リンカーンの国から

 

 

(40)インディアナ州少年時代(2)

 

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ナンシーの死後、寂しくなったトーマス・リンカーンは、ケンタッキー州エリザベスタウンに戻り、旧知のサラ・ジョンストンと再婚してインディアナに帰ってきた。1819年のことである。以後、インディアナのフロンティアでの生活は一変する。リンカーンの少年・思春期時代の始まりでもある。

Text Box:  再婚によっていっきょに、トーマス40歳、サラ32歳、デニス・ハンクス21歳、姉サラ13歳、リンカーン11歳、サラの連れ子のエリザベス・ジョンストン13歳、ジョン・ジョンストン10歳、マチルダ9歳という大家族となった。急に同年代の遊び友達・兄弟が増えて、サラもリンカーンも毎日が楽しくなったに違いない。それでもリンカーンにしてみれば、この時代が人生で一番大変だったようだ。後妻サラの連れ子たちは、サラやリンカーンに町の生活を教え、リンカーンたちは、新しい兄弟に森でのサバイバル法を教えたとか。

Text Box:  1820年代のこのあたりには、約30家族が住んでいたが、生活は非常に原始的だった。衛生観念はなく、風呂には数ケ月入らず、農業は大変な重労働で、ほとんど裸足で生活した。義母はのちに、義理の子供たちをはじめて見たとき、もうちょっと人間らしい格好をさせねば、と思ったという。日常に女手が入って、小屋は人間がすむ場所に変わっていった模様。サラの一声で、小屋には床が作られ、ベッドや椅子も作られたとか。それでも小さな小屋に8人もの人間がよくいっしょに住めたものだ。
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死んだナンシーの親戚、デニス・ハンクスは、新家族といつまでもいっしょに同居するわけにもいかないとでも思ったのかどうか、2年後の1821年6月14日、新しく家族に加わった15歳のエリザベス・ジョンストンと結婚、1マイル東に自分たちの小屋を建てて出ていった。

リンカーンは他人の農場で働き、一日25セントをもらって、父親に渡すという生活だった。リンカーンが小さいときから磨いた斧の技術は伝説的なものとなったが、リンカーンはのちに、父は仕事を教えてはくれたが、仕事を好きになるようには教えてくれなかったと語っている。

Text Box:  Text Box:  最初の夫が牢屋の番人で、家の中でも政治の話が出るような環境にいた義母は、ケンタッキーから数冊の本をもってきていた。畑仕事より本を読むのが好きだったリンカーン。 当時、喜んで読んだのは、アラジン(の魔法使い?)、シンドバッド(の冒険?)、ロビンソン・クルーソーだったという記録が残っている。学校は収穫の秋と種まきの春のあいだに、先生が近くに来た時だけ開かれ、リンカーンも出かけていった。バックスキンの服を着て、ラクーンの帽子をかぶって、古い算数の本を抱えていたとか。学校の先生からも本を借りてきて、ジョージ・ワシントンの話やイソップ物語、アメリカ憲法や歴史の本などなど、読めるものは何でも読んだらしい。 雨の日には、小屋のすきまからはいってきた雨で、本を台無しにしてしまい、先生の農場で3日間働いて本を弁償したこともあったという。フロンティアでは学校が常設されているわけではなく、全部あわせても1年も学校には行っていないというのがリンカーンの「売り」である。それでも他の生徒よりはるかに優秀で、家族や近所の人の“代書屋”でもあった。

Text Box:  義母を迎えて7年が経った1826年は、リンカーン一家にとって大きな節目の年だった。 姉のサラは19歳になった。こげ茶色の髪に灰色の目をしたサラは背が低く、がっちりした体格で働きもの、フロンティア生活にはうってつけだったようだが、フロンティア女性としてはちょっと行き遅れの感ありかも。。そのサラが、同じ教会で10年をいっしょに過ごしたご近所さんの息子、1801年生まれのアーロン・グリスビーと婚約、二人は1826年8月2日、リンカーンの丸木小屋で結婚した。 同じく1826年9月14日には、リンカーンの義理の姉妹、マチルダ・ジョンストンがスカイア・ホールという男と結婚、家を出た。

Text Box:  で、当時のリンカーンはもうお年頃の17歳、女の子に興味があったかというと、はっきり言ってまったくなかったようだ。女の子のあいだでも人気がなく、なにやら体ばかり大きくて、間の抜けた男って感じだったらしい。

そんな色気のない17歳のリンカーン、9ケ月ほど家を離れて、川で働くようになる。デニス・ハンクスらとともに、川を行きかう蒸気船に燃料用の木を切って売ったり、オハイオ川に注ぎ込むアンダーソンクリークで客と荷物を小船に乗せ、オハイオ川を航行する船まで運ぶという渡し舟のような仕事をした。のちに、イリノイで船舶関係の特許をとったりしたのも、このあたりの経験から来ているのかもしれない。

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リンカーンにとってインディアナ時代は、父と息子の葛藤がはじまり、袂をわかった時代でもあった。力自慢で、ユーモアがあって、話好きだったという父親は本が息子をだめにすると考え、息子が本を読んでいるとなぐったりしたらしい。 リンカーンも、小さいときは父親への畏怖の念があったとしても、思春期ともなると、教育のない父親をあからさまに軽蔑していた、という声も残っているぐらいで、大嫌いな父親ともくもくと森の中で木を切り倒す大工仕事から逃れたくて、川の仕事をはじめたのかも知れない。

Text Box:  それから2年ほど経った1828年1月20日、姉サラが出産で命を落とす。21歳だった。死産した子供を腕に抱いたまま、近くのリトルピジョンクリーク・バプティスト教会の墓地に埋められた。この教会は、1821年に父親とリンカーンがいっしょに建てたもので、今も、教会とサラたちの墓は、このリンカーン少年時代国立公園の向かいにある、1747エーカーのリンカーン州立公園の中に残されている。サラのお墓は実に立派だが、その横にある夫アーロンさんの墓は、なんともつつましやかなものだ。というか、普通のパイオニアの墓である。アーロンさんも、まさか死後にこれほどまで妻と差をつけられるとは、夢にも思わなかっただろうなあ。墓石を見ると、アーロンさんも、サラの死後わずか3年でこの世を去っている。31歳の若さである。妻と子供を同時に失って、寂しさのあまり。。かも知れない。

 

インディアナで母ナンシーと姉サラを失ったリンカーン。鬱病の傾向はこの頃に始まったらしい。
その年の春、19歳になったリンカーンは船一杯の農産物をニューオーリンズに運ぶ仕事につく。ニューオーリンズはリンカーンが見た初めての都会だった。ミズーリやイリノイ、インディアナ、オハイオからの農産物が港に積みあがっていた。世界中を航海する船が港を行きかい、フレンチクオーターの美しい家並みを歩き、夜の女を見、そして奴隷市場を知った。 24ドルを稼いで、3ケ月後にインディアナに戻ってきたリンカーン。稼いだ金はまだ父親に渡していた。 

リンカーンが奴隷制に反対したのは、自分が稼いだ金は自分のものである、それは黒人も変わらない、という信念があったからというが、根っこにあるのは自らの経験であり、父親の権威主義に対する反感・嫌悪感だろう。やはり家庭のあり方が人間の生き様を決めるのである。子供に反感・嫌悪感を呼ぶまでの親の頑固さ、気骨が、のちに骨のある人間を作るか、それとも逆恨みするだけの人間を生むかは紙一重の結果論であり、誰にも分かるまい。

Text Box:  やがてリンカーンは、森の外のロックポートやブーンビルといった町の丸木の裁判所で、時間を過ごすようになった。巡回裁判は、田舎では格好の娯楽である。リンカーンは裁判を傍聴するあいだに、弁護士の仕事を観察し、法律を知って、独立宣言や憲法の本なども読むようになる。ホイッグ党のリーダー、ケンタッキー出身の大物政治家ヘンリー・クレーの話を聞くようになったのもこの頃である。ケンタッキー出身と聞いて、きっと親しみでも覚えたのだろう。まさかのちに、ヘンリー・クレーと親交のあったケンタッキー州レキシントンの名家、トッド家の娘と結婚することになろうとは、人生とは面白いものだ。弁護士という職業に惹かれたリンカーン、インディアナを離れる前に、将来は弁護士になろうと決めていた。

 

父トーマスにとっては、このリトルピジョンクリークは、相変わらず期待通りの場所ではなかった。最初の妻を奪ったミルクシックの恐怖はいつもあったし、畑仕事は相変わらず大変だった。そこへ、イリノイに行ったナンシーのもう1人の従兄弟であるジョン・ハンクスが、イリノイの土地は豊かだし、ミルクシックの恐怖はない、と手紙に書いてきた。そこでトーマス・リンカーンは、もう一度引っ越すことを決めて、1830年2月、リトルピジョンクリークに持っていた100エーカーの農場を125ドルで売った。そして、1830年3月1日、一家は、ワバッシュ川を渡ってイリノイにやってきた。すでに21歳を迎えて成人していたリンカーンだったが、家族とともにワバッシュ川を渡った。

その後、リンカーンは一度だけリトルピジョンクリークに戻ってきている。有望な弁護士かつ政治家として、ヘンリー・クレーの応援演説をしていた1844年のことである。 少年時代を過ごした土地を見て、遠くまで来たなあと、万感あふれる思いは言葉にならなかったに違いない。

 

今、広い公園の一角は、リンカーンの少年時代を少しでも経験できるようにという意図からだろう、パイオニア時代のテーマパークのようになっている。当時の丸木小屋が作られ、鶏や羊が放し飼いにされ、当時の服装を身につけた人たちが、大きなはさみで羊の毛を刈っている。電動バリカンでも使えば、ぱっぱっぱっと10分ですむだろうに、手作業ではえんえんと続く。はさみを握らせてもらったが、重くて、ちょっとやそっとの力では動かせない。へたしたら、羊のお腹をぐさっと切り込みそうだ。人間の足のあいだに押さえ込まれて、じっと我慢の羊も大変である。改めて、パイオニアたちってすごい、と思ったし、リンカーンのド根性を感じたような気がした。知らず知らずのうちに自分に与えられている才能と力に気づき、信じて、「いつか必ず」とじっと我慢の日々だったに違いない。