リンカーンの国から
(32) ケンタッキー州レキシントンー妻メアリの実家
ケンタッキー州レキシントン。人口24万人の大きな町である。リンカーンの妻、メアリ・トッドの実家は、そのレキシントン市のメーンストリートに面している。少し東に行けば、高層ホテルやビルが立ち並ぶダウンタウンのど真ん中である。
今のメインストリートから見ると、どうってことのない家だが、19世紀当時にしてみれば、大きな家だったことは間違いない。二階建てで、部屋数16、家の後ろにも、L型に部屋が並んでいる。奴隷たちの部屋だったのだろうか。裏庭には、きれいな花壇が作られていた。イリノイ州の州都スプリングフィールドで、リンカーンがメアリとの結婚後買った、人生最初で最後の家よりははるかに大きく、リンカーンが生まれ育ったログハウスとは比べようもない。
メアリ・トッドの曽祖父、デビッド・トッドはスコットランド系アイルランド人で、イギリス国教会に抵抗した血をもつ。1773年、ペンシルバニアの土地を売って、ケンタッキーにやってきた。三人の息子、ジョン、レビ、ロバートもやってきた。トッド家はレキシントン最初の定住者家族の一つである。
レビ・トッドは、インディアンと戦って開拓地を守り、ジョージ・クラーク将軍といっしょに独立戦争も戦い、のちに将軍となった。レビ・トッドの11人の子供たちの7番目が、1791年に生まれたロバート・トッド、メアリの父親である。ロバートは14歳で大学にはいり、21歳で弁護士の資格を得た。1812年の米英戦争に従軍した頃に、父レビの従兄弟でもあり、独立戦争をともに戦ったロバート・パーカーの娘、イライザ・パーカーと結婚する。イライザが明るい性格だったのに対し、ロバートは性急で、センシティブなところがあったとか。
ロバートは、資格をとっても弁護士にはならず、食料雑貨商として、また綿花製造業者として大成功した。その上、25年にわたってケンタッキー州下院議会の書記官や郡裁判所の陪審員、のちにはケンタッキー銀行レキシントン支店の支店長まで務め、レキシントンの名士として、レキシントンの経済界や政界をリードした。家にはもちろん奴隷がいた。家事をするジェーン、料理人のチェイニー、御者のネルソン、そして年老いたマミーサリーと若いジュディは子供の世話係である。じゃあ、奥さんのイライザは何をするの。。客の接待に子供を産むだけかなあ。。
メアリ・トッドが生まれたのは1818年12月13日。すでに、エリザベスとフランシスという二人の姉に兄のレビがいた。メアリのあとにも弟が生まれたが、この弟は2歳の夏に死亡、それから妹、その次にまた弟と続いたが、この2人めの弟を産むときに、わずか31歳だったイライザは命を落としている。メアリが8歳だった1825年の独立記念日だった。7月4日、レキシントンの町では大砲が打ち鳴らされ、教会の鐘がなり、有名な将軍たちが政界の重鎮、ヘンリー・クレーの家に集まり、バーベキューディナーに呼ばれていたというのに。
イライザが亡くなってわずか7ケ月後、ロバートはバージニア出身のエリザベス・ハンフリーとの再婚を決心するが、イライザの母親の抵抗にあう。レキシントンから28マイルほど離れたフランクフルトにあったエリザベスの家でやっと結婚式にこぎつけたのは、イライザが亡くなってから1周忌を終えた1826年11月1日のこと。介添えに連邦上院議員がかけつけたというから、どんな結婚式だったかわかるというものだ。そして、二人のあいだには、さらに9人の子供が産まれている。昔のアメリカ人女性たちも、まさに「子供を産む器械」だったんだなあ。。
トッド家がこのレキシントンの家を所有したのは1832年から1849年のことだ。メアリは、39年までの7年間、14歳から21歳までの少女時代、青春時代をこの家で過ごし、何不自由なく育っているが、義理の兄弟も多く、それはそれでなにかと大変だったろうなあ。。
メインストリートに面した窓からは、レキシントンの南にある綿花農場に連れていかれる黒人奴隷たちの姿が毎日見えた。そうかと思えば、男も女も子供たちも奴隷たちが二人ずつ組まれて、先頭から最後まで長い鎖につながれて、ダウンタウンの一角にあるオークション市場のほうに向かって歩いていくのも見えた。オークション市場の向かいは、法律違反を犯した奴隷たちに鞭打ち刑を与える場所だった。ロバートは、陪審員の1人として、裁判に深く関わっている。家では、家族やら来客たちと、常に裁判やら政治の話をしていたに違いない。家の内外で奴隷とともに暮らしたメアリは、自然に政治意識を身につけていった。
一家はもちろんヘンリー・クレーとも親しかった。馬でクレーが住むアッシュランドを訪れたメアリは、「お父さんがあなたが次の大統領になるって言ってたわよ。私もワシントンに行って、ホワイトハウスに住みたい」とクレーに告げれば、クレー答えて、「もし大統領になったら、メアリには最初のお客になってもらいたい」
メアリは活発で、頭もよく、どちらかといえば、口も悪かったようだ。が、悪気はなく、とにかく感情を隠せず、衝動的に行動するタイプで、いつも"面白い"ことを探していたらしい。回りにいる若い男たちは学者タイプの知性派が多かったが、メアリはほとんど興味を示さなかったという。退屈だあ、って感じだったのだろう。
14歳から入った寄宿学校で、フランス語やダンスや乗馬と、レディになるべく教養を一通り身につけたメアリ。ちょっと冒険心でも出したのだろうか、1839年、実姉二人がすでに結婚して住んでいたイリノイのスプリングフィールドにやってくる。 「牧師でも自分の祈りを忘れる」ほどの魅力を社交界で振りまいたメアリ。リンカーンのどこがそんなに「面白く」て、1842年には結婚までしたのだろうか。たぶんメアリの旺盛な好奇心が、リンカーンの貧しい出自と頭の良さとのアンバランスを魅力に感じたのではなかったか。運のつきというか、名家の平穏安泰な生活より冒険を選ぶ闘争心と好奇心にあふれたメアリが、自分で選んだ、というか選ばざるをえなかった人生ということになろう。三つ子の魂は変わらないのである。
のちにリンカーンもこのレキシントンの家を訪ね、義父の図書室に感嘆し、ここでリンカーン憧れるヘンリー・クレーにも紹介されている。
メインストリートを数分西に走ったところに、立派なレキシントン墓地がある。見過ごすことのできないヘンリー・クレーの高いメモリアルのすぐ後ろのロットに、トッド家の墓石があった。お父さん、愛娘の貧乏暮らしをかわいそうに思い、結婚後もお金をメアリに渡し、スプリングフィールドに土地も買ってくれたりした。お父さんが亡くなったのは、メアリが結婚してから7年後の1849年。1849年といえば、連邦下院議員だったリンカーンがワシントンで失敗して、イリノイに戻ってきたころである。たぶんきっとヘンリー・クレーさんにも、「うちの義理の息子をよろしくお願いしまっせ」と頼んだに違いない。。ただただ娘の幸せを望む父親の気持ちを考えれば、お父さんが、メアリやリンカーンのその後を知らずに死んだのは、案外幸せだったのかも知れない。。