐらされているからです。大柄であろうと小柄であろうと、太っていようと痩せていようと、みんなが自分を他者と比べることなく、自分をありのままに受け入れ、満足できる社会です

 

というところが、こころにのこりました。

 

 

 

 

 

(8)「普通」などという コンセプトから解放され・・・

(本の紹介文を見て感想を送ってくださった知人、50歳代、研究者、1/12/2006)

 

 長身の友人とは東京で時に一緒に散策しますが、175cmくらいかしら、私はいつも彼女をうら やましく思います。ハイヒールはけば180センチくらい、満員電車でも顔が出るし、見晴らしもよいし、第一長身は格好がいい。145センチの友人もいますが、洋服は常に特別注文で著しくお金がかかる、人に会うときは常に見上げなければならない、気の毒だと思います。145センチと180センチ、どちらがいいかと言われたら、私は絶対180センチの方がいい、、、と思います。特にアメリカでは大きなプラス要因だと思います。最近は、東京でも。男たちを見下ろせばいい、、、さぞかし気分がよかろうと思います。

 

 あなたが長身であるために経験したことが理解できないわけではありませんよ。面と向かっていう人がいるというのはちょっとびっくりではありますが、後ろの方で言っているのが耳に入るというような経験があっただろう、不愉快で傷つけられた経験をしただろうことは想像に難くありません。

 

 でも長身の方が得だと、私が考えているのも本当で、あなたのご本の紹介文やあなたご自身のファックスを読んだ後でも、やはり私は長身の方がいいなと願います。もちろんどの位の身長がほしいかという問題はありますが。175センチ位あったらいいなと思ったことはあります。182センチということは、確かに、考えたことないので、それがどの位の意味を持つのかはっきりとはわかりません。でも、180以上の男性が今は日本でも多いので、180以上の女性が増えるのはいいことだと思います。

 

 背の高さは、単に肉体的なものではなく、大きな社会的意味を伴うと思います。デュカキスが大統領候補だったとき、あと5センチ必要だと言われました。格好のよさだけでなく、パワーについての印象を与えます。世界の政治家が並んでとった写真を見ると、背の低い日本人の首相はとかく貧相で、日本の国際社会における影響力の低さを象徴しているように見えます。1対1で対面したときには、目線が、見下ろす、見上げるという関係になり、見下ろす立場にある長身者の方が有利です。統計的にも、ビジネスでは長身の方が短身より成功率が高い。

 

 これらは、まあ男性についてのことです。日本の伝統的価値規範では、男女の関係に身長が大きな意味を持つのでしょう。男は女を抱く側、より大きく、強く、堅く、、、女は抱かれる側、小さく、弱く、柔らか い肉体というわけでしょ。それに合わない、著しく大きな女、著しく小さな男は、はみ出る、結婚相手に困る、、というわけ。

 

 まずこの力関係が壊されれば、あるいはそんなものは無視してしまえば、女性だって大きい方がいいと思います。パワー、押し出し、格好よさ、男を同じ目線あるいは見下ろす立場に立てる、それに、何も男に抱かれる必要もないではないか、相互に抱き合う、あるいは抱いてあげればいいではないか、、、と思います。女性が社会進出して、政治家になったり、会社の上の方にいく場合、大きいということは絶対に有利だと思います。

 

 私がジャーナル編集していたときにインタビューしたビジネスウーマン(白人)に、成功に役に立った要素はと聞いたら、いくつか挙げましたが、私の記憶に鮮明に残っているのが、長身で、男性と対等に話すのに役に立ったという返事でした。別の例ですが、私の親しい白人女性で横もたてもかなり大きく、すごい筋肉もりもりタイプの人に招待されて、彼女がオーガナイズした東京でのコンヴェンションに行ったのですが、体の大きな男性に混じってぜんぜん見劣りがしないで、実に堂々としていました。

 

 そうそう、23日前にたまたま日本のチャネルひねったら、大林素子さん(だっけ、バレーの日本代表チームのリーダーだった人で、引退後にタレントになった)が登場、彼女は180センチ以上(結婚相手は元バレー選手)、でもとても魅力的。大きいこと、魅力的なことを、うまくタレント要素にして活躍しています。

 

 これまで書いてきたことは、すべて、あまり背が高くなく、ほとんどの場合相手を見上げなければならない側にあり、カワイコちゃんタイプで、到底パワーや権威を伴わないたぐいの容貌の持ち主として、長い人生を過ごしてきた私の個人的見解であります。もちろん、それで損ばかりした、いやな思いをいっぱいしてきた、というわけではありませんよ。でも、総合的に見るならば、私は、長身の方がいいなと思っています。あなたが一度我が家に来られたとき、長身でさっそうとしているなあ、と思ったことが記憶に残っています。

 

 私は絶対的な「普通」などないと考えます。それに私自身、「普通」などになりたくない。「みんなと同じ」的な「普通」脱出の方 がいいです。私のこれまでの人生においても、しばしば、みんなと同じ的な「普通」脱出を試みてき たと思っています。まあ最近は、人生意気込んだ割に、みんなと同じ的な「普通」的人 生だったな、まあそれでよかったか、という気持ちになってきましたけど。多分、「普通」的存在であることを否定して自分の違いを主張するだけのエネルギーが 減少しているためでしょう。加齢のせいか、あるいはだんだん物事をわかってきた、 ということか?

 

 ところで、「普通」は、誰が、どうやって定義するのですか?まあ身長や、体重など は、現時点における(歴史的に大きな変化があるので)、日本人の統計をとり、トップ 25%が長身、ボトム25%が短身、中間50%が「普通」ですか?それとも、5%、90%、 5%?体重は?比較でいくのか(つまり相対的)?それとも医学的見地から見た「普 通」つまり、問題なし、ですか?数値で出せないのはどうしますか?皮膚の色は?日本人だって、色白から色黒までさ まざまな中で、誰がどういう基準で「普通」を決めますか?

 

 私のコンセプトのなかに、「普通」がない?ーーーまったくないわけではないです よ。「一番多くの人が集中しているところ」というコンセプトはあります。しかしそれ も至って相対的コンセプトであり、「どのような状況において」という「普通」・「通 常」概念です。(世界的女子体操選手は150センチ前後が「普通」、160センチは「普通外」だそうです。トム・クルーズの身長はしりませんが、多分アメリカ人としては「普通」(50%内?) でしょうが、ハンサム俳優は長身でなければならないという多くの「普通」の人が考 えている基準からすると短身なのでしょう。

 

 女性としては「普通」以上の長身らしいニコル・キドマン(トム・クルーズと大体同じくらい?)が本当にそう言ったのかしり ませんが、彼女は彼と10年ちかく結婚しており、子供もいるのでしょ、本当にいやだ ったら、そんな選択しなかったはず、それに彼は人気俳優としての地位を保ちつづけ たーーー この部分は蛇足)

 

 「比較の問題ではない、比較した上でどっちが得だ・損だというのでは問題解決しな い」という点についてですが、私たちの思考はほとんどの場合、「比較」の上で成り立 っていると思います。「比較」することによって、物事を正確に理解できる、意味を明 確化できるのだと思います。1年中かつ1日を通して同じ気温の地域に住んでいたら、 寒暖は(想像する以外に)理解できないでしょう。気温の差異を経験することによっ てはじめて比較ができ、それを通して寒暖を論じることができるわけでしょう。しか し、何が「寒」か「暖」かは、その人がどのような気温の中に住んでいるかによっ て、まったく異なる「基準」を持ち、したがって「普通」「通常」の温度の感じ方も まったく異なるでしょう。経験に基づかない思考、想像に基づく思考、まったく新し い創造的思考、比較に基づかない絶対的思考というものが存在することは否定しませ んが。「得だ・損だ」という表現は、これがあなたにあてた個人的で口語的メイルだから使用したもので、気に障るなら別の適切な表現に置き換えてください。

 

 「「成功した人」についてだけの語りだ」という点については、ごもっともです。私 自身個人的には知らないがメディア等で知っている人を取り上げているのは、もっと も「可視的」存在だから議論の対象としてとりあげやすいからです。私の個人的知人 で社会的に知られていない人について語る場合は、どんな人であるかをより詳細に形容しなければならし、それでも理解を共有するのは容易ではないのに対し、有名人は 名前だけである程度の理解共有が得られるからです。

 

 「一番いいのは、誰からもいろいろ言われたり、指をさされずにすむ「普通」です。 不可視の「普通」が社会で一番の力をもっているんですよ。」ーーーというあなたの 見解ーーこれにはまったく異議あり。私は不可視の存在ではありたくありません。実 際には、至って不可視的な存在ではありますが、それを願ってそうなっているのでは なく、結果としてそうなっているということ。気持ちとしては、あくまで自分の可視 的存在を主張したい)。不可視の「普通」が社会で一番の力をもっているとは思わない、著しく可視的で「普 通」からはみ出た人々こそ力をもっているし、社会への貢献も「普通」以上だと思っ ています。日本の学校でいじめが特にひどかった数年前(多分今も)、一番の安全地帯は「普通」 「中間」「不可視」であることだと、子供たちは小学校高学年くらいにして学習してし まい、ひたすら「普通」「中間』「不可視」に埋没しました。「笑うと目立つ」「勉強が 特別できると目立つ」「クラスで発言すると目立つ」「目立てばいじめの対象となりやす い」というわけで、元気一杯、笑い一杯、自我成長の年齢にあるはずの子供たちが、 自己滅却、個性滅却、才能隠蔽を選択しました。不可視になるため、顔からは表情が 消え、まるで、能面みたいになった。大学生になってもそれが生き方の本質的なもの となってしまったような人が多かったです。大学の教室は、顔は無表情、反応しな い、「普通」「中間』「不可視」を好む、自己の存在を主張しない学生がほとんどとなりました。

 

 私は、日本人よ、「普通」「中間選択」「不可視」志向をやめて、「「普通」からはみ 出ること」「真中へんから脱出すること」「自己存在の可視化」を求めよ、と言いたい。そして、そのような自己の存在を自らがまず価値付けるべきでしょう。他人によっ て、ではなく、まず第一に自分がそのような自分を受け入れ、価値化すること。そうすれば、「普通という縛り」から個人的にも解放されるし、社会全体としてもそ のような拘束が消滅するでしょう。そして、そうすればこそ、あなたが言うように「ありとあらゆる人がありのままに自 分であることが受け入れられる社会」になると思います。

 

 つまり、私にとって、「一番いいのは、誰からもいろいろ言われたり、指をさされず にすむ「普通」、不可視の「普通」を目指すのではなく、むしろ「普通」などという コンセプトから解放され、自己の多様な側面・特徴を自ら価値付け、そのような人間 の集合を価値付ける社会を目指すのがいいと思います。

 

 

 

 

多佳子から 3

 

ご意見ありがとうございます。おっしゃってくださった、可視化をはかった個人の集合体ゆえ「普通」が打破された社会と、私がめざす多種多様な人間がみんな「普通」になった社会とは、究極のところ同じなんじゃないかな、と思います。ただ、思考のプロセスと視点が違うだけで。。つまり、個人が社会を作るのか、それとも社会が個人を作るのか、どちらを優先させるか、といったところでしょうか。
 プロセスと視点の違いは、次の2点から生じているのでは、と私は考えます。一つは、おっしゃっている個人の可視化とは、個人の能力の有無に大きく左右されるもので、好まずとも可視化を余儀なくされてきた私は可視化の強要には反対すること、もう一つは身体の特殊性です。
 おっしゃっているような理由で個人の可視化を奨励すれば、社会には競争が生まれるでしょう。可視化する能力のない個人はどうなるのでしょうか。どうして競争して、「可視化」せねばならないの、という疑問もわくのではないでしょうか。底辺も含めた社会全体のあり方を考えると、自らを可視化し自ら価値づけていかねばならない厳しい社会よりも、「みんなが普通」「みんなありのままでいいんだよ」のほうが、私個人的には自然体で生きられる安心感と優しさを感じて、好きです。
 

もう一つの身体の特殊性についてですがー 社会から「普通」を余儀なくされる例としてあげられている「笑う」とか「頭がいい」とかは、その人の人間性です。隠そうと思えば、ある程度までは隠せる個人の特性です。ところが、身体はどんなことをしても隠せません。しかも、一生ひきずります。身体が「普通」ーつまり誰からも何も言われない「平均的」じゃなかったらー日本政府は平均値を出してるかもしれませんーただそこに存在するだけで、目に触れたというだけで、いろんな差別的言動にさらされます。絶対に自分であることに安心感が得られません。そうやって、他者の視線によって、身体が人格を作っていくのです。そこには、人間性への配慮などこれっぽっちもなく、ただ「もの」を見る眼でしかありません。まるで、動物園のオリの中にいる奇妙な動物を見る眼です。どんなことをしても自分であることに安心感を得られない身体と、隠そうと思えば隠して「普通」になり、いったんは安心感を得られる個人の特性とを同列にして論じるのは、確かに問題もあり、視点や思考のプロセスも違ってくるでしょう。でも、めざしているのは同じものだと思います。身体も含めて可視化された人間存在ー外見も人間性もーのすべてがありのままに受け入れられる社会です。
 

身体的特徴によってすでに可視化されてしまった人間にとって、自分で自分を価値づけようとする試みは内心で絶えず行われてます。そうじゃないと生きていけません。身体からは逃れられないのですから。でも何事にも限度があります。社会が価値づけを許さないときに、限度を超えた努力は自分を責める眼につながります。それよりも、まず自分を「普通」として受け入れてくれ、「見世物」じゃないんだよ、という気持ちが、「みんなが普通」という社会に向けてのメッセージになっています。

 

 

 

 

 

 

(9)階層的な固定観念を変えるには、背の高い女性のエンパワーメントを目指した「社会運動」が必要です。

 (ケイ36歳、研究者、1/20/2006)

 

 今回の多佳子さんの著書は、社会は人々の身体的な特徴に関してどんなに差別的かという事実について具体的な例で明らかにしたという点で、かなり成功したのではないかと私は思います。 まず何よりも、多佳子さんと同じような立場にいる人たちにとって、「よくぞ言ってくれた」という励ましになることは間違いないでしょう。 また、背が平均値からそれて高くもなく低くもない人々にとっては、本の中にあふれる多佳子さんの経験した一連のエピソードが、自分の背丈がたまたま社会規範に合っていたというだけで、どれだけ自分が常日頃「優遇」されているかということに気づく良いきっかけになってくれるのではないかと期待しています。 私は、多佳子さんの背が高いと言われるのが不愉快だという気持ちを他人に理解してほしいという気持ちは尤もだと思います。 皆がありのままの自分を受け入れてもらえることのできるような社会を目指すべきだという呼びかけもわかるような気がします。しかし、もし「社会を変えたい」あるいは「背の高い女性がこれ以上苦い経験をするのを食い止めたい」というのが目的であれば、何か足りない、というのが私の素直な印象です。 

 

 背の高い女性に対する人々の差別的な言動を変えるには、「背の高い女性」にまつわる社会的なイメージを変えることが何よりも必要なのではないかと私は思います。最も効果的なのは、「背の高い女は美しい」というイメージを社会的に波及することなのではないかと私は思います。 例えば、人々が見知らぬ背の高い女性に対して思慮のない言葉を投げることができるのは、多かれ少なかれ、「背の高い女性 = 男っぽい」、そして「男っぽい女性 = 社会規範に反する、社会的に不利」という階層的な社会的観念に基づいているのはないでしょうか。 この階層的な観念は、男性と背の高くない女性の中に、「自分はこの背の高い彼女より社会的に不利でない」という一種の「力」の感覚を生み、少しくらい不用意な言動しても許されるのではないか、という錯覚をもたらすのではないかと思います。 (この手の社会的強者から社会的弱者へのいやがらせの典型的な例は、男性から女性へのセクシュアル・ハラスメントです。) それなら、背の高い女性に関する社会的観念を変えない限り、根本的な問題は変わらないと思います。「背の高い女性 = カッコいい、社会的に憧れられる存在、優位な立場」という社会的なイメージが広がれば、街で出会う背の高い女性ひとりひとりに対する人々の反応も変わるのではないでしょうか。

 

 私のこの考えは、社会学の基本的な考え方の中のひとつ、階層のない社会はありえないという立場に基づいています。 階層社会においては、低い社会階層に追いやられている社会グループが不平等な立場を少しでも変えたい、「力」を持ちたい、と思ったら、何らかの形で「戦う」より他にありません。 「私のつらさを理解してほしい」と言ったところで、社会が人々――特に強者の立場にいる人たち、つまり男性全般と社会規範にかなった背丈の女性――に与える「背の高い女性は不利」という階層的な固定観念は変わらないと思います。この階層的な固定観念を変えるには、背の高い女性のエンパワーメントを目指した「社会運動」が必要です。

 

 60年代アメリカの黒人の市民権運動の中で起こった最も大切な変化の一つは、”Black is beautiful” をキャッチフレーズに掲げ、それまで白人にどこか引け目を感じていた黒人たちが、自分たちの肌の色に対して自信を持ち、それと同時に、社会的な黒人に対するイメージが変わり始めたことだと言われています。それがきっかけとなって、先住民の血を引く人々の間では ”Red is beautiful” がキャッチフレーズとなって、先住民の子孫であることに誇りを持つ人々が急増したという記録があります(注:これは主に都会に住む白人との混血の先住民たちのことで、多佳子さんがよくご存知のレザーヴに住むインディアンは、ちょっと違うかもしれません)。

 

この意味で、多佳子さんが批判した中山さんの著書は、より効果的な戦略を採っているという点では評価するべきなのではないかと思います。彼女は背が低いことがどんなに不利かという事実を述べた後で、その「不利」というイメージを「有利」というイメージに変える方向に議論を持って行っている(ようです。これはあくまでもアマゾン・ドット・コムで見た彼女の著書の目次からの私の推測ですが)――彼女が背の高い女性のイメージを悪くすることで背の低い女性を有利に持っていこうとした部分はあまり誉められたものではありませんが、背の低い女性のエンパワーメントを目指そうという根本的なアイデアは、理にかなっていると私は思います。

 

 

 

 

 

 

多佳子から 4

 

ご意見ありがとうございます。tall is beautiful の社会運動を起こすべきとの貴重なご指摘に感謝します。今、いろいろ考えをめぐらしていますが、思いついたのは、アファーマティブアクション的な考え方とロールモデルとの関係でしょうか。


 実は、「背の高い女性=かっこいい、美しい」という観念はずっと存在してきたのです。ファッションモデルという職業があるからです。だから、身体の大きさを有利にもっていこうと、モデルのように痩せなければと考え、ダイエットに走り、拒食症といった危険性にさらされる若い女性も多いと思います。本の中でも書きましたが、「背が高い」は美人に投げかけられる言葉で、不美人だと「大きい」「デカイ」になります。ここですでに、差別、階層意識が如実に表れるわけですが、あえてその差別意識には目をつぶって、身体の大きさだけを”肯定的にとらえてあげよう”とする世間の人々の”優しい”気持ちは、「モデルになれるね」という言葉になります。が、具体的にモデルの人の名前をあげて、「川原亜矢子みたい」と言われることはほぼ絶無です。(笑) そして、これと対極にあるのが、「和田アキ子みたい」です。これは、いやというほどいわれてきました。(笑) だから、単にtall is beautiful ではなく、もう1歩踏みこんだ考えが必要なようです。それで出てきたのが、アファーマティブアクションとロールモデルという視点のようです。


 現段階においては、ファッションモデルとお笑い芸人というように、ロールモデルが二極化しています。これでは、「普通」の身長のある女にとってはロールモデルにはなりえません。ここには、メディアの問題も関わってくると思われます。アファーマティブアクション的な考え方ーつまり身長のある女も一定レベルでメディアに露出させて、存在を認知させようーは有意義なことで、もちろん有り難いとは思いますが、主流に迎合できる能力のある人間だけが”上昇”し、コミュニティの中の格差は拡大するという恐れがあります。主流に迎合できる能力というのが、ファッションモデルの「美」か、お笑い芸人の「ぶさいく」(南海キャンディーズの静ちゃん紹介に、この言葉が流れていました)と「キャラクター」では、普通の女は苦しくなるだけです。


 思い出すに、職場で黒人問題を上司に訴えたとき、はっきりと黒人の上司に言ったことがありました。黒人コミュニティの底上げの問題は、黒人のリーダーの問題だ、外部の人間にはできないのだから、と私は面と向かって言ったのです。確かに、ステレオタイプで我々を判断しないでくれ、と外に向かって言うのは大事だけれど、それと同時に、コミュニティ内部に向かっても、ステレオタイプを打ち破っていくのは自分たち自身の責任だということを徹底させるべきだというわけです。この論理でいけば、身長のある女の問題も、単に外に向かって、「大きい」「デカイ」「和田アキ子みたいだ」と言わないでくれ、と訴えるだけではなく、身長のある女たち自身が、世間の美醜の序列には関係なく、tall is beautiful を確信しなければならない、ということになります。


 若い女性たちが、仲間うちで自分たちを慰めあうかのように、愚痴をこぼしあい、励ましあうのも大事でしょう。時には他者と比べて、私たちのほうが得と考えることで、自分たちが置かれた状況に納得するのも大事でしょう。中山氏の「小柄な女は運がいい」を私はそんな風に見ました。しかし、そんな限られたコミュニティ内、仲間内でのエンパワーメントはしょせん自慰行為で、社会運動にもならないかも。。。それよりも、内に向かっても外に向かってもメッセージを発信できて一挙両得なのは、メディアで活躍する和田アキ子や静ちゃん自身が、「私たちは川原亜矢子より美しい」と叫んでくれることでしょうか。それはそれで「お笑い」になりそうですが、それでも信念を持って言い続ければ、道が開けそうな気がします。でもそれは、「男みたい」「ぶさいく」で売っている彼女たちへの営業妨害となるのでしょうか。ならないようにするには、どうしたらいいのでしょうか。。ああ、道はまだまだ遠しですけど、がんばりたいと思います。

 

 

 

 

 

 

(10)本当の自分を受け入れてくれる社会が存在しなくてはならない

(いるか、40歳、主婦、2/7/06)

 

英国王室のダイアナ妃の初来日。メディアは競ってダイアナ妃の容姿を報道していた。

京都の寺だったか、靴を脱ぐシーンが映し出された。その途端、メディアは一変して「ダイアナは実は大足プリンセスだった」になった。靴のサイズは○○。プリンセスは恥ずかしがって靴を

脱ぎたがらなかった。今日の靴は足の大きさが目立たないデザインと色。まあ、あれだこれだ、ときっとダイアナ自身が思ってもいないことを報道されていた。当時、私自身がティーンになりたてだったこともあり「大足って恥ずかしいことなんだ〜」とこの時に植え付けられた記憶があるため、いまだに靴のサイズは偽り続けている。猫背になったのも、目立ちたくなかったせいだ。

 

そんなことを思い出しながら読んだ「大きい女の存在証明」。「残酷な言葉を発する事でしか、自分の力を確認できない人間の幼稚さ、小ささ、哀れさ、そんな人間たちを量産する日本社会の未熟さ、貧困さ。社会の公器、メディアが突き詰めねばならないのは、そこだろう。」メディアがダイアナ妃の足のサイズを挙って大ニュースにしてしまう日本のメディアは今現在も少しも変わってはいないようだ。

 

実は私自身、この本を読んでハッとしたことがある。「悩みの序列化」だ。「上を見たら切りがないから、下を見ろ」と。。しかし、これも多佳子さんが言うべくところの口封じで、差別意識を正当化し、深め、それを許す社会の責任を被害者に責任転換するだけだと。そうだった、そうだったのだ。今まで「ちょっと変だな〜」と思いながらも「誰々に比べれば私はラッキーだ」なんて思い込んでいた所があるが、それは全くを持って見当違いだったのだ。この本を読んで、本当の自分と向き合える本当の自分を受け入れてくれる社会が存在しなくてはならない、と強く思った。

 

 

 

 

(12)庄司麻由里さんという方

(まゆみ、20代、自営業、2/19/06

 

実はこの前ラジオを聞いていたら、庄司麻由里と言う方が出ていました。

(庄司麻由里:1961年12月29日東京生まれ。女優を経て、現在フリーアナウンサー。TBS朝の人気番組「はなまるマーケット」で、はなまるアナと して活躍中)

私は、あまりテレビを見ないのですが、「体当たりリポーター」という感じでテレビに出ているようです。その庄司麻由里が『へのカッパ』という本を出版さ れたようです。「女優をしていた頃は身長が171cmだったので、主役のアイドルより身長が高くて困ったり、時代劇では、侍より大きな町娘になってしまったり、、」 といろんな事を、パワフルに話しておられました。初エッセイだそうです。どんな本か私は知らないのですが、気になっ たのでお伝えします。

 

 

 

 

多佳子から 5

 

最近、本に関するいくつかのコメントを聞いたり、目に触れる機会がありました。一応伝聞の形で、ご報告です。

 

 一つは、読者の方からメールをいただきました。すごく大事なメッセージが含まれていたので、ぜひ掲載を、とお願いしたのですが、今回はちょっと、と遠慮されました。彼女がすばらしいのは、大きな女のファッションモデルをされていることです。自分に合う服を探しているときに出会ったネットのお店のモデルが、いわゆるステレオタイプ通りの標準サイズの痩せた女性だったので、それでは服のイメージに合わないのではないか、とご自分から提案され、仕事を引き受けられたそうです。まず自分から第1歩を踏み出すこと、ステレオタイプに縛られる自己イメージを自分から破っていくこと、その勇気を彼女のメールから頂きました。彼女を見る世間の目はまだまだ意地の悪いものがあるけれど、モデルになる時は、自己肯定感にあふれているとのことーTALL IS BEAUTIFUL を広めていくのは、日々自らが実感する自己肯定感だと思います。この方は、「モデル」という仕事を通じて、自己肯定感を得られたわけですけど、そのチャンスのない者はどうしたらいいのか、その答えを見出すのが私の課題と思われます。

 

 ちょうどそういうことを考えているときに、その気持ちを見抜くかのようなコメントを、インターネットで検索をかけた時に読みました。いわゆる当事者からのバックラッシュです。身長が180センチ以上ある女性で、素敵な人と結婚して、今は妊娠中だけれど、病院の待合室での待ち時間が長いから、私の「シンデレラ」を読んでくださったそうです。読む前から嫌な予感はしてたけれど、やっぱり読んでみて案の定だった、私の本は大嫌いだそうです。読み終えるとすぐに、「だから、どうせえ言うねん」と思われたとか。確かに私の本の欠点は、「じゃあここから先に進むためにどうしたらいいか」というハウツーを示唆する部分がないことです。いやな思いをさせられる大きな女が元気に生きるにはどうしたらいいか。。。

 

 私は本の中で、モデルになれるね、みたいに励ましてもらってもうれしくない、と書きましたが、その方は、そういう「くらあい」考え方がおいやだったようです。私の本を読むと、日本の男は全員セクハラの固まりだと非難しているようにも思われたそうな。だからどうせえ言うねん。。。。あくまでも視点はニ方向で、と思います。仲間うちで、「大きい女はすばらしい」と励ましあうだけでなく、外に向かっても声をあげることー大きな女のモデルをするのもよし、「大きい女は美しい」と声をあげるのもよし。。。(でもどうやって??? )

 

 ただ一つ、絶対に避けねばならないのは、この女性のように、「私は家族の励ましがあったし、いい主人にも恵まれたから。。」ということで、「愚痴」を書き連ねた女を責めてはならないということです。みんながみんな恵まれているわけではないのですから。30年間とじこめてきた思いを吐き出すだけで私は精一杯だったのですから。恵まれてきた「大きな女」は、「みんながみんなそういうわけじゃないんだから」と世間を責める私を責めるかも知れない。でも、それは、恵まれてきたゆえの傲慢かも知れません。たった一人でも、悩んでいるのは自分一人じゃなかった、よくぞ悩みを書いてくれました、と思う人の気持ちは無視できません。今を生きてる運のいい、恵まれた人も、恵まれず苦しんでいる人も、これまで辿った道を振りかえるのはもうよしましょう。それよりも将来を見て、これから同じ悩みが再生産されることのないよう、ともに活動するべきだと思います。本を出して、これからが勝負だと思うのですが、今の私にはどうしたらいいのかまだよく分かりません。

 

 叱られるのもいろいろな形があるわけで、先日、スーパーでばったり出会った知合いの小柄な女性には、当事者からの批判とは違った、これまたえらい剣幕で叱られてしまいました。(笑)「あんた、何よ。あんた贅沢なこと、書いて。私なんかね、背が低いからって、スチュワーデス、自衛隊、教師、とにかく仕事がぜんぜんなかったんだから。教師に身長制限があるなんて知らなかったわよ」 答えて私、「人って、言われないと分からないんですから、じゃあ、背が低いことの悩みを書いてくださいよ。じゃないと、人様に低いだの、高いだのと指差して言われなくてもすむ”普通”の人は、絶対に私たちの悩みはわからないんですから。。」 「そうよね、書くわよ。」でした。でも、彼女は一度だって、「そんなに背が低かったら、結婚できないね」なんて言われたことはなかったそうです。いいなあ。(今だにうらやましい私。。笑)若い女性にとって、恋愛と結婚は大問題ですから、その部分で自己否定されなかったということは、やはり「恵まれている」ように私には思えます。

 

 でも彼女曰く、

「あなたね、アメリカ人でも言うわよ。私なんか、行ってるクラブでインストラクターにshortie って呼ばれてるんだから。」

「うっそ〜〜。それはおかしいですよ。抗議するべきですよ。アメリカ人なら、そんなこと言ったら駄目だ、ってよくわかってるはずですよ。」

「そうなのよ。同じクラスにものすごく太っているメキシコ人がいるんだけど、あの人には何も言わないのよね。言うと、大変なことになるとわかっているから。私がアジア人で何も言い返せないだろうとたかをくくってるのよ。今度、事務所に言いに行こうと思ってるのよ。」

「当然ですよ。絶対に抗議するべきです。」と私。

 

 彼女によると、インストラクターの中には、彼女の本名を呼ぶのをめんどくさがって、日本人だからと「スシ」と呼ぶのもいるそうです。「スシ」と呼ばれたら、なんと彼女は、「はい」と返事する代わりに、「アメリカンハンバーガー」「ホットドッグ」と返すそうです。二人で大笑いしましたが、それはそれで大変なことです。でも少なくとも、言われていやなことは、いやです、と抗議の意思を示さねばなりません。示せる社会でなければなりません。だから、私のシンデレラ本は、そんな社会をつくるための第1歩にすぎないと思ってます。もう一度、「もう私の顔を見て、でかい、身長何センチ、何食べたらそんなに大きくなるの、とは言わないでください。」(笑)

 

 

 

 

 

多佳子から 6

 

 

机の上を整理していたら、メモ書きが見つかりました。

先に上げた当事者からのバックラッシュの中で、私の本は、日本の男全員を「ワル」と非難する非常に偏った本だという感想がありました。このメモがそういう批判に対する答えになると思います。メモは、別の読者からいただいた言葉です。痛々しい気持ちに共感したから、メモっておいたのです。自分が大きな女でもいいダンナ様を見つけられた、幸せになれたからといって、日本の男全員が「ワル」と思わねばならないぐらい、必死で自分を守ろうとする当事者の切実な気持ちを非難するようなことがあっては決してならないと思います。

 

世界中のみんながそうだと思いこむことで、不意のショックにでも耐えられるようにしているようです。

 

 

 

 

 

多佳子から 7

 

 またお叱りの声をいただきました。南米への出張から帰ってきたばかりの知人に会ったとき、思わず「あ、陽に焼けた?」と、外見を挨拶がわりにしてしまったのです。シンデレラ本を我慢しながら、多少目を通してくれていた知人の逆襲ーほら、多佳子さんだって、外見を口にするじゃないですか。もし、これが色の黒いのを気にしてる人だったらどうするんですか。多佳子さんって、ほんとに矛盾だらけなんだから。。。

 

う〜〜ん、ごめんなさい。実は、私も言っちゃったあとで、しまった、と思ったんですよね。。で、自分があれだけ本でえらそうなことを言ってるのに、なんで言ってしまったのか、と考えて、以下は言い訳です。言い訳をみんなに公表するのは恥ずかしく、みっともないことかも知れないけれど、これも思考・試行のプロセスだと思って、恥をしのんで、新たな批判覚悟で書きますので、我慢していただけますよう。批判が思考を深めると思ってます。

 

言い訳1 知人が南米から帰ってきた、という文脈があって、それが双方で合意されてたこと

 

言い訳2 よって、陽に焼けるという一時的な変化は期待されていたことであり、知人の恒常的身体的特徴を口にする、という意識でなされたものではなかったこと

 

言い訳3 よって、もともと色黒の人に向かって、「陽に焼けた?」と言うのとは性格を異にしていると考えられること

 

言い訳4 知人とは初対面ではなかった

 

言い訳5 初対面の人に、際立った身体的特徴を当たり前のように口にするのが失礼なのではないか。

 

言い訳6 たとえ初対面でなくとも、「相変らず」という副詞?をつけて、身体的特徴を口にするのが、私が本の中で怒っていた侮辱であり、人格テストなのではないか。つまり、知人が南米からの旅行から帰ってきたのではなく、もともと色黒の人だったら、「相変らず黒いね」という言葉は許されない。

 

いろいろ書きましたが、とにかく他人の身体については口にしないよう、これからも一生懸命努力します。

 

 

 

 

 

多佳子から 8

 

 

 以前、シンデレラ本を読んでくださった方が、「長身女性を神の様に崇める^^^」というユニークなテーマをもった、長身女性と長身女性が好きな男性の会員制のサイトがある、と教えてくださいました。時々オフ会も開かれるとか。本を出して、ふっきれた私としては、一度オフ会に顔を出して、いろんな人に出会って、いろんな話を聞いてみたいものです。「長身女性が快適に過ごせる空間作り」というテーマでオフ会が企画されているとか。いいなあ。。(笑)

 

 

 

 

 

 

多佳子から 9

純女さんと電柱

 

今日、オフィスで暇なので、自分の名前で検索したら、どなたかの日記にぶつかりました。私の本を読んでくださったようなのですが、その文章の中で、私を「純女さん」と紹介してくださっていました。はあ、男性にはもてなかったけれど、もてなかったからこそ「純(情)な女」と見てくださったのかなあ、と思いきや、日記をよく読んでみると、日記の主は性同一性障害でしょうか、男性から女性に性転換する治療を受けている人でした。確かに人生の途中で性転換をした人から見ると、私は「純女」ということになるなあ、一応。。日記からはその人の身長はわかりませんでしたが、「純」かどうかにかかわらず、やはり「女」で大きいとボーイフレンドを見つけるのは大変なのでは。。。問題提起の対象の広がりを知って、うれしかったです。別の日記では、学校の教師に「電柱」というあだなをつけられた、と書きこんでいる人がいました。こういう教師に向かっては、まっすぐはっきりと「お前、あほか。ええかげんにせえ。それでも教師か」と怒鳴ってやりたいものです。(笑)

 

 

 

 

 

 

多佳子から 10

アラレちゃん

 

 

 先日、友人知人としゃべっていて、また「大足のシンデレラ」の話になりました(申しわけないことです)。彼らが言うには、「和田アキ子みたい」と言われるのと、めがねをかけていたら”あられちゃん”みたい、と言われるのと同じだというのです。言う人は悪気がないのだから、というわけです。私自身は、”あられちゃん”というキャラクターを知りませんが、漫画のキャラクターなんだろうな、と思いました。そう言われて、「おかしいな」と思いましたが、何しか口下手なもんで、考えが出てくるまで時間がかかるし、あんまり”反論”に出たくなる雰囲気でもなかったので(話をするのはほぼ初めてという人で、しかもビールを飲んでましたー飲むと気が大きくなって、戦闘意識を失うのが私の欠点ですー笑) あんまり言いませんでした。で、ここで密やかに反論です。(笑) あくまでも、思考の積み重ねのプロセスですので、いろいろ考えが前述と重複してたらごめんなさい。

 

私の立場としては、両者は決して同じではありません。理由は

 

1 私は、これまでの人生35年、ずっと「和田アキ子みたい」と言われてきた。彼女の人気の長さをいうわけでもあるが、「あられちゃん」というのは、一時的なことだったのではないか。

 

2 「あられちゃん」が人気があったとき、それはかわいい、というポジティブな意味だったか、それともネガティブな、めがねかけててブスという意味だったか、それがはっきりしない。「和田アキ子みたい」は、私にとってはどうしても、「男みたいな女」というネガティブな意味で35年間言われてきたと思っている。

 

3 決定的なのは、もしめがねをかけていて、「あられちゃん」みたいといわれていやだったら、めがねをはずすとか、めがねを変えるというオプションがある。身体が大きくて、いろいろ言われるのにはオプションがない。

 

4 言う人には「悪気がない」で、言う、言える立場にある人を擁護するべきではない。つまり、悪気がない、で、間違っているかもしれないことを正当化するべきではない。あくまでも、「和田アキ子」であろうと「あられちゃん」であろうと、なるべく身体に関することは言わないようにしよう、と社会に伝えたい。

 

これまでも、「悪気がない」ということが、言う人を弁護し、傷ついていることを”非難”されるようなことが何度もありました。傷つくほうが悪いんだ、人間が出来てないんだ、みたいな。議論の出発点からして違うように思います。今の時代、レイプされた女性をあからさまに「お前が悪い、男を挑発したんとちゃうんか」と非難することはできなくなってる、と願いますが、まだまだ日常の言葉の暴力に関しては、人々の意識が低いのが残念です。で、その原因を考えてみて、ほかのページでも書いてますけど、日本人の心情がネガティブなことと関連があるのではないでしょうか。

 

つまり、自分たちの社会の枠組みの中で、”家族”という擬似的な状況を作り、”家族”のあいだでは、「悪気がないんだから」でほこをおさめさせよう、というプレッシャーが働くわけです。そこには、身体的なことを口にしてはならない、という原理原則が働かないわけです。身内だけで、なあなあ、でごまかそうとする。でも、それは社会の枠組みの外では通用しない。で、私の主張を素直に受け止めてくれない人の多くは、自分たちの考えかたが、日本の外では通用しない、という意識が非常に低いのではないでしょうか。普遍的な原理原則を認めないから、日本人・日本社会はネガティブになるわけです。そういえば、昔、日本からビジネスマンが来て、通訳をしてたとき、アメリカ女性へのセクハラ発言を通訳しなければならないことがありました。いややな、と思いましたが、日本の男がどんなに小さいか、うす汚いか(笑)をアメリカ人にわからせてやろうと思って(笑)、男が言ったとおりに英語に直しました。今でも、あのアメリカ女性のしかめた顔を思い出します。私もいっしょに顔をしかめて、女同士の連帯感を持ったのを覚えています。私のしたことは「国賊」レベルだったかも知れない(笑) で、問題は、そういうことを言うことが間違っている、という意識が日本人になかったことです。それが、私が直面している問題じゃないでしょうか。

 

それにしても、デイ多佳子は「でかいなあ」と言われるのがいやらしいから、言うなよ、という気持ちは、友人知人は理解してくれるみたいですけど、その気持ちが個人的関係の領域にとどまることなく、私以外の「大きな女性」を見ても、また「大きい」だけにとどまらず、ほかの身体的特徴に関しても、あ、何も言わんとこ、言うたらあかん、と、「悪気がない」かもしれないけれど、それでも身体のことは何も言うまい、と、心にブレーキをかけてもらえるようになってほしいものだと、私自身の自戒も含めて、思ってます。そして最後に、どうしたら、「多佳子さん、心配せんでもいいよ。私は絶対にそういうことは言わないし、考えてもいないからね」と言ってもらえる人に出会えるかなあ。。私も「あられちゃん」みたいとか言われてたよ、式の「励まし」はいらないんですよね。みんな、何かといやな思いをしてきているのなら、みんなでそんな社会を変える方向に動くべきだと思います。みんないやな思いをしてきてるんだから、と言いあい我慢して、擬似家族的枠組みの中で沈殿したくないです。ああ、ネガティブ(笑) 

 

 

 

 

 

 

(13) 職場で感じているのは、「女は小さく控えめ、自分が無い方が良い」です。

(匿名、30歳代、地方公務員)

 

『大きい女の存在証明』を読ませていただきました。Y県の地方公務員として今年で勤続4年目になります。

 

デイさんがお書きになった中で「縮み志向の日本人」が暮らす「日本というムラ」を日々実感しながら働いています。

 

Y県庁職員は保守的な長男が多く、皆さん小柄(Y県人の遺伝子のなせる技か???)で160ちょっともしくは未満の方が多いです。私自身、決して小柄ではありません。(子供の頃、「浮沈空母」というあだ名をつけられていました。)上司、同僚を見下ろして仕事をしています。

職場で感じているのは、「女は小さく控えめ、自分が無い方が良い」です。

デイさんがお書きになった「体格的に小さい」のが良しとされる以外にも女性には「人格的に小さい」「スケールが小さい」ことが求められていると思います。

 

スケール、人格、能力、学歴、収入、体格、年齢 全てにわたって男性を超える「大きい女」は疎まれるのです。いわんや結婚相手においてをや・・・です。

 

「私は日本の男が嫌いだ。日本の男を信じない。日本の男との愛も友情も信じない」・・・日本の男性でも「大きい」女性を評価してくれる人がいるだろう・・・と期待して早10数年。いいかげんあきらめの境地に達しています。「いびつな器に自分をあわせようとしても、自分がいびつになるだけ」ですもの。

 

『負け犬の遠吠え』に描かれたように、勉強も、仕事も人一倍がんばって自分を「大きく 強く」してきた女性が、「小さく 弱い」日本の男性のコンプレックスを刺激してしまい30代で独身・子供なし。 それを「負け犬」と呼ぶ社会に私は日本男性のいやらしさを感じます。

おこちゃま文化の日本でスポイルされた男性には、「大きい」女性は怖い存在に写るのでしょう。

モーニング娘が好まれる文化の中には、本当の「大人の文化」が存在するのでしょうか?

最近の日本は、マスメディアの内容も低俗化し、性風俗は氾濫し、看板はけばけばしく、町並みも醜悪になりつつあります。「大人の節度」が失われつつある現在、その原因を模索していた中に、デイさんの著書は解を与えてくださったと思います。

 

 

 

 

 

 

多佳子から 11

 

 

お便りありがとうございました。「体格的に小さい」だけでなく、女は「人格的に小さい」「スケールが小さい」ことが求められているというご指摘、非常に鋭いと思いました。私たちは、戦後の学校教育で「男女平等」とかを習いましたけれど、それがいかに机上の空論だったかは、社会の現実にくっきりとあらわれていると思います。女は、自立して社会的に認められよう、成長しようと一生懸命努力したんですよね。戦後強くなったのは、「女と靴下」と揶揄されるまでに。でも、男社会にあぐらをかくだけでのうのうとしてきた男たちは、女の成長、努力についていけなかったということでしょうか。「男女平等」とは、男女ともに社会的成長を遂げる機会は平等に与えるけれど、その結果の処理は。。。。やっぱり男の手だけに握られ、男の幼稚な「趣味」で決まる、では不平等きわまりないと思います。自立しようと思えば非婚も可能なこの時代、女の次の仕事は男の教育でしょうか。

 

 「負け犬」については、著者が女で、しかも彼女自身が「負け犬」の条件を満たしていましたから、女性による女性への裏切りだと腹立たしく思ったこともありましたが、考えてみれば、後ろで糸をひっぱっているのは男社会の、ベストセラーを”作り上げて”金もうけするのが本命の出版社なわけで、たぶん著者も、たとえイヤだな、と思っても、そういうタイトルはやめてくれ、とは言えなかったのではないか、と想像したりもします。ライターとしては、そのあたりの複雑な気持ちはよくわかります。

 

 メディアといい、男社会の壁は限りなく厚いですが、それでも少しずつ女たちが声をあげていけば、いつか必ず男たちも少しずつ変るのでは、と夢を持っています。(笑) 少なくとも、自分の周りから始めようと。ちょっと気の弱そうな、優しい友達たちに私の本を無理やりにでも読んでもらってーたとえ途中まででもー笑、一応私の周りでは、私に向かって、「大きいな」は言ったらだめ、と自覚してくれるようになったみたいですよ。(笑) で、そういう人たちが、また別の人に、あのさ、大きい女に大きいと言ったらだめらしいよ、と、ぼそぼそと私の噂話でもするように伝えていってくれたらいいわけで。。。最後は口コミが頼りかも。。(笑) 気の長い話ですけれど、ともにがんばりましょう。横に連帯して、仲間を増やし、「数は力」を実感するー上下関係というヒエラルキーでできあがっている男社会を崩す力に必ずなると、私は信じています。(信じてなければ、売れない本は書けない、というのが本音かもー笑)

 

 

 

 

 

(14) 大きい自分を好きになるまでには時間がかった

(じゃんぼ、教師)

 

 初めてお便りします。「身体ステレオタイプと言葉の暴力と戦う女たちの会」を目にしてから、ずっと気になっていましたが、ついに今年になって、多佳子さんのホームページにたどり着きました。

 

 私は、1956年生まれ。日本は九州で育った女です。身長は、175,6センチメートル。ここまで書くと、大体どのような少女時代、そして青年時代を送ったか、想像していただけるかと思います。多佳子さんと同時代を、多佳子さんとほぼ同じ身長で生きてきました。

 

「大きい女の存在証明」・・・一気に読みました。印象に残った数々の言葉を書きとめながら。いろいろな体験の状況が、手に取るようにわかります。前書きにのなかで、「大きいということが、私と私の人生をつくった・・・」ということばに、まさにそのとおりだと、自分のこれまでの人生を振り返り、そう実感しています。私は、今、この大きい自分が好きです。そして、その大きかったゆえの経験なしに、今の自分はありえなかったと思います。今は、心から、そう思うことができます。しかし、このような自分になるには、長い時間が必要でした。悩みました。自分の未来に、希望が持てませんでした。いつも、うつむいていた時期がありました(心も、体も)。何が、私に自信を与え、顔を上げて、前を向いて、堂々と生きられるようにしたのか。。。。お話したいことは、本当にいっぱいあります。ありすぎて、書けません。とにかく、本の中で述べられていること、同感することが多いです。。。。

 

 私は、今、中学の教師をしています。10年ほど前までは、背の低い女の子が、「背が、高〜くなりたい!」といったとき、私が、「でも、先生ぐらい大きいと、それも困るでしょ」というと、「そうだね」という反応でした。今、彼女たちの反応は、「いい!先生ぐらいになりたい。」というようにかわってきました。自分自身背の高いことや低いことに、それほどこだわらなくなったせいかもしれません。逆に、背の高い女の子たちにとって、私が、よいロールモデルになれればいいなと思っています。生き生きと、かっこよく・・・「あんなふうになりたいな」と思ってもらえるような、素敵な人間になれるよう、自分を磨いていきたい、そう思っています。そして、また、彼らが人を人として尊重して接していく姿勢を身につけていくよう、支援していきたいと思っています。

 

 

 

 

 

多佳子から 12

 

じゃんぼさん、お手紙ありがとうございました。感激しました。

 

同年代の方が、若いときに同じような思いを抱いて生きたのに、今はご自分を大好きとおっしゃっることができるー日本で、ご自分をありのままに受け入れられるようになったいうのはすばらしいです。ぜひ、その体験を聞かせていただきたいです。どうして前向きに生きられるようになったのか、私の知らない世界です。よろしお願いします。というのも、私はアメリカに、アメリカ人に「逃げた」人間だからです。若いとき、あのまま日本にいても、今の幸せが得られたか、今でも自分に自信がありません。本が書けたのも、アメリカに「逃げた」からだと思ってます。今でも「じゃんぼ」と呼ばれるのはいやです。(昔、アルバイト先で言われたときは黙って我慢していました) でも、先生は、昔はいやだったけれど、今は「じゃんぼ」と呼ばれるのが好き、とおっしゃる。どのようにして、その気持ちを獲得されたのでしょうか。今も、他人の口さがない言葉や態度に苦しんでいる若い女性たちがいます。どうか教えてください。

 

一つお聞きしたいこと。。。

いろいろ検索をかけていると、今だに学校の先生に、たとえば「電柱」といったあだなをつけられた、といった声がインターネット上で流れています。私自身も、本の中で、教師を批判?しました。子供たちや社会の将来を考えるとき、教師の役割は非常に大きいものがあると思います。先生のあいだでは、生徒たちにどんなことがあっても「あだな」、とりわけネガティブな「あだな」はつけるべきじゃない、みたいな活動?や意識はあるのでしょうか。また、そのあたりの状況も教えていただければありがたいです。

 

 

 

 

 

 

(15) 現在の学校現場

(じゃんぼ、教師)

 

 

私自身、中学のとき「おい、そこの長いの」(ひどいと思いませんか?)と、ある体育教師に呼ばれたことがあります。特に、変な先生ではありませんでしたが、このときのいや〜な感覚は、今でも忘れません。だから、今でも覚えている。今なら、抗議するところですが、当時は消極的だったため、黙って我慢していました。

 

 ところで、現在の学校現場ですが、私たちが中学生だった頃に比べると、人の嫌がる呼び方については、かなり指導していると思います。「ちび」とか「デブ」とか「黒」とか侮辱するような言葉はもちろん、名前をもじったものでも本人が嫌がっている場合は、使わないようにしています。私たちが子供の頃は、たとえそう呼ばれても、それを先生に相談したりしなかった状況がありますが、最近は、子供のほうから相談に来ます。そもそも、身体的な特徴をあだ名にして呼んでいること自体が、少ないと思います。(質問されて、改めて考えてみて、そのことに気づきました)これは、「いじめ」が社会問題になり、そのことに神経質(いい意味でも、悪い意味でも))になってきているからかもしれません。

 

 ただ、思うのは、私のように身体的なことでの劣等感を強く抱いた経験のある人と、そうでない人では、同じような劣等感をもつ子供の気持ちに対しての共感の質がかなり違うということです。とても小さな男子生徒のことを職員室で話題にしている、こんな会話が聞こえてきました。「かわいいよね〜。・・・(この後正確に覚えていないので書くのをやめておきますが、要するに、小さいことについて、なんといったらよいのでしょうか・・・馬鹿にしているのではありませんが、楽しい話題にしてしまっているといったらよいでしょうか)・・・」私は、聞こえてきて、そんなことあの子の立場に立ったらいえない。あの子は、きっとそのこてで悩んでいるはず。まったくわかっていないなあ」と、思ったことを覚えています。

 

 大きい、小さいという自分に自身が持てるように、支援していかなきゃあいけないと思っています。それは、事実なのだから、その自分を受け入れることができるように・・・。同時に、周りの子に対しては、想像力を持つことと相手をレスペクトすること、多佳子さんが言われるように(間違っていたらごめんなさい)、普通という意識からの開放(これが、日本の社会では難しい!!!)・・・これが、私の課題です。

 

 

 

 

 

多佳子から 13

 

じゃんぼさんのお話によると、このごろは通知表に、身長、体重を記す欄があるとか。いやですねえ。成長の記録なんてとんでもない。個人がどうしても記録を残したかったら、柱に傷でもつけておくほうがずっとあったかいです。学籍簿を男女混合にするとかしないとかいった議論より、やはりこういうところを検討、配慮してもらいたいものです。

 

 

 

 

 

 

16) 匿名さんとの会話

(匿名、30歳、専業主婦)

 

(匿名さんはブルー、多佳子はグリーンです。)

 
はじめまして。HPを拝見しました。身長177センチの30歳です。背が高いのは、思春期には確かにコンプレックスでした。好きな男子も私より背が低く、告白されたことも無かったです。運動が大嫌いで、本を読んだり、音楽を聴いたりするのが好きな子でした。母は157センチ、父は160センチで、私がなぜ177センチなのかは未だに謎です。母はいつも私の背を気にしていて、それが私は本当に嫌でした。いろいろなコンプレックスを抱え、いろんな事から逃げていました。

でも今は幸せです。同じくらいの身長の夫にアタックして、恋愛で体当たりをし、結婚して、子供もできて、毎日穏やかに過ごすことが出来てきました。逆に、スポーツにチャレンジしたくなってきて、何か始めようと思う
日々です。

一方で、アメリカや世界に憧れもずーっと持っていて、人種のるつぼ、といわれる国、背の高さを気にしなくて良い国、私を認めてくれそうな国に、少しでもちかづきたくて、異文化も言語も知りたくて英会話の勉強を始めました。

アメリカは生きやすいですか?
背が高いのを気にせず、幸せになれるように、周りの人々に感謝して、お互い何でもがんばりましょう!!



周りの人に感謝して、というのはどういう意味でしょうか。



今の私がいるのは、両親のおかげ、夫のおかげ、子供のおかげ、もっと広く言うなら、親戚のおかげ、友達のおかげ、近所のママ友のおかげ、夫の友達のおかげ、夫の両親のおかげ、私のことを「背が高い」とはっきり言う人も、私と関わることを避けずに付き合ってくれている人だし、私の人間関係に携わって日々、一緒に生きている人達です。こちらが先に感謝すれば、相手からも感謝が返ってきます。

私を見下したり、排除しようとしたりする人は、「そういう人」で、私は深く関わらなければ良いだけのこと。背が高いことにこだわる人、というより、そういう狭い心の人とは私のほうから距離をおくだけ、ということです。

そういう人に怒ることも、私のエネルギーを無駄に使うので、したくないだけです。トールクラブ、おもしろそうですね。

うーん、私が入っても、普通にお茶するだけで、周囲の目を気にするような行動はあえてしないと思います。

最近やっと穏やかになれたんです。私が読んだ本は、
1.水は答えを知っている
2.江原啓之さんの本
他にもマザーテレサの言葉や、相田みつをさんの日めくりカレンダーで気付かされたり、結局、何でも、自分の心の持ち様で、全て決まるんだと思いました。

私は、いろんな人と出会いたいし、話をしたいので、攻撃はできるだけしません。できるだけ、笑っていたいです。



私のことを「背が高い」とはっきり言う人も、私と関わることを避けずに付き合ってくれている人だし、私の人間関係に携わって日々、一緒に生きている人達です。ああ、なるほど。で、感謝、となるわけですね。納得です。
私個人としては、こちらが感謝したら、相手からも感謝が返ってくる、すべてが自分の心の持ちようで決まる、といった考え方は、ちょっと”宗教的”に思われるので、おっしゃっている意味はようく分かるのですが、受け入れ難いものがあるのは否定できない、といったところが正直な気持ちでしょうか。

 

あと、「心の狭い人」とは距離をおく、というのは当然です。ただ道を歩いていて、とか電車に乗ってるときとか、すれちがいざまに見知らぬ他人からの、人様が言うところの「悪気がない」攻撃を受けなかったでしょうか。

日常でよく出会う人なら、距離を置くのも可能なのですが、私にとっては、そういう見知らぬ他人からの心ない言葉と視線ー顔のない大衆の残酷性みたいな感じで、私の本には書きましたがーが、かなりつらいものがありました。もちろん、無視したらいいじゃん、と第三者の人はおっしゃるでしょうけど、それが人生で1度だけならどうってことないでしょうけど、繰り返し繰り返し言われるとーアメリカでも日本人になら言われますからねー、人が社会が信じられなっていく、というプロセスを私は経ました。この点に関しては、アメリカでは絶対に見知らぬ他人にそういうことを言うことはない、と言いきれます。この社会の違いは大きいです。ここの部分をなんとかしたいな、とか私は思ってるのですが。。。

 

  
うー、多佳子さんも、ひょっとすると、心の狭い人かも。どっちをとるか、です。見知らぬ人の注目は、攻撃なのか、珍しいから見てるだけなのか。そこにこだわって生きるか、こだわらずに生きるか。

どっちが、好きなことに打ち込めるか、自分も楽しくて周りの人も楽しいか、
生きやすいか、生きにくいか、どっちが笑っていられるか、です。


おっしゃっていることは、まったく正しいです。
ただ、もうどこかで書いてると思うのですが、問題解決には2方向で取り組まねばならない、と思ってます。一つは内向きの解決方法。つまり、たとえばそれは、トールクラブを作って、仲間うちで慰めあい、励ましあい、
自分たちを確認しあうというもの。まず、私たち自身が、私たちは美しい、と自信をもとうというものです。おっしゃってるのも内向きの解決方法です。

”個人的な”気持ちのなかで、いやな人、苦しかった過去をどう処理するか、だからです。その人に起こることは、すべてその人の気持ちのもちようだ、というのはほんとによく理解できます。ただ、個人的な内的な世界だ
けで問題を解決しようとしても、限界があると思うのです。というのは、「言う」人を止めることができないからです。私は、無駄なことに挑戦している、と言われると思いますけど、この「言う」を止めたいのです。「言われたこと」をどうとるか、じゃなくて、「言われる」ことそのものを止めたいんです。解決のほこ先を、当事者の「心のもちかた」に収斂させるのではなく、他人にも責任を負ってほしいのです。なぜなら、私たちはみんな同じ社会の構成員だからです。

でも、おっしゃってる内的な解決方法を外向きにすることも、もちろん可能です。ここの日系書店で、おっしゃってた江原さんの本を見ましたので、ちょっと立ち読みしました。彼が宗教家かどうかなのかは、立ち読みではわからなかったですけど、もし、「気持ちの持ちよう」という個人の内的処理を外向きに広めようとすると、たぶんそれは宗教になるのでは、と思います。で、私には、幸せになるために個人はどんな心構えをもつべきか、どんな人が心が広くて、どんな心が狭いか、を人に説く能力はないので、私が考える外向きの解決方法となると、やはりみんなが共有している社会構造に依存する方法、つまり教育ということになるでしょうか。二度と私たちが通ったいやな思いをする人間が出ないようにするための教育、学校教育とか社会教育といったところでしょうか。

たとえば、鉄道事故があったとしますよね。で、死者が出る。遺族の人は、なんでよりにもよってうちの人が、なんで他の人は生きているのに私の娘だけが、と嘆く。でも、どんなに嘆いても恨んでも、死者が戻ってくるわけではない。で、「心のもちよう」が問われるわけです。その苦しい現実を納得するために。でもそのうち、なんとかして、この苦しみを嘆きを前向きなものにできないか、という気持ちがわいてくる。テレビで見る被害者がよく口にするのが、「もう他の人にはこの思いを味わっていただきたくない」です。二度と同じような事故が起こらないようにしてほしい、そうじゃないと、死んだ私の家族は犬死だ、みたいな気持ちです。このかけがえのない人の不条理な死が、今後の、ほかのみんなの何かの役に立てるのなら、死も無駄ではなかった、という安堵と納得です。死が個人的な領域の納得から、より大きな社会的意義を持てるようにすることー私は、身体が大きくていやな思いをしたことも同じような気持ちで考えています。

 

私たちがかつて通ったいやな思いを、もう若い、大きな女性たちにはしてもらいたくない。いっぱい言われていやな思いをした、この悔しさが「言う」人を止めることができるような力にしたい、そんなところでしょうか。

おっしゃっていることはほんとうに正しいんですよ。で、その正しい解決方法に加えて、社会教育もできたらな、と私は思っているわけです。で、社会教育となると、「あんた、ここ間違ってるで」といわなくてはならないわけです。戦闘的になるかもしれない。ならないようにして、相手を納得させる方法を私も考えなくてはならないな、と思ってます。戦闘的になると、反発されるだけで、気持ちが通じないことが多々ある、とはよくわかっているのですけど、私の性分ではなかなかむずかしいです。(笑)


世間の人々に、身長のことを言わせないようにする、というのは、無理かと思います。背が高いのは発育上そうなっただけで、自然なことでしょう?

病気でもないし。トールクラブの目的とされる、慰めあい、励ましあおう、というお気持ちも、私には??で、その必要がないのです。一緒に美味しいものを食べて、写真撮って、家族の写真でも見せ合おう!とかトールサ
イズのお店の情報交換とか、思春期でも今でもネガティブな要素はいらないと思います。

問題視していくと、不自然なことになり、気にせず普通に生きている背が高い人が、余計に注目されて生きにくくなるような気がします。

傷つく言葉や態度は、同じ経験をした人にしかわからないものだし、そういう教育は小学校でもされていると思います。「人の嫌がることはしない、言わない」という教育なら、もう受けています。また、体の特徴を言うと傷つく人もいる、ということはかなり多くの人が分かっているのではないでしょうか。

言い方、見方の問題でしょうか。ニコニコしながら、「背が高くて素敵ですね。」と言われても、睨み返しますか?私なら、嬉しくて、「はははっ、高いでしょ?服がなくて困るんですよー(^^♪」で終わりです。

思春期に悩むか悩まないかも、周りのせいにしていては、ずーっと悩んでばかりで、解決しません。周りの人がネガティブな人なら、そのまま救われないでしょうが、自分のことを思って、「気にしすぎだよ」「服が似合う
からいいな」「都会にでたら背が高い人が一杯居るよ」というような暖かい言葉を素直に受け止めたとき、解決していくのではないでしょうか。


私は背が高い旦那さまと、子供と楽しく過ごせていますし、ご近所ともそこそこに楽しく暮らせています。服も靴も一応、揃うし、世間と仲良く暮らして行きたい(生きたい)です。

多佳子さんは、背が高くて良かったことが無いのですか?

本を出版していること自体、十分うらやましいことで、背が標準ならそんな経験もできなかったじゃないですか?

周りを攻撃する必要がないのに、なぜ攻撃するのか、やはり、心の持ち様が全てを決めているのではないでしょうか。「背が高いってとっても素敵!」とHappyな感じのタイトルで本を出されたらいいなあ、と思いました。


ご意見ほんとにありがとう。問題が研ぎ澄まされていって、本質があらわになっていく、みたいな感覚を頂いています。

世間の人々に、身長のことを言わせないようにする、というのは、無理かと思います、とのことですが、ここが、アメリカに住んでいる人間と決定的に違うところでしょうか。アメリカに住んでいると、「無理」とは考えません。自分ひとりでも声をあげることで、社会は変えられると考えます。自分が声を上げて、横に連帯感を広げていくのです。こういう点は、アメリカ社会と日本社会の違いとしてあげられるのかもしれません。
たとえば、視点を変えて、こういう問いはどうでしょうか。

アメリカ人にできるのに、どうして日本人には無理なの? やっぱりアメリカ人が教育されてて、日本人が教育されていないことがあるのではないの、と。私は、背が高くて良かった、と思ったことがないと思いますねえ。(悲) 


本が出せたのは年をとったからですよ。若いときに悩んでいるときには出せなかったです。そして、出したからこそ、悩みから解放されたみたいな。。年がいって、感受性がにぶり、悩みを文字で表せるようになって、そし
てやっと「癒し」がやってきたという感じです。悩みを吐き出すことが「癒し」の大きな力となりました。大きかったから、本が出せてよかった、とはまったく考えません。



なるほど。前向きですね。ポジティブな感じがします。
さすが裁判の国、というところでしょうか。
自分が正しいと思うことを主張するのですね。
私は、日本社会で無理と言ってるのかもしれませんね。
日本しか知らないのですから。
別の言い方をしますと、身長のことを思わせないようにするのは、無理だと思います。と、言い換えましょうか。

多佳子さんの「言わせたくない」という主張が世間に広がってそれで、人の口を防げたら満足でしょうか。心では「背が高いなあ」と思われていても、口には出さない人が増えるわけですよね。こちらを見てるのに、背を見られてるだろうに、何も言わない人が増えるでしょう。それで満足されるのでしょうか。

やはり、不自然ではないですか。
私は、日本でもアメリカでも、声を上げる必要はない、と思っています。
国の違いですね。アメリカの歴史は詳しくは知りませんけど、移民が多いのでしょう。人種が多い、身長、体重、肌の色、目の色、髪の色等いろいろな国の人が、いろいろな体の人が集まってできた国、でしょう。

最初から、集まった人々が、さまざまで、バラバラで背が高いことくらい、珍しくなかっただけではないでしょうか。



まず、何も言わない人が増えるでしょう。それで満足されるのでしょうか。の部分ですが、はい、とお答えしましょう。人種差別、宗教差別、同性愛差別、肥満者差別ー人が心の中で思うことは止められません。でも、口に出したら違法というのがアメリカです。だから、口に出す、出さないが境界線になって、社会的ルールになっています。といって、私は、日本でもそういう法律を作るべきだ、といったことを主張しているわけではありません。たぶん日本にも、そういう法律はあるのでは、と思いますけど、調べたことはありません。

最初から、集まった人々が、さまざまで、バラバラで背が高いことくらい、珍しくなかっただけではないでしょうか、の部分については、はい。珍しくないでしょう。ただ、本にも書きましたけど、女の人でも182センチぐらいになると、恋愛・結婚と寂しい思いはしています。だから、自分たちのトールクラブを作って、親睦を深めようとするわけですよね。でもそれでも、男女差があります。男性は190センチでも、150センチの人と結婚できるわけですから。。

背の高い女の人は、寂しい、と言ってました。アメリカでも好奇の目で見られる、ということはあります。でも、見も知らぬ他人に声をかけられる、ましてや私みたいに「結婚できないね」なんてことを言われることはありません。これは侮辱となります。で、日本人の場合は、これが侮辱という意識がほぼないのではないか、という問題意識を私はもっています。



もう少し、楽天的に過ごされることをお薦めします。
もっと簡単に、幸せに、前向きに生きられるはずです。
背が高いことに意識を集中しすぎて、多佳子さんの思考がアンバランスな感じがします。
好きなことをして、趣味の合う人と一緒に過ごして、生活の充実感を得られるように、変えて行かれたらどうで
しょうか。

花を植えたり、歌を歌ったり、コンサートに行ったり、歩いたり、自然の中へ散歩に行ったりしてますか?
服も、きれいな色の服を着てますか?
やわらかいピンク色を着てみてください。
おしゃれを楽しんでますか?

多佳子さん、こんなに身長のことばかり言う女性に、私は会ったことがありません。
私の友達は174センチ、知り合いも174センチ、164センチ、で私より低いですが、背を気にしてました。

でも、おしゃれして、女に磨きを掛けようという思いは、一緒でしたよ。
周りを攻撃するのは、周りに認めてもらえないからではないですか?
まず、自分を変えるほうが、大事だと思いますよ。
身長は、どうにもならないものです。
もっと生活に満足感を持ちましょう。
と、勝手ながら、思いました。

アドバイスありがとうございます。女として磨きをかける、ですか。そうですね。老体にむちうって、もう一度ハイヒールでもはいてみましょうか。(笑) アメリカで、女としてのちょっとした実験です。(笑)

 

 

 

 

 

16b) 匿名さんとの会話(つづき)

(匿名、30歳、専業主婦)

 

 昨日は今までのメールを見た夫から一言言われました。

「かなり時代が違うでなー。今は日本も背の高い女の子が増えたけど、当時はやっぱり、特別な感じはしたと思うよ。

悩んで苦しい思いをされたことを理解してあげなあかんよ。」と。

 

夫のおばさんは60歳手前ですが、170センチあります。

結婚式で、私を見て、「いやー私より高い子に会えて嬉しいわ!」とおっしゃいました。

素直に表現されているだけですが、私としてはちょっとショックもありました。

(今となっては、もうどーでもいいことですよ。)

 

今は日本もアメリカの影響をいっぱい受けていて、ファッションも多種多様で、発想も若い人ほど自由で、背が高いのを良いと思う人も増えています。ジロジロみる人は田舎のご老人に多いような気がします。

でも、日本は日本、多佳子さんのいう鉄格子みたいなものは、あると思います。

いじめの問題も日本に多いのは、鉄格子のせいでしょうか。

ふと、娘のことが気になったりしますよ。

 

アメリカに逃げたとおっしゃいますが、それも前向きな生き方だと思います。

自分を認めてくれる環境に自分がいることは、とても安心すると思います。

今の私があるのも、夫のおかげです。前向きな夫が、私の背の高いのを気にせず、「何しょうもないことで悩んでんの?人間は中身だよ。」と私を認めてくれて、結婚してくれたから、落ち着いて暮らせるようになったのです。

 

「悩みがある人は、悩むから悩み事があるんだよ。」と、悩みごとのない夫はしょっちゅう言います。

私もかなり変わったと、言ってくれます。

以前は人に左右されて、気分がコロコロ変わっていた、と言います。

 

時代、自分の生活環境、共に住む人、によって人って変わるんだと思います。

自分の話すことや心の持ち様も、今の自分と周りの人に、大きく影響するんだろうな、と思います。

悩んでる最中では、少しも分からなかったことが、今頃になって、理解できてきました。

多佳子さんは多佳子さん、私は私の解決の仕方があったんですね。

 

いつもいろいろと真剣な考え、思いを伝えてくださり、感謝しています。

 

私のほうこそ感謝です。また何かあれば、いろいろ話をしてくださったらうれしいです。いろんなアイデアを出し合って、お互い刺激しあうのは、私にとって「癒し」のプロセスなのです。昔は、気持ちを出すということができずに、長いあいだ封印してきて、それで性格が???になった部分が多々あると思います。これからもいろいろ教えてください。

 

 

 

 

 

多佳子から 14

 

 

きのう、また知人に、「大きい、大きいと、多佳子さんが言わせよう、言わせようとしているんじゃないの」みたいなことを言われました。「言われる」のには、本人の人格、性格に責任があるのでは、という発想でしょうか。ああ、いやだあ。。友人知人間の雑談的状況ならいざ知らず、見も知らぬ、通りすがりの人間に言われてきたことへの理解はゼロって感じで。。。もっといえば、私が「大きい、大きい」と言わせようとしていると感じるから、人は、じゃあ、言ってあげようとばかりに言うのかあ。。(悲) いや、私が言わせようとしていると感じる人間なんて、どんなヤツラなんだ!! (怒) とぶつぶつ思っていたら、その知人から、「言葉が足りませんでした」という連絡をもらって、曰く、潜在意識の中に(いや、意識的にかもしれない)「どうせあんたもそう言う事考えてるんでしょう?」という疑いを持っていらっしゃると思えたので、それが相手に言わせてしまっているという面があるという事を言いたかったのです、貴方の方に原因があるから自業自得と言っているのではありません、とのこと。

 

で、私も納得しました。確かに、その通りだと思います。こちらは、もう相手に対して、いつ言われてもいいように、と防御壁をはりめぐらしていますから、身体からオーラとして出ているその壁を感じると、もしかしたら相手の人は、その壁に誘発されるように言ってしまうのかも知れません。もっと奇特な人は、その壁をこわそうとするかのように、「大きいですなあ」と言ってしまうのかも。ということは、「大きいですなあ」というのは、私に近づこうとする挨拶言葉みたいなものだったのでしょうかあ。。挨拶言葉だからこそ、「悪気がない」ということになるのでしょうかあ。ふ〜〜〜ん、信じられないような新しい発想です。(笑)

 

 通りすがりの人間の「大きいなあ」が「お近づきのしるし」に発せられたとは決して思えないけれど、でもたとえ1時間でも話をする機会があった人のそれは、「お近づきのしるし」だったのかあ???。こういう風に考えていくと、読者の人からいただいた「すべて心の持ち方次第」という言葉が生きてきます。当事者の心の持ち方次第で、身体から発せられるオーラのメッセージも変わるでしょうし、メッセージが変わると壁も消えて、必要以上の「お近づきのしるし」の挨拶もなくなるのかもしれません。 ふ〜〜〜ん、すごい。やっぱり人生だいぶ損したかなあ。。(悲) でもやっぱり言いたいなあ。。最初に、私に防護壁を作らせた人?社会?の責任はどこへ行くのよ、と。

 

 

 

 

 

多佳子から 15

 

 

 読者の人から、「自分の心の持ちかた次第ですよ」とずっとおっしゃっていただいたので、そういう個人の内面的な解決方法と、私が考える教育といった外向きの解決方法との接点はないものだろうか、と思って、知合いの社会学の先生に話したところ、社会学者の分析?は次のようでした。つまり、まず、問題の解決を長期的に考えるか、短期的に考えるかの違いではないか、ということ。「心の持ちかた次第」というのは短期的なもので、とにかく自分が幸せになることを目的となる解決法、でもそれでは、問題の根本的な解決にはならないから、社会そのものを変えようとする長期的な解決方法も必要とはされるけれど、まあそれでも、当事者である自分自身が生きているうちに解決されるとは期待できないから、じゃあ、自分が生きているあいだの幸せを考えたら、やはり短期的な解決方法ーつまり、社会よりも自分が変わることを選ぶのが得策になるのではないか、ということです。とりわけ、日本社会の枠組みは鉄格子みたいなもので、どんなに揺さぶりをかけても鉄格子がはずれて、社会が変わることはほぼ不可能と考えられる。だから、鉄格子の中にいる人はやはり、社会より人間が変わることを選ぶのではないか、ともおっしゃいました。


私は、アメリカに、アメリカ人に「逃げた」人間です。「逃げる」ときはそういうことを具体的に考えたわけじゃないけれど、やはり意識下にあったような気もします。話を聞いて、ふ〜〜〜ん、そういうことだったのか、と納得しました。アメリカには鉄格子はないと思います。むしろ、社会の枠組みは柳の木でできてるようで、右へ左へと揺れますが、それなりに丈夫で、かつ止揚していくという感覚が私にはあります。日本の鉄格子では、その重みで沈みはしても、上昇しそうにはないなあ。(悲) とにもかくにも、人間のサバイバルに正解がたった一つ、というわけではなく、それぞれが自分の置かれた状況でがんばるしかないわけです。そう考えると、私のシンデレラ本は、鉄格子をとりのぞく力をもつことはありえないけれど、だからといってあきらめる必要もなく、鉄格子が少しでもさびるように、そして鉄格子の中でがんばっている人たちのたった一人の人にでも、「ああ、すっきりしたあ」という思いをしていただく手助けができたらうれしいな、と思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 多佳子から 16

 

 

  「自分を変えよう」「見方を変えよう」という声を読者の方から頂きました。いい処方箋だと思います。正直なところ、私が考えたことのなかった処方箋です。自分を変えるなんて、とんでもない、思いつきもしませんでした。私は私だ、という思いでずっと生きてきたような気がしますから。(笑) その一方で、「自分を変える」とは一種のマインドコントロールだという声もいただきました。つまり、「自分が楽しくなる」以外のことは考えないようにさせ、君も幸せになれるよ、なろうと呼びかけるセルフサポートです。そういえば、アメリカの本屋さんにも、ハウツーもののセルフサポートの本はいっぱい並んでいるなあ。。


ただ気になったのは、セルフサポートの本は人格ができあがった大人向けです。「自分を変えよう」という処方箋は、「自分」という人格を形成中の子供には通用しないのではないか、という懸念です。まだ「自分」ができあがっていない人に、「自分を変えよ」とは言えないのではないか。。確かに、子供でも、いじめといった外界からのプレッシャーには、子供なりに必死に考えて、時には生死を賭けて対処しようとしていると思うのです。それが子供の、いや人間の生命力だと思うのです。

 

でも、その動物がもって生まれている生命力まかせにしてもいいのでしょうか。シンデレラ本は、人は何も知らずに生まれてくる、社会が、環境が人を作る、という視点に立っています。社会を変えるよりは、自分が変わろう、自分の見方を変えようは一つの立派な処方箋ではありますが、それによって社会の現状を温存してしまうと、「自分のない」子供は相変らず社会の犠牲になる、つまり子供たちはいつも心の中でどこか、外に向かって表現できない不快感、苦痛を鬱積させていくのではないか。不快感の種が何であろうとです。表現できない鬱積ーそれこそが大足のシンデレラが通ってきた道、悩みの姿です。私の”姿”を再生産させてしまうことだけは避けたいと思います。

 

そうじゃないと、私が通った悩み、人生は意味がなくなります。やはり「自分を変える」対症療法だけではなく、教育が、それも、学者が言うところの村共同体の暗黙のルールに挑戦できる、しようとする村の合意と社会教育が必要なのではないでしょうか。私がやろうとしているのは、村の合意をとりつけようとする選挙運動???(笑) 

 

 



 

 

 

多佳子から 17

 

 

 先日、友人に言われました。多佳子さんは、仕事柄、言葉に敏感すぎるのと違うかな、と。たぶん当たっていると思います。「人の言葉に敏感に反応して、自分に負荷をかけるのは損じゃないですか。人が言った言葉なんて、頭の片隅で、ああ、そんなことも言われたっけ、ぐらいにしておいたほうがいいですよ」と。その通りだと思います。その処世術があれば、大足のシンデレラの人生もだいぶ変わっていたかもしれません。「お前なんか、売春婦にもなれるかあ」と言われても、ふふ〜〜〜んと忘れられる、というのはすごいと思います。忘れられずに人生をすりへらしました。なぜ忘れられなかったのか。そこにも問題があるように思います。


 思うのですけど、私って本音で生きてる人間なんですよね。で、思うに、世の中には本音で生きてる人ってけっこう少なく、本音で生きてるからこそ変人になるらしい、とこのごろ気付きました。どうやら世間の人の多くは、他人から「あの人はいい人だよ」と言われたいらしく、他人に喜んでもらうべく、いい言葉、聞きやすい言葉を口にするみたいです。で、私はその部分がぜんぜんないのです。つまり、ほかの人に「いい人だ」と思われたいという願望がまったくありません。「いい人だ」と思われたいばっかりに、心にもないことをしゃあしゃあ言うことなど全くできないし、そんなことをするのは時間の無駄、エネルギーの無駄と思ってしまいます。もしそういうことをせねばならない時は仕事関係で、お金がからんでいるときでしょう。

 

仕事以外で、そんなことをしなければならない人とは付き合う必要なし、とか思います。だから、自然に友人も少なくなるのでしょう、「あの人は変わっている」という評価とともに。。私が「変人だ」というオーラを出しているから、いろいろ口さがないことを言われてきたのかもしれません。。「いい人」を装っていたら、いやなことを言われずにすんだのかなあ。。。前出の「大きい、大きいと言わせよう、言わせようとしているのではないの」というコメントとつながる部分があるような気がします。人間と言葉の関係も考えねばならないようです。それに、私の生育歴も。。。

 

 

 

 

 

多佳子から 18

 

 

 直接聞いたわけではないのですが、編集部経由で声が聞えてきました。私の記事は、和田アキ子氏の尊厳を傷つけているのでは、という非難?もしくは指摘です。やめてくれよ、というのが私の第一反応でした。和田アキ子みたい、と言われていやだ、とはっきり言明したら、彼女の尊厳を傷つけることになるのでしょうか。”尊厳”といえば、以下のような文章を読んだところでしたので、私も過剰反応しているのかもしれませんが。。。

 

 たとえば、(教育基本法の)前文の「個人の尊厳を重んじる」が一人歩きした結果、運動会のかけっこで、足の速い子はゴール手前で足踏みをして待ち、全員そろってテープを切るという奇妙な事態になった。足が遅い子の”尊厳”(” ”はデイ)を傷つけないようにという、間違った平等思想に陥っているわけです。 (「文芸春秋」2006年7月号)

 

 ”尊厳”とは何なのでしょうか。”尊厳”という言葉を使いさえすれば、いいことをしている、言っているのだ、という一種の洗脳の気配はないでしょうか。足が遅い子の”尊厳”を傷つけないとは、足が遅い?ことを隠すことなのでしょうか。それではまるで、足が遅いことを悪いこと、劣等なことと決めつけているのではないでしょうか。和田アキ子氏の”尊厳”にも、同根のようなものを感じます。和田アキ子氏はタレントです。人目にさらされ、時には批判されるのは彼女の”めしの種”であり、彼女が同意していることでもあるわけです。彼女のイメージゆえに、マスコミが一方的に繰り出す情報の受け手である大衆の一人である私が被害を被ってきたと思っているのであれば、彼女が体現するイメージに対して、私が抗議?の気持ちを表すことは私に当然許されていると思います。

 

 私の”権利”だとは言いませんがー(権利という言葉はよくわからず、嫌いなもんでー使えば、”尊厳”と同じく、とにかく口にした者の勝ち、みたいな感覚を使う側にもたせるので嫌いですー笑) その当然の行為を、和田アキ子氏の”尊厳”を傷つける、という言葉で疑問視する??? 私の尊厳?はずっと傷つけられてきたのかもしれないのに。。。やめてくれよ。。。私の勉強不足で、これ以上に思考が深まりません。(悲)

 

 

 

 

 

多佳子から 19

 

 

 読者の方から、「背が高くてよかったと思ったことがないのですか」と尋ねられて、ない、といったん答えて、何やら「私はそんなにネガティブなのだろうか」といったんかなり落ちこみましたが、それからもちょこちょこ考えていました。やっぱりないと思います。背が高かったら、高いところのものに手が届くから、なんていうのは、私にとってはよかったうちに入っていないもので。。

 

で、考えていて思いだしたのが、何年か前に中学時代の友達に会ったときのことです。違うグループに属している二人の人に会ったのですが、二人とも同じことを言うのでびっくりしました。3人グループだったのですが、二人とも、グループのもう一人の人を名指しして、「○○さんが一番出世すると思っていた」と言うのです。まあ、私は変わりものですから、誰も出世するなどとは思わなかったのでしょうし、その通り出世しませんでしたからどうでもいいのですが、私がびっくりしたのは、中学時代からそうやって、グループの中の人間を「比べて」、ああ、○○さんが一番出世するだろうな、とか考えていたという事実です。

 

 私は、「背が高くてよかった」などと思ったことはありませんが、同時に、他人と自分を比べたり、他人同士を比べて、「私のほうが上になったるぞ」とか「○○が一番出世するだろう」などと考えたこともないのです。これはどういう性格なんだろう、と私自身が疑問に思うようになりました。言いかえれば、比較して、自他のあいだにヒエラルキーをつけたがる他人の気持ちがはじめてわかるような気分になってきました。どうやら世間には、私のような性格より、自他を比べたがる人間のほうが多いのでは、という気がしています。けっこうお暇な人が世間には多いのですねえ。。(笑) それで、こういう風に考えていくと、思いいたったのですが、「背が高くてよかったと思ったことがない」というのは、決してネガティブなことではなく、むしろ人と比較しなくてすむ自己が確立しているというポジティブなことなのではないだろうか、ということです。。「背が高いから素敵」とか、「小柄な女は運がいい」とか自分に言い聞かせなければならないほうがよほどネガティブなんじゃないかなあ。。そして、そういう比較で成り立つネガティブな言葉で自分を納得させねばならない社会と人間のありようが「日本」の特色と言えるのではないでしょうか。つまり、自他を比較しなくてもすむほど自己が確立した人間は、やはり日本ではかなり変人ということになるということでしょうか。アメリカ人が、そういう自他の比較を万が一口にでもしたら、侮辱か差別でおおごとになりそうな気がしますが。。。

 

 

 

 

 

 

 

(17) 私は毎日1人で泣いていました

(匿名、女性、20代)

 

 

多佳子さんの本、私にとっては本当に衝撃的でした。私たちに共通するこの問題を、まさか本にして出版される方がいたなんて! そんな勇気、私にはなくて・・・。 これまで生きてきて、ただの一度も、自分がこの身長を気にしていることを人に言ったことはありません。 友達はもちろん親兄弟にすら、涼しい顔をしています。話題にしたこともありません。服や靴の悩みでさえ、学生時代から1人で工夫してきました。 「かわいそうな、惨めな人」と思われたくないからです。 プライドだけを頼りにして、必死に生きています。 でも、本当は言いたくて仕方なかったのですよ。 私は辛いと。私は傷ついていると。助けてほしいと。

 

私の母も身長168cm。55歳です。 160cm代でも、母の青春時代は、私以上に過酷だったでしょう。 それが想像できるので、余計に言えなかった。 私は長身女性にとって恵まれた時代に生きているのだと思います。 それでも、まだ昭和の終わっていない時代、小学6年生で170cmだった私の気持ちを母がきちんと察してくれていたかどうかは分かりません。 私は毎日1人で泣いていました。 大袈裟でなく、1年365日のうち、泣かない日は10日くらいのものだった。 それくらいひどく傷ついていました。 母に何か言っても、結局どうにもならない気がしていたから、自分の気持ちを話さなかったのかもしれません。 1人で泣くことしかできなかったのです。

 

多佳子さんの本を知ったとき、ついに来るべき時が来た・・・そんな風に感じました。 正直に言うと、「恥ずかしい」という気持ちがやはりありました。 本の内容は、そのまんま、私の心を映したようなものですから。 前述のように、私は今まで自分の悩みをひた隠しにしてきたのに、「あぁ、世間が私の恥を知ってしまう」、そんな風に思ってしまいました。 もちろんそれは、最初だけの話です。 多佳子さんの勇気、信念、本当に尊敬しています。

 

いろいろ経験してきましたが、多佳子さんにお話したいエピソードといえば。。。

 

*私は高校時代、合唱部に入っていました。 日本人の音楽の先生と、20代のアメリカ人の英語の先生(R先生)が、部の顧問を担当していました。 ある日の練習中、コンクールに向け、全員でステージに並んで立って歌っていました。生徒に交じって私の隣に立っていたR先生が、曲の切れ間に私に向かって言いました。

 

「アナタ、セガタカスギルカラ、イヤダネ。 ボクノトナリニコナイデヨ。 ホントウニイヤダネ。」 

 

私は、ショックで固まってしまいました。 愛想笑いをするのが精一杯だった。 ジワジワと目に涙が溜まっていきました。何がショックだったか。 一番は、彼がアメリカ人だったこと。 アメリカ人でも、そんなことを言うの? アメリカには、背が高い女性なんて沢山いるんじゃないの? アメリカは、違いを認められる国じゃなかったの? 頭の中をそんな思いがグルグルまわっていました。

 

そして、はっきりと「背が高すぎるから嫌だ。」「隣に来ないで。」「本当に嫌だ。」と言われたこと。 どうしてこんな酷いことが平気で言えるのでしょうか。 先生は気さくな人で、誰からも好かれていた。私も好きだった。その日からは違う目で見るようになりましたが・・・。 先生の身長は、170cmなかったと思う。 普段から身長にコンプレックスをもっているようには見えました。 でも、自分も気にしているなら尚更、なぜその対極にいる人間の気持ちも考えられないのか。 嫌だと言われても、どうすることもできない人間に向かって、なぜそんなことが言えるのか。 17歳の女の子の心がひどく傷つくことは、想像できないのか。 

 

ただでさえ、私はひな壇に立つのがいつも辛かったのに。 集団の中でひとりだけ飛び出た自分の姿を、いつも気にしていたんです。 記念撮影のときと同じです。 全体のバランスを自分が崩しているなって、いつも思っていたんですよ。

 

 そこにこんな言葉を言われたので・・・。 私は弱い人間なので、これをきっかけに合唱部をやめてしまいました。 私が隣に立つことで、苦痛を感じてる人がいる。 自分が嫌悪されていると聞かされても、みんなに交じって立っていることなんてできませんでした。 R先生がそうなら、他の思春期の男の子たちはそれ以上でしょう。 私より背が高い男の子なんていなかったのですから。

 

多佳子さん、アメリカ人でもこんなことを言うのですね。 日本が大好きな先生だったから、そういう所も感化されてしまったのかな。 私にとってはトラウマです。 もし私が外国に住んでも、日本と同じようにどこかビクビクしながら生活してしまう気がします。 

 

*「ほんとに背が高いねぇ。175cm!? まぁーかわいそうにねぇ。嫁のもらい手がないだろうね。」

 

これは、以前住んでいた家の、向かいの家のおばさんに言われた言葉です。 これも17歳の時のこと。多佳子さんの本を読んで、自分と全く同じことを言われているのに驚きました。

 

やはりこれは、数々の経験をいま振り返っても、ワースト3に入るような酷い言葉です。 今なら、こんな事を言える人がどうかしていると思えますよ。 でも17歳の私は、素直にただ傷つくだけでした。恋愛や結婚のことが、とてつもなく不安だった時期ですよ。(今もだけど!笑)

 

 こんな私、誰も付き合ってくれない。 誰も結婚したくないだろうな。 一生結婚できないんだろうな。。 嫌でもそう思っているところに、こんな心無いことを言われる。 それでも、私は愛想笑いを浮かべただけだったと思います。 こんな酷いオバサンなのに、誰も文句のひとつも言ってくれない。 誰にも話すことができず、励ましてもらうこともできなかった。 言われっぱなしで、傷は癒えないままです。

 

多佳子さんの本やサイトを見ていると、同じ長身女性でも色々なタイプの人がいることがよくわかりました。最近は、まだ若い人でも、自分の身長を好きになりポジティブに生きている女性も多いのですね。 私みたいに、他人から言われることを逐一気にしているような人は、もう珍しいのかなぁ。でも、私は人から言われることにはどうしても納得できないんです。 

 

私たちが長身を気にする理由には、いくつかの要因があると思います。 好きな服が着られない、靴がない、彼氏ができにくい、目立つ、すぐ頭をぶつける、座席などの足元が狭い、などなど。 私は、これらは内因だと思っています。

 

「背が高いね」「デカー!」「こわー!」「身長何センチ?」「結婚できないね」「かわいそう」などと言われること、指を指されること、背比べをさせられること、 こういうのは、外因だと思います。

 

同じ辛くても、内因の方は仕方ないと思える。 もちろん、なんで私だけ好きな服がきられないの?なんでこんな窮屈な思いをしないといけないの?普通の人になりたい。と、思うこともしばしば。 でも、背が高いのは自分なんです。誰かのせいじゃない。だから自分の宿命を憂うくらいのもんです。 また、何とか工夫してしのいだり改善することだってできます。 苦しいし、辛いけど、仕方ないと思うのです。

 

でも外因の方は、そうじゃない。 私たちは、「傷つけられている」んです。 世の中には、人並み外れた外見を持ち、それをひどく気にしている人が数多くいますが、他人や見ず知らずの人からこんなにも堂々と平気でその特徴を口にされるのは、長身女性にものすごく顕著な気がします。 客観的にみても、です。 

 

どうして人が傷つくことが想像できないのか、私が理不尽に思うのは、そこです。 「目立つ」というだけなら、仕方のないことです。 背が高いから、目立ってしまうのですから。 単に目立っているだけなら我慢するしかない。 でも、私たちが辛いのは、「目立つために、言葉の暴力を受けるから」だと思う。 何も言われることさえなければ、目立つこともそう辛くない気がするのです。 何か言われるのが怖いから、心ない目で見られるから、目立つのが耐えられないのです。

 

多佳子さんのサイトで、「もっと自分の身長を好きになったら」、「私はポジティブになれたから幸せ」、「気持ちの持ち方次第」、「背が高いと思われているのに、口にされないほうがかえって嫌」などという意見がありました。私はこの考えには共感できません。 部分的には見習いたいですが。何でも口に出した瞬間に、人を傷つけるし問題にもなるんです。 何を思うかは、個人の自由です。 思っているだけなら誰も傷つけたりはしない。 男性が、胸が大きい女性を見ても、心の中で「胸が大きいな」と思う分には自由です。 「キミ胸おっきいね」と口に出した瞬間に、セクハラになるのです。 

 

私の話は飛躍しすぎでしょうか。。。もし、見たことがないほど太っている人がいても、私は「めちゃくちゃ太ってますね。体重何キロですか?」 なんて言いません。 心の中では、きっと思いますよ。 視覚から入る情報は必ず脳に伝達されるのですから、自然と意識にのぼります。 でも、言いません。 その人の気持ちを考えるからです。 気にしていないかもしれないけれど、気にしているかもしれないでしょう? それがわからないのに、そんなこと絶対言いたくありません。  

 

発端は自分の身長ですが、私はこういう世の中自体が嫌で嫌で仕方ないのです。想像力が乏しい、他人を傷つけることを平気でしてしまう、そんな人ばかりです。 自分の身長に限ったことではないです。 世間で「いい人」「常識人」「デキタ奥さん」「ステキな旦那さん」「尊敬できる人」だと思われている人たちが、こんな簡単なこともわからない。 私から見れば少しもいい人には思えないのに、世間ではそういう人が普通の人と認められている。 それが、悔しいです。 こんな事があっていいのか、と思います。

 

長身女性も色々。 心の持ち方次第で、とても幸せになれる人もいるみたい。 

気にしないことで楽になれる人がうらやましいです。 

私は感受性が強いです。 身長について人から言われたことは、とても気にします。 やっぱり、言うほうが悪いと思うのです。 すごく傷つきやすい人と、そうでもない人がいるのは当然ですが、自分が後者だからといって、そうなるべきと人に勧めるのは、どうかと思います。 私は、後者も認めますよ。 よかったですね、素晴らしいことです、と。 だから、痛みをひきずる人のことも、認めてほしい。 

 

多佳子さんには、正義感のようなものが感じられます。 今の若い人(私よりもっと)には、やはり同じような思いはしてほしくないですよね。 私は自分のことでは相手に何も言えないのですが、もし10代の女の子に「背が高いから結婚できないね」などと言っているオバサンを見かけたら、絶対に黙ってはいないでしょう。 その場では言わなくても、あとでオバサンを呼びつけてでも、抗議します。 アンタは最低だよ、言われた人の気持ちを考えろって言います。 女の子に対して、「気にするほどのことじゃないよ」とは言いたくありません。 年を取れば、身長が大した悩みでなくなるとしても、若い子に、今だけだよとか、いつか気にならなくなるから頑張って、と、そればかりをしきりに言うのは嫌です。 やっぱり、攻撃のほうを止めてあげたいんです。

 

自分を好きになる努力は大切です。 自分を受け入れることは必要です。こういう体に生まれたからには、頑張ってこの壁を乗り越えようとするべきです。 それは、内因に対して行う努力です。 着られる服、似合う服を血眼になって探したり、自分で作れるように裁縫をやろうとしたり、通信販売の高価な靴が買えるように仕事を頑張ったり。 そういう努力は自分だけでできるものだし、素敵だと思う。

 

でも、外からの攻撃を気にしないようにする努力は、私にはできません。 というか、少しはそう心がけたとしても、人にそれを勧めることはしません。 「気にしすぎだよ」という言葉は、その人の辛さを無視しています。 その人の悩みをきちんと受け止めていません。 

 

私は多佳子さんの仰ることに、いつもすごく共感できます。

日焼けしたご友人のエピソードがサイトに書いてありますよね。 多佳子さんが書かれている言い訳(?)・・・あれは言い訳ではなく、すべて真っ当に通用するものです。 これからも、多佳子さんとお話できたらいいなと思っています(^-^)

よろしくお願いします☆

 

 

 

 

 

多佳子から 20

 

メールありがとうございます。感激です。
ほんとにたくさん書いてくださってありがとう。お気持ちはようくわかります。私と同じ道を通った人と出会えて、ほんとにあの本が書けてよかったです。泣きながらで、かつ出版社はなかなか見つからずで、大変でした。

これまで生きてきて、ただの一度も、自分がこの身長を気にしていることを人に言ったことはありません。 。。 「かわいそうな、惨め
な人」と思われたくないからです。


ここが問題ですよね。なぜ悩んでいることは、惨めなかわいそうなことなのでしょうか。人間なんだから、悩むのは当然だと思いますよ。悩むからこそ、解決策を見出そうとするーで、社会は、人間は進歩していくんだと思うんですよ、きっと。で、悩むなんて、と悩むことを責めるような強者の視点が、社会を闊歩していることがやっぱり問題だと思います。


まだ昭和の終わっていない時代、小学6年生で170cmだった私の気持ちを母がきちんと察してくれていたかどうかは分かりません。 


そんなことないですよ。同じ女として、おかあさんが一番わかっていてくれてるはずです。でもおかあさんー私と同じ世代ですねーもつらい思いをして、その気持ちを話せないという時代を通ってこられてるから、それにやはり親ですから、娘といっしょに泣くよりは、娘には強くなってもらいたいと、黙ってこられたのではないかなあ。。私の本にも書きましたが、母と娘の関係はむずかしいものがありますからーもちろん家庭によって違うし、それは家族の方しかわからないことですからー、一番大事なことは、おかあさんの気持ちはともあれ、あなたがおかあさんを乗り越えることですよ。あなたは、おかあさんの知らない「これから」を生きる人なんですから。。

私は今まで自分の悩みをひた隠しにしてきたのに、「あぁ、世間が私の恥を知ってしまう」、そんな風に思ってしまいました。 


ああ、そういう感じかたがあるんですね。知りませんでした。教えてくださってありがとう。そういえば、読者からの声の中には、私の本はむしろ、背の高いことを気にしないで明るく幸せに生きている女の人を生きにくくする、という言葉がありました。その気持ちに通じるものがありますね。でもね、「恥」のように思わされるのが間違っているわけですよね。世間の人は、そんなことで悩むなんて、と私たちを責めながら、と同時に、「恥」の気持ちを私たちに植えつけるわけです。この二重基準が問題です!!!(あ、これは考えたことがなかった新しい視点です!!!感謝!!!) そういえば、私もアメリカが長くなって、「恥」なんて気持ちも言葉もどっかにふっとんでしまいました。(笑) 

先生の身長は、170cmなかったと思う。 普段から身長にコンプレックスをもっているようには見えました。 


はい。この手のアメリカ人が日本へ行くと天国でしょうねえ。アメリカにいると、女性に対してそんなことは絶対に言えないだろうに、日本へ行くと、日本に染まって、そういうことが平気で言えるようになるわけです。げっ、もちろんみんながみんなとは言いませんが、日本で活躍してるアメリカ人って、みんなけっこう背が低いのでは。。。私がテレビで見たことのあるデーブデプスター?って男も小さそうですよ。。。日本の男社会はどうしようもない伝染性がありますね(怒) それに、日本で受け入れられようと思えば、日本人みたいにならなければならないんでしょうね。日本で抗議の声をあげたら、もちろん日本には住めなくなるわけで。。。シンデレラと同じです。。(悲) 

ただでさえ、私はひな壇に立つのがいつも辛かったのに。 集団の中でひとりだけ飛び出た自分の姿を、いつも気にしていたんです。 記念撮影のときと同じです。 


このあたりのお気持ちはよくわかります。本の中で書いたかどうか。。。高校の時、遠足に行って、写真係の男があとでやってきて、私に言ったんですよね。お前の写真はいちまいもないわ。。お前だけ大きいから、みんなといっしょに写真に納まらない。ってことを言われました。私もかすかに笑うしかなかったです。寂しさを押し隠して。。。ああ、あの男の顔を思いだしました。げっ、腹まで立ってきました。。(笑) 

私は弱い人間なので、これをきっかけに合唱部をやめてしまいました。 


やめて正解です。でも、やめるときに、顧問の先生に理由を話しましたか。。アメリカにいると、堂々と理由を述べ立ててやめる、という感覚がありますが。。。たぶん、日本では言えなかったでしょうね。そのあたりの社会的プレッシャーをなんとかしたいとつくづく思います。

もし私が外国に住んでも、日本と同じようにどこかビクビクしながら生活してしまう気がします。 


私も、自分を取り戻すのに、アメリカで10年の時間が必要でした。アメリカ社会の風を吸って吸って、自然に「びくびく」がなくなるんですよね。。きっと大丈夫ですよ。

でも、私は人から言われることにはどうしても納得できないんです。 


はい。納得できない、という感覚が正常です。どうかそれだけは失わないでくださいね。

どうして人が傷つくことが想像できないのか、私が理不尽に思うのは、そこです。


やっぱり傷ついているということを知らないんじゃないでしょうか。だから、やっぱり「傷ついている、言わないでくれ」とこっちから言うしかない、と思って、私も本を書きました。50になったから、書けたんですよ。若かったら言えない、というのはよくわかります。
 

 何も言われることさえなければ、目立つこともそう辛くない気がするのです。


はい。それがアメリカでの状況です。言われることはありません。言われても、それは背が低い日本人というステレオタイプにあわないからだけで、結婚できないね、かわいそう、といった気持ちは一切ない、と断言できます。 

男性が、胸が大きい女性を見ても、心の中で「胸が大きいな」と思う分には自由です。 「キミ胸おっきいね」と口に出した瞬間に、セクハラになるのです。 私の話は飛躍しすぎでしょうか。。。


いいえ。とんでもない。ものすごくいい論点です。ばっちりです。(感謝!!!)

でも、言いません。 その人の気持ちを考えるからです。 


私もそう思って、何にも言わずにずっと生きてきたような気がします。表面はあらっぽいですけど、中身はね。。。でも世間の人って、けっこう表面はよそいきにかざってるくせに、中身はかすかすで残酷って感じの人が多いような気がします。こんちくしょうです。。。まあ、そういう人とは私は近づきにはなりませんけど、で、友達は少ないです。。(悲) でも、少ないということは、悩むことと同じで、別に悪いことじゃないですから、堂々と、私なんか、表面だけとりつくろってるけど、えげつないことを言う人は容赦なく切り捨てます。でも、やっぱりこういうことができるのは年をとったからだと思うし。。。若い人の気持ちを考えると、この30年それほど変わっていないような日本社会が悔しいです。

すごく傷つきやすい人と、そうでもない人がいるのは当然ですが、自分が後者だからといって、そうなるべきと人に勧めるのは、どうかと思います。 私は、後者も認めますよ。 よかったですね、素晴らしいことです、と。 だから、痛みをひきずる人のことも、認めてほしい。 


おっしゃる通りです。 まったく正しいです。

内因と外因という言葉、教えてくださってありがとう。考えさせられました。
思うに、今、日本にいて奮闘しているあなたがこれからどうしたらいいものか、と考えてます。少しずつ声をあげていくにはどうしたらいいのか。。。あげおとし、というのはどうでしょうか。万が一、次に「大きいねえ」といわれたら、まず「ありがとう」とあげておいて、それから、「でも、すみませんけど、自分でもよくわかっているので、もう言わないでください」とはっきりと言うとか。。「ありがとう」で相手をひきつけて、それでけっこう勇気が出て、そのあとが続くかも。。。私も、ちょっとどこかで実験しなければなりません。アメリカでも、日本人が多いところでは言われる可能性大ですから。。。

 

 

 

 

 

 

(18) 日本に帰るたびにまた太った?と言われるんです。

(匿名、30代、アメリカ在住、自営業)

 

 

日本に帰ってきて一番いやなことはみんな痩せてることですね。帰るたびにまた太った?と言われるんです。

 

やっぱりいい感じはしません。そんなことは本人が一番よく分かっているし。でも、角が立つから、そうなんですよー、と言ってヘラヘラしてます。日本はそういう国なんだと認識してますから。でも、外国人に対してはまずいですよね。

 

でも、小心者の私はやっぱり日本を変えることを選ぶより、その場の空気を変えないことを第一に考えちゃいます。と、言ってもそれほど気にしてないんですけどね



 

 

 

 

多佳子から 21

 

 

私の本の欠点のひとつはやはり、呼びかける対象と問題意識を背が高い女性に絞ったことで、読者層が狭まったことでしょうか。でも、顔を見るたびに、太ったね、とこりもせずに言う日本人のメンタリティは、大足のシンデレラが通った道と全く同じです。

 

だいたい、日本人女性のやせ気味は異常、というか不健康の感があると私なんかは思ってます。ああいう痩せ方をしていると、生殖に問題が出てくるのでは、と考えていたら、いいタイミングで新聞記事を読みました。痩せたお母さんから生まれてくる低体重児が増えているそうです。赤ちゃんが低体重とはつまり、脳が十分に発達しない危険性があるそうです。だから、言わんこっちゃないって感じですね。

 

いやなことを言われても、角がたつからヘラヘラする。。日本という、エネルギーがいつも内向きになってしまった強固な枠組みの中で生き延びるには、そういう処世術が必要なことはいやというほどわかっています。気にしていない、というのも、処世術の一端でしょう。でも問題は、そうやって無意識下に感情が押し込まれていくことですね。気にしていない、と自分に言い聞かせているだけで、ほんとは気にしていると思いますよ。他人に、太ったね、太ったね、と言われて、気にならないほうがおかしいです。でも日本社会は、自分をごまかすことを強いるのです。そして、人をがんじがらめに抑えつけ、そして「何も感じない」という無表情を、もしくは「何も感じない」他人と同じになれ、を強要してくるのです。でも、人はいつまで自分をごまかして生きていけるものなのでしょうか。自分をごまかして生きろ、と脅迫する社会の枠組みを打ち破るのに、自分にできることは何かないのだろうか、とつくづく思います。

 

                                              

 

 

 

(19) 自然体で生きていきます 1

(匿名、45歳、1/1/2007、医療関係者)

 

 

「大きな女の存在証明」読みました。うなずきながら、泣きながら読みました。私も45才、180cmです。もう自分を偽ってへらへらしていることに嫌気がさしているところにこの本がその気持ちに拍車をかけました。もう自然体で正直に生きていきたいと思います。

 

本を読んでくださったとのこと、感謝です。私も泣きながら書きました。泣きながら読んでくださったとのこと、女同士の気持ちがつながることほどうれしいものはありません。ご縁に感謝しています。そうですよね。私の本の問題点は、「普通」の人に読ませる力がないこと、あと読んでくださった大きな女性たちに、じゃあ、これからどうやって、「普通」の人に働きかけていこうか、という視点がないことです。私は、とにかく自分の思いをぶちまけることしかできませんでした。でも、ぶちまけることに30年かかってますから、それはそれで1つのステップだったのですが、ほんとの勝負はこれからだと思っています。私たちが「正直に生きよう」と決意して、じゃあ、そのためにはどういう風に、失礼なことを言う他人に声をかけていくのか。。私でも、今だに「大きいね」とアメリカで言われることがありますが、まだ「大きいといわないでください」と言えてません。悔しいです。。。どうしたらいいものか。。私たちが子供の頃からたたきこまれる、その場の雰囲気を壊さない、という社会的規制・抑圧はものすごいものがありますね。。。それでもがんばればたぶん、その人の性格なり、言う人との関係なりで、言い方とか、対処の方法を変えながら、方法はあると信じていますが。。

 

 

「正直に」生きるって?どう変化したのかな?と見つめ直してみると、いやなものは嫌!と、いい意味でわがままになりました。いつもいつも自分を押し殺し、本当の気持ちに耳を傾けなかったのですが、ちょっと進化しました。

 

よかったです。いやなものは嫌、というのは本物志向になったということじゃないでしょうか。偽りのない、飾らない本物―私が一番好きなものです。どんなに小さくても、本物を追い求めて、自分を見つけ続けることがなぜ「わがまま」と考えられるのでしょうか。ほんとに力をもっているのは「本物」だと思うのだけれど。。。本物を探す人間を「わがまま」と考える他人の気持ちって、「本物」がもつ力、本物を探し続ける人間がいつか手に入れるだろう「力」へのジェラシーじゃないでしょうか。私たち自身が、そんな他人のネガティブな気持ち/目をひきこむことがあってはなりませんよね。私たちは堂々と私たち自身の道を行きましょう。ふと浮かびました、私が新聞紙上で見つけて、切り抜いておいた言葉です。自分を励ますときにいつも出てきます、「小さきは小さきままに 折れたるは折れたるままに コスモスの花咲く」 本物がもつ力だと思いますよ。

 

 

自然体で生きていきます 2

 

 

私は小学校6年の身体測定で170あり、中学1年で180でした。育った場所はド田舎で、先祖代々教師のカッチカチの環境下で育った為、人間の人格形成の最も重要な時期に、親を含めて周囲から否定されて育てられた気がします。幼少の頃から大きかった私は家の中で遊ぶことが多かったので運動オンチ。。その頃の抑圧された膨大な思いが、無意識のうちに歪んだ性格として奥の方に押し込まれているような気がするのです。時々ひょんなところで変な行動に出てきてちょっと自分も周りもビックリするようなことがあります。今の性格を他人のせいにするつもりはありませんが、どうしても根っこのところでそういうものが足を引っ張っている気がしてならないのです。

傷つきやすい子ども達の為に何か私にできることはないでしょうか。

 

親を含めて周囲から否定されて育った、というのは私も同じですね。性格は、もってうまれたものに加えて、環境によって形成される要素は大きいと私は思ってます。アメリカに来てやっと私は解放され、本を書くことができた、というのがいい証拠ですから。どうか、ご自分の性格を歪んでいるとかとお考えになりませぬように。「歪んでいる」というのは、他人の目です。そういえば私も親に、「おかしな子や」「人間のくず」「おかしな人間ができあがった」みたいなことを言われ続け、その言葉と目を自分の中にとりこんでしまい、ちぢこまっていました。親を責めても仕方ありませんが、少なくとも親や自分を取り巻く環境を客観的に見て、自分の定位置―育った過去の時間と環境を変えることはできませんからーを確認して、その上で親や環境を乗り越えねばならないのではないでしょうか。私たちの経験を前向きな力に変えられるのは、やはり将来を考えることですよね。つまり、子供たちに絶対に同じ思いをさせてはならないー背が高いだけではなく、太っている、「きもい」。。なんでもいいんです。私たちに何ができるのか。。新潟県のある中学二年生の男子生徒は、クラスメートにズボンを脱がされたそうですが、校長はただちに‘いじめ’とは断定しないと発言した、というニュースを読んだ記憶があります。いじめとは認識しない、という校長の無神経さ、意思に反して脱がされる痛みを想像できない鎧のような心がどれだけ脱がされた人間の気持ちを傷つけ、また他者への不信感を募らせるか、人間の尊厳を考えることができず、不信感を募らせた被害者の「性格」にすべての責任を負わせようとする社会のゆがみ・ひずみの深刻さを考えると、まずは学校教師への教育が必要なのではないでしょうか。

 

 

 

 

(20)日本も確実に変わりつつあるようです

(ビビアン、35歳、7/4/2007)

私の住む町に500人位入る小さい会場があって、そこでときどきコンサートなどが開かれます。このあいだ、コンサートを聞きに行ったとき、会場の中で私サイズの大きい女性を何人か見かけました。

世間にはわりといるんだなぁ・・・と。昔よりも確実に増えているんですね!  小さい会場なのに数人いたという事はいったい日本にはどの位の大きい女性がいるんだろうと・・・

その大きい女性達の姿を見ているまわりの目線を観察していたのですが、わりと見ていなかったのです。たまたまなのかもしれませんがさほどジロジロと見ている人がいないのには少し驚きました。

普段の生活の中で私は一歩外に出ればジロジロと見られているという意識が強いせいなのか、はたまた私に限ってはやっぱりジロジロと見られているのか・・・たしかに昔に比べればすれ違いざまに暴言を吐かれたり、いたたまれない程の視線を感じる機会が少なくなったような気がします。

日本も遅ればせながらやっと少しづつ【平均的な体型】以外も受け入れられるようになってきたのでしょうか。そんな事を帰りの道すがら考えていたら少し嬉しくなりました

ほんとうにそうですね。私も、自分より背が高いのでは、と思われる女の人を、名古屋や東京の駅で見かけました。ああ、増えたんだなあ、と実感しました。ただ、私が見かけた人の共通点は、どの人もパンツ姿だったということです。自分の身体にあうスカートがないという、私が骨身にしみている悩みがまだ健在なのかも知れないし、また私が当事者から直接に聞いた気持ち、つまりスカートをはくと笑われるような気がする、―私はこの気持ちをセクシュアリティの自己拒絶と呼びますけどー私自身も通った道ですーがあるのかも知れないし。。。まだまだ、悩みは多いかも、とか思ってます。それでも、じろじろ見る人が少なくなってきているらしいのはほんとうに有り難いですよね。そういう社会の動きに、心が敏感に反応して、自己回復もなされたらいいんですけど、すでに“成長”してしまって、トラウマになってしまったものはなかなかむずかしいかも。。(悲) あと、このあいだ聞いたのですけど、今どきの男子生徒でも、190センチほどあると、やはりいやな思いをしてるそうです。やっぱり「1人飛びぬけて」という状況になると、まだまだだめな部分がありそうですよ。小学生の女の子で170センチもあると、相変わらずかなりつらいのでは。。。私たちのサイズは増えてきたかも知れない、でも私たち以上になると。。。何センチであろうと、「悩みの再生産」はストップしたい、せねばという気持ちはもってます。

 

 

 

(21) ある日系日本人男性の声

(Asianimprov 50歳 会社役員 7。7。2007)

 

 

おやまあ、いろんな意見があるものですね。 

 

僕自身には背の高い女性に反感を持つとかいう意識はないですよ。僕は173cmくらいで、同世代の平均よりちょっと高い程度ですけど、

「どんな服でも着こなせるだろうなあ」とかポジティブに考えます。

 

しかし、多佳子さんの積年の悩みと告発は重いと思います。ひどい男(女も)は多いですからね。背の高さに異常にこだわる奴はいます。こっちは全然気にしていないのに・・。まぁ、こう言うと「普通の背の奴には低い者の悩みはわからないだろう」と怒られそうですが。 

Randy NewmanShort Peopleというヒット曲を知っていますか?

背の低い人間には生きる権利はない・・という歌詞で、勿論、ランディー・ニューマン一流の皮肉です()

 

 

「どんな服でも着こなせるだろうなあ」とのお言葉、ありがとうございます。でも現実問題は、自分に合う、それも自分が好きな服があれば、ですね。自分が好きではじめて、着こなしってできるのでは。。私はこの分野においてはまったく訓練を受けてませんので、「着こなし」といわれても???ですけど。。(悲笑) まあ、このあたりも、最近はだいぶ状況が変わってきてるようですが。。。でも、30年前は大変でした。ファッションを自己表現の一手段とするのが青春なら、青春はなかったと断言できます(悲) 男性と女性では、いろんな意味で社会的状況が違うので、この問題について男性と話しあうのはすごく難しい、ほぼ不可能と感じてます。背の低い男性との共闘も不可能そうだし。。。やはり、背の高い女の問題って、ジェンダー問題そのものかも知れないです。

 

 

 

 

(22) 縦と横は違います

(泉 けい  東京  7・18・2007) 

 

 

身体的特徴をあげつらって人をどうこう言うことについては、縦も横もありません。背の高い・低いも、肥満も痩せすぎも、それを他人が指摘して揶揄したり差別の理由にしたりしてはならないことは言うまでもないことです。
しかし、背の高低と肥満は、本質的に違います。

拙著『ガンボ!』にも、肥満のニューオーリンズ人が何人か登場しています。
私は長年にわたって多佳子さんのお考えを聞き、ご著書も読み、多佳子さんのおっしゃることにはひとつひとつうなずきもしてきましたので、正直なところ、自分の原稿に、「肥満」もしくはそれに類似する形容を書くたびに、手を止めては、果たしてこれは許されるのだろうか、と考え込んだものです。
しかし、結局大幅に削除することなく、体格のよい彼らは、「肥満」という形容とともに、私の本の中に残りました。

私のエッセイの習作には、「なぜ太るのか」というタイトルをつけたものもあります。

US、ことにニューオーリンズで見かける、肥満人のあまりに極端な太り方と、その数の多さに呆れて、私なりの考察を試みたものです。発表はしていません。日米を比較した場合、明らかにUSのほうが大きな肥満の問題を抱えています。肥満は問題です。
そこが、背の高低や他の身体的特徴もしくは障害とは異なります。

私は医師でもなく、専門知識も持ち合わせませんので、たとえば巨人症や小人症などにおいて、「病気」という線引きがどこでどうなされるのかは知りませんが、「背が高すぎる」とか「背が低すぎる」という悩みを持つ人の多くは病気ではないと思っています。
その程度の背の高低は、治す必要もないし、また、治すことは不可能です。「改善」という言葉を使うことも不適切です。

しかし、肥満は改善すべきです。肥満が多くの病気の誘因になることは明らかです。明らかである以上、改善の努力をしなければいけません。そして、たいていの場合、改善は可能です。とくに子どもの肥満は親の責任です(子どもの歯並びもそうですが)

私は背の高い人、背の低い人を見て、「何とかしてくれ」と思ったことはありませんが、極端な肥満体を見ると「どうにかすれば?」と思います。子どもの場合は、ほんとうに気の毒になります。そういう人たちが、1リットルも入るかと思われるようなカップのソーダ類を片手に、もう一方の手にフライドチキンなぞを持っていると、ひったくりたくなることさえあります。
食生活に気を配り、適度に運動し、肥満しないように気をつけることは、基本的な健康管理のひとつです。(日本人の若い女性の痩せ願望には異常なものを感じますが)

繰り返しますが、肥満の多くは、病気の誘因となるため改善が必要であり、改善が可能であるという点において、背の高低や他の身体的特徴・障害とは本質が違います。さらに繰り返しますが、だからといって、肥満という身体的特徴を理由に人を傷つけてよいことにはなりません。

 

(多佳子より)

ご意見、ありがとうございます。そういえば、シカゴで「プラスウーマンコンテスト」を見たのでした。いわゆる肥満女性が堂々と前向きに自分の身体を受け入れ、社会にも自分たちを受け入れるよう呼びかけるというのが趣旨だったと思います。けいさんがおっしゃってるのは、肥満という身体的特徴を、健康管理のためにいかに個人で改善するか、するべきだ、ですよね。確かに、健康を失うと、医療費にはねかえり、それはそのまま保険料にもはねかえるでしょうから、肥満の人の問題は、社会全体で、自分のこととして考えねばならないのかもしれません。だって保険料は少しでも安くしてほしいですから。。身長はそういう健康問題をほとんど含んでいないかも。。いや、マルファン症候群という病気があります。でも、いったん大きくなった身長を低くはできないでしょうし、そのあたりは肥満の改善とはまた違ったものがありますね。身体的特徴といっても、いろんなレベルがあるようです。でも、けいさんもおっしゃってる通り、超肥満でも、そのことを面と向かって揶揄するようなことは絶対にあってはならないし、アメリカではありえないですね。影ではいろいろ言ってるでしょうが。面と向かっては言えない、その部分を日本の人に、どうやったらわかってもらえるのだろうか、と思います。