第2回 遊び心とコミュニティ
今回は「遊び心」と称して、娘の通う小学校の“リラックス度”を、それと密接な関係にあるコミュニティとの関わりも含めて、少々首をかしげながら紹介したいと思う。
女の子たちがピアスやマニキュアをして学校へ行くのは普通である。個性の表現ということになるらしい。娘のエミも時間の問題だろうが、まあ、目をつぶるとしよう。一方、最近、この大陸のド真ん中にも「たまごっち」が進出、授業中でもピーピー鳴り響くらしい。教師は特に気にもしない様子だ。これも目をつぶろう。わが子さえしっかり勉強しているならば。
ところが、ある日のこと、娘がガムをくちゃくちゃさせながら帰ってきた。聞くと、なんと先生が配ったというではないか。「今日はクラスのみんながいい子にしていたから」とのこと。そのうち、「今日は先生が教えながらガムをかんでいたよ」などと言いだすから、親としては開いた口がふさがらない。勉強のごほうびにと、教師が生徒にガムやキャンディを配るのはどんな教育的配慮があtてのことなのだろうか。必要な“リラックス”なのだろうか。う〜〜ん、これも必死の思いで目をつぶろう。
ところが、本を10冊読んだらごほうびに割引しますよ、という店のクーポン券を教師からもらってくるに至っては、こちらのいらだちも頂点に達する。ファーストフードのピザ屋で食べたり、ゲームセンターで遊ぶために、子供たちは本を読むのか。これが教育だろうか。クーポン券には教師の名前が書いてあるから、教師は店からリベートでももらっているのか、と疑いたくなる。
店側は当然、「教育への貢献というコミュニティサービスの一環」だと言うだろう。知人であるアメリカ人の母親に疑問をぶつけると、「そんなこと考えたこともなかった。うちの子がとにかく本を読むようになってくれたらいいから、ゲームセンターでも何でもいいわ」と言うではないか。「教育」に対する意識の低さにはあぜんとするばかりである。筆者自身は、学校での勉強がガムや金銭で報われるという物質主義的なアプローチには、強い危惧感を抱いている。
教育へのコミュニティの関わりといえば、ファンド・レイジング(fund raising)がある。一冊の教科書を10年も使い続けなければならないほど、アメリカの教育予算はどこも逼迫している。新しいコンピュータの購入やプログラムの充実といった施設の改善には、コミュニティからの募金が非常に重要になる。
そのために娘の学校で毎年秋に行われるのが、クリスマス用包装紙の販売である。参加は自由とPTAは言うけれど、子供たちは売った数で会社からいろいろな景品がもらえるので、景品目当ての販売競争が始まる。家の近所は友達に先回りされたとなると、結局は親が職場までカタログを持っていって売ることになる。
つい最近、東部の州で知らない家々を訪問してキャンディを売っていた12歳の少年が、訪ねた先の人間に暴行・殺害された事件が全米に報道されたが、こうなると学校に“尽くす”のは命がけである。学校のために、子供のためにと言われれば、親はどうしても弱くなるが、子供を利用しながら競争をあおり、もうけに走る企業の論理も垣間見え、親としては首をかしげるばかりである。
遊びといえば、放課後の子供たちは毎日忙しい。娘の学校にはクラブがないので、コミュニティにある各種スポーツ団体やYMCA、ガールスカウトの活動に参加したり、音楽のレッスンに通ったりする。人気があるのは、サッカー、バスケットボール、水泳、ピアノ、バイオリン、バレエといったところだ。学習塾は町にはひとつもない。
興味深いのは、町単位ですでに優秀選手の育成が奨励されていることだ。サッカーでも水泳でも才能を認められた子供たちが選抜され、特別のチームを作り、別の町に遠征試合に行く。高校に進学すると、スポーツ部への入部は選抜式、しかも高校のスポーツでの活躍が大学入試にも大きく影響するとあっては、親としても子供の適性を早くから見抜き、伸ばしてやらなければならない。そのためなのかどうか、学校では日本のように運動会もないので、親は週末はもちろんのこと、平日の夕方でも、子供たちのスポーツの試合があると、会社帰りに家族総出で熱心に応援に出かけるのである。
アメリカの学校教育は、学力判定だけに子供を追い込む、社会から隔離された“温室”ではない。予算不足とはいえ、親を巻き込み、子供とともに「よろしくお願いします」と金集めに頭を下げねばならないことで、必然的に親は学校に、子供は社会に関わらざるをえなくなっていく。それによって、われわれは、いかにコミュニティと関わっていくか、その生き方を問われ、訓練されているような気がしてならない。