先日、私は銀行で用を済ませ、自動引き出し機の前においてある椅子に腰をおろして一休みしていた。何も考えずにぼんやりと、機械の前に並んでいる人の列をながめていると、突然、頭の上で「お嬢さん」と呼ぶ声がした。もう何年も聞いたことがない「お嬢さん」という言葉にひかれて、ひょいと顔を上げると、目の前に50才ぐらいの男性が立っていた。私の顔を見ると、すぐに切り出した。


 「大変失礼な事をお聞きしますが、今おはきの、そのお靴は、どこでお買いになられましたか。」
 直立不動の姿勢だ。顔は緊張のためか少しひきつっている。が、目はしっかり見開かれ、まばたき一つしない。その真剣な目を私は本能的に知っていた。すぐに分かった。きっと背の高いお嬢さんがいるのだ。なかなか合う靴がないと、いつもぐちを聞かされているのだ。ちょうど私がいつも母に向かってしたように。
 

高校時代、私は男物の靴をはいていた。「大きな靴やなあ。一回はかせて」と、クラスメートに言われた時、私はあまりにも自尊心が強すぎて、「嫌や」と言えなかった。なんでもない風をよそおって、私は靴をぬいだ。みんなが見守っていた。次の瞬間、その子は大きな声をはりあげて言った。
 「がぼがぼやわ。これ男物と違う。」
 私は「さあ、知らんわ」と短く言うと、靴を返してもらい、そそくさとはいて、自分の席に戻った。別の声が席まで追っかけてきた。
 「かわいそうに、あんな真っ赤になった顔、見たことないわ」
 この悔しさを私はよく母にぶつけた。母は暇さえあれば、根気よく少しでも大きくて、女物に見える靴を、と探してくれた。
 

男性が、銀行で見かけた見知らぬ30女に「お嬢さん」と声をかけて、靴屋の名前を聞くには、一体どれだけの勇気がいっただろう。このお父さんも、一生懸命娘さんのために靴探しをしているのだ。相変わらず微動だにしない。
 私はとっさに何気なく、ある靴屋の名前をあげた。すると、お父さんはただ「ありがとうございました」と言い、深々と頭を下げて立ち去った。その後ろ姿は、張り詰めていた緊張から解き放されたように、肩がだらりと下がり、よたよたしていた。その疲れたような後ろ姿に、靴屋の前でかがみこんで、靴を探している母の丸くなった背中が浮かんでいた。
 

昔、私が小学校低学年だった頃、八百屋でほかのおかあさんたちにまじって買い物をしている母を、「醜い、不格好だ」と思ったことがあった。母一人だけがにょきっと背が高く、いやに目立ったからである。その目立ち方がなんとなく嫌悪感を催させたのだ。子供だった私は、その気持ちをそのまま母に言った。
 「おかあちゃん一人だけ背が高くて嫌やわあ。不細工やわ」
 すると母は、突然涙をポロポロ流しながら泣き出した。そして、
 「そんなこと言わんといて。私、劣等感、持つやないの」と言った。
 あの時、私はどうして母が泣き出したのか分からなかった。でも子供心に、「体が大きいことは絶対に言ったらいけないこと」と刻みこんだ。
 
 
 今、思えば母はかわいい女だったと思う、私に比べれば。母は泣くことができたのだから。あの日から7年もたっただろうか。私も母と同じ道を歩んでいた。でもそれは、母よりもずっとずっとひねくれた道だった。

 私は泣くかわりに勉強した。高校が進学校だったから、女の子としては大きすぎて、男の子に全然もてなくても、勉強さえできたら口の悪い連中を見返すことができたのだ。「うどの大木」や「大女、総身に知恵が回りかね」と言われるたびに、「よし、この男にだけは負けるまい」と自分に言い聞かせて勉強した。
 そんな気の強い私を見て、両親はよく「ああ、これが男の子やったらなあ」と言った。そしていつもそのあと、「女の子は、勉強なんかしなくても、気立てがよかったら、いい人がすぐに見つかって、それで人生が決まってしまうんやから」とつけ加えたから、私はますます自分が女であることが嫌になった。
 

男物の靴をはかなければならない悔しさと寂しさは、知らず知らずのうちに、私の心のなかで「女」に対する反抗と拒否に変わっていた。自分が女だと認めたくなかった。認めるのは、何か恥のように感じられたのだ。たぶんそれは、女物の靴がはけなかった自分を自分で「不完全な女」だと思いこんでいたからだろう。自分が「不完全な女」だとは認めたくなかった。認めるのは、自分に負けることのように感じていた。
 「あんたみたいに体が大きかったら、なかなか婿さん、見つからへんやろなあ。むずかしいよお」と、白馬にまたがった王子様を待つ、普通の女の子の、ありふれた結婚への夢がまるでお先真っ暗のように、会う人ごとのように言われて、「それじゃ、何かよく勉強して、『女』以外の道を探さねば」とやっきになっていた。男性はもう「異性」として磁石のように引き合うものではなく、自分と同じ目的に向かってともに走る「同志」か、それとも「敵」だった。
 

勉強のおかげで希望の大学に入学、やがて卒業して働き始めた。会社でも、自分は女だと考えないようにした。そうしないと、男性と伍して働いていけないように思ったからだ。が、結婚問題がいよいよ身近になると、母は毎日のように「いい人がいたらねえ」「いい人が早く現われたらいいのに」とこぼし続けた。そんな時、私は黙って言われるままになっていた。自分がこれまで、そして今もどんな気持ちで男性と接しているか。結婚相手を見つけるために、どうやって今になって、急に態度を変えられるだろう。でも時々、あまりにも母が「何にもいいことないわ。あほみたいや。一生懸命育てたのに」と繰り返して言うので、とうとう私が「体が大きいから無理でしょ。いいかげんにあきらめてよ」と投げやりに言うと、母はいつもおいおいと泣き出すのだった。
 「私が大きく生んだからや。ごめんな。あんたは何にも知らんと生まれて来たんやから。一生懸命育てたのに。大きいばっかりに、あんたがこのまま結婚できんと幸せになられへんのやったら、私、死んでもいいわ。死んで謝るわ。」
 私は再び口をつぐんだ。
 

銀行で出会った、あのお父さんの娘さんも体が大きいばっかりに、女として寂しい思いをしているのだろうか。でも私達、娘は、親が私たち以上の寂しさを味わっていることに気がつかない。見知らぬ私に声をかけるまで追い詰められた、あのお父さんのくたびれた後ろ姿が今も目に浮かぶ。
 母のぐちと泣き声を背中で聞きながら、29才の時、私はアメリカ人と結婚した。女性の社会参加を当然だと考え、料理好きの夫は、私の良き「同志」である。
 その夫が、神社で着物を着て結婚式をしたいと言い出した時、私は、あの高校時代の、私の靴
をはいたクラスメートの大きな笑い声を思いだしていた。心は固くこわばっていた。こわかった。靴と同じだった。私は結婚衣装がないのがこわかったのだ。「大きすぎて、女の子らしいことは望めませんよ」と、もう一度思い知らされるのがこわかったのだ。
 

結婚が決まった時も、私はまず式を拒否した。
 「式なんて、しなくてもいいじゃない。ただ届けを出すだけで、結婚は成立するんだから」
 でも、一生に一度のことなんだから、という周囲の声を押された。
 アメリカ人の夫は、好奇心も手伝ってか、控えめながらも、着物でしたい、と言い続けた。私は、特に理由は言わずに、あくまでも反対した。
 「どうして、一生に一度なのに」
 その嘆願するような口調に、私は勇気を出して言った。
 「着物がないのよ」
 「どうして」 
 「大きいから」
 「何が」
 「体が」
 

その通りだった。貸衣装屋の人が言った。
 「申し訳ないですけど、やっぱり打ち掛けというのは、後ろをひきずるようにするものなので、背の高い人が着ると、背中を丸め、体をかがめて歩かれます。やっぱりそれではおかしいのでねえ。」
 ないということになると、夫もあきらめざるを得ない。
 「一生に一度の着物が着られないなんて」
 私が、自分の中で認めまい、認めまいとしている気持ちを、夫が素直に口にした。
 

着物がだめなら、ウエデイングドレスで、ということになった。でも私は、またしぶり続けた。表向きは、神社でウエデイングドレスなんておかしい、という理由である。「もう平服でいいじゃないの」と私は言い続けた。でも夫は、やっぱり一生に一度だから、どうしても式服が着たいという。とうとうあきらめて、貸衣装屋へ行った。
 案の定だった。体に合うウエデイングドレスはなかなかなかった。2、3軒回って、やっと一枚あった。貸衣装屋に山と積んであるいろいろなデザインのウエデイングドレスや、赤や黄や青の華やかなドレスの間を、「わあ、いっぱいあるわあ、どれにしようかなあ」と、うれしい悲鳴をあげながら、選ぶことはできなかった。それしかなかったのだ。もちろん式用の白い靴はなかった。だから、色の薄いサンダルでもはいて下さいと言われた。それでもまだ、ドレスのすそから足が見えたので、そのサンダルすらぬがなければならなくなった。
 嫌だった。嫌でたまらなかった。何のために、こんな目にあわなければならないんだろう、と思った。結婚するのに、どうしてこんな物を着なければならないんだろう。最初、私が「結婚式なんかしたくない」と言った時、父は「かわいげのない女や」と言った。でも初めから、「ないないづくし」になるだろうと分かっていたのだ。それでも、喜んで、自分から心の傷を開いてみせなければならないのか。
 神社で、はだしでウエデイングドレスを着た花嫁。女として素直に望む通りに、飾る喜びを味わえない寂しさが、私の心の片隅で深くよどんでいた。
 

しかし、結婚式当日、私はもっと悲しいものを見た。
 式が済んで、私は着替えのため、更衣室に入った。母もいっしょだった。私が問題のウエデイングドレスを脱ぐと、母はすかさず、「私も着てみたい」と言って、ドレスを取り上げ、体にあてたのだった。鏡に映った、しわが刻みこまれた55才の顔に、少女趣味風にレース飾りがゴテ
ゴテとついた服は、奇妙な取り合わせだったが、母は無表情に、じっと自分の姿に見入っていた。
そして、しばらくして、「私はこんなきれいなもの、着たことがないから」とつぶやくように言うと、ドレスを床に落とした。
 

母は家の事情で、式場で式をあげずに、もちろん結婚衣装を着ることもなく、31年間の結婚生活を送ってきた。最近の、派手な結婚式、披露宴の風潮に対しては、いつも「そんな派手なことをしなくても、長い間仲良く暮らすことが一番大事なんやから」と言い続けてきた。その母が、
ウエデイングドレスを体にあて、鏡の中をのぞきこんだのである。
 結婚衣装なんか着なくても、幸せに結婚生活を送ってきた母。それでも、やっぱり、着ることなしに終わった結婚衣装に、心残りがあったのだろうか。それが女なのだろうか。
 

私のウエデイングドレスは短めで、すそから足が見えた。でも、鏡に映った、母の寂しげなドレス姿を見た時、私はやっぱり着てよかった、と思った。結婚衣装がいつまでも女の夢として残るなら、少々短めでも、それがなんだろう。
 私のウエデイングドレス姿を一番うらやましく思ったのは母ではなかったか。そしてまた、一番喜び、ほっとしたのも母だろう。私が結婚して、幸せになることだけを願っていた母にとって、ドレスのすそからのぞいているはだしの足なんて、目に入っただろうか。
 

男物の靴をはいていた高校時代から、やっと見つけた短めのウエデイングドレスを着るまで、13年の時間が流れていた。銀行で出会った、あのお父さんのように、私の母も通りすがりの人に聞いてまで、靴を探していたかもしれない。そんな親の一生懸命な気持ちに、まったく気付こうとしなかった娘が、やっとウエデイングドレスを着て、結婚式をした時、「ああ、もうこれで靴を探さなくてもいい」と、この10年間以上、ずっしりと両肩にのしかかっていた重荷をおろしたことだろう。
 

結婚写真ができあがってきて、私は、一生に一度の自分の晴れ姿を見た。すそから足こそ見えなかったが、ドレスは、ふんわりと床から浮かびあがっていた。そのドレスをじっと見ていると、「これでよかったんだ」という思いがこみあげてきた。それは私にとって、長い間、心配をかけた親からの独立であると同時に、劣等感にこりかたまっていた私が、初めて女である自分を素直に受け入れた、私自身の新しい出発でもあった。
 体が大きくて、靴がないばっかりに、女であることを拒否されていると思いこんでいた私が、いやいやながらもウエデイングドレスを着た時、それが女としてどんなに幸せなことか、私は初めて気がついた。母は30年も心の中で、着ることのできなかった結婚衣装に思いを寄せて、寂しさをかみしめているのだ。
 

若い時、「大きいなあ」と言いながら寄ってきた男達を、追いかけていって追い払ったという母。女の寂しさをよく知っていたからこそ、人一倍、私が幸せになることを願い、一生懸命靴を探してくれたのではないだろうか。
 飾る喜びー「女」であることは、自分の心の中から生まれてくる。素直に、「私は女なんだ」と自分に言ってみた。すると、心の中がぱっと広くなったような気がした。なんて気持ちがいいんだろう、素直に自分を見つめるのは。
 

今、結婚写真は、押入れの奥深くしまいこんである。できることなら、もう二度と、昔の自分の狭い心を思い出すことがないように、と。そして靴箱には、結婚して生まれて初めて、それもやっと見つけて買ったハイヒールが一足、誇らしげに私を待っている。
 ハイヒールをはいた、1メートル82センチの体は、かけがえもなく美しい。
 (「靴とウエデイングドレス」1985年第2回ノンノ・エッセー賞作品集から)

 

後記: あとで、審査員の一人だった某大手新聞社の女性編集委員が、他の審査員がこの作品を一等賞?にしようと提案してくれたとき、「これからの女性は身体が大きいぐらいで悩んでほしくない」と言って、提案はぼつになったと聞いたように記憶しています。まあ、25年近く前のことですから、さもありなん、とは思いますが、その女性編集委員の視点は、悩まなくてすむ人間、しかもエリートの傲慢さと思うし、第一、ジャーナリストの視点ですかね。。。(と、今も腹立たしく思ってます。。。笑)